第2話 「呪い」

 始めは、些細な様子の変化だった。


「あなた、私を見下しているのでしょう⁉ 庶民のくせにって!」


 ある日、彼女は使用人をそう怒鳴りつけた。使用人の女は驚きと委縮で固まり、思わず部屋を出て行ってしまったらしい。当の本人は、自分の口から出た言葉に酷く落ち込み、自室にこもって一日中泣いていた。

 そんなこと思っていない、考えたことすらもないのに、と彼女は嗚咽した。自らの口から意図せず出た言葉に彼女は狼狽え、そして怯えた。

 幸い、その使用人とはすぐに彼女が謝罪した上で和解したのだが、それから彼女は度々いきなり人が変わったかのように暴言を吐くようになった。

 その発作が出なければ、彼女は以前と変わらず快活で明るく過ごしていた。それは二、三日続けて現れることもあれば、一か月程出ないこともあった。医者に診せたが詳しい原因は分からず、処方された薬が効いて治まったかと思えば急に現れるのだ。


「邪魔! こんなのさっさと片付けなさいよ!」

「ねえ私のこと馬鹿にしてるわけ⁉ 馬鹿にしているんでしょうがっ!」


 発作的な怒声の後、彼女は青ざめて顔を覆い、何度も謝罪を繰り返した。彼女は自分の言葉が彼らを傷つけることを――何より、彼らから嫌われてしまうことをとても恐れていた。

 彼女が宮殿で過ごした月日は、使用人たちが「彼女がそんな事をいう訳が無い」と思わせるには十分だった。怒号の後に自らの口元を抑えて肩を震わせる彼女を、使用人たちは必死に宥めた。

 病気の所為だと分かっているから、本当の言葉でないと分かっているから、としきりに彼らは伝えたが、擦り減った精神は徐々に彼女の身体をも蝕んでいった。

 症状が出てから数日、彼女は部屋に籠り寝込むようになった。泣きそうな顔で心配するナターシャに、青白い顔の彼女はベッドに横になりながら力なく微笑むだけだった。

 僕もリーリヤも、それが「呪い」の所為だと分かっていた。彼女が幸せになろうとすればするほど、その発作は現れた。高名な祈祷師に事情を話し診てもらったが、根本的な解決には至らなかった。

 時間の経過とともに、「呪い」は更に苛烈になっていった。漸く二人目の子を授かった頃には、彼女はもうまともに出歩くことが出来なくなった。繰り返す「呪い」の発露に彼女の心は疲弊しきって、嘗ての眩しい笑顔も天真爛漫な振る舞いもすっかり失われた。

 僕らの二人目の子供――その子は少し小さく生まれた女児だった。すやすやと眠っている我が子とそれを撫でる憔悴した彼女を見て、僕は数日考え込み――この子を男児として育てると決めた。彼女の身体にこれ以上の無理を強いることが出来なかった。

 彼女は酷く反対した。娘の心を捻じ曲げることになると、健全な人生を初めから諦めさせる行為だと、強く抵抗した。彼女がいくら憤ろうと、僕はその決断を覆さなかった。

 せめてもの願いとして、彼女は娘に「娘として」の名を与えて欲しいと言った。僕らはその女の子に、表向きの名とは別に「アレキサンドラ」という名前を与え、そのように呼んだ。


 アレキサンドラが産まれてからは、もう彼女は彼女でなくなった。

 一層悪化した「呪い」は、彼女の日常の半分近くを埋め尽くした。彼女の世界は夢うつつだった。一日中、「呪い」でおかしくなっているか、うつらうつらしているような状態だった。

 美しかった鮮やかな黒髪は、自ら引きちぎってボロボロになっていた。陶器のようだった肌は涙や汗の所為か酷くかぶれて赤く痛々しくなっていた。


「……もう、分からないの、私、私の気持ちなのかもしれないのよ……これが、『呪い』なのか、そう、おもっているのか、分からないの」


 彼女は酷く泣きながらそう言った。彼女は最早自分が思うことが「呪い」なのか「本心」なのかも分からなくなっていた。口に出た言葉が自分がそう思っていたように感じ、心の中の気持ちすらも「呪い」によって引き起こされているように感じた。

「呪い」が発露していない彼女と会話をした時、彼女はずっと涙を垂れ流していた。彼女の寝ているベッドの傍で、僕は「気にしなくていい」という言葉ばかり返していた。そのようにしか返せなかった。


「ああああ! 死ね、クズめ! 早く消えろよお前!」

「私の物に触るなっ! 勝手に場所を変えるなよ! 変えただろお前!」


 彼女は喉から血が出るくらい奇声を上げ、腕が痣だらけになるくらいに暴れた。一頻り喚き散らした後、まるで電気が切れたみたいに呆けて動かなくなるのだった。

 日々呪詛を撒き散らす彼女に、初めは変わらず彼女の側にいた使用人たちも徐々に離れていった。皆、それが「呪い」の所為だと分かっていた。それでも毎日浴びせられる罵声は耐えかねるものだった。

 結局、残ったのはセレスや僅かな使用人たちだけだった。


「何をコソコソ見ているの? 後ろめたいことがあるんでしょ⁉ 吐きなさい!」


 ナターシャは初めて母親に罵倒された時こそ酷く怯え大泣きしたものだが、彼女は聡い子で、すぐに母の事情を理解し気丈に振舞うようになった。


「あんたが産まれてから不幸ばっかり! あんたなんか産まなきゃよかった! 産まれてくるなよ! あんたなんかあんたなんかあんたなんかあんたなんか」


 アレキサンドラはまだ状況をあまり理解していないようだった。両頬を掴まれて投げつけられた「呪い」の言葉に、幼い彼女は首を傾げて目をぱちくりさせていた。

 娘たちへ投げかけられた言葉は、彼女らよりも母親の精神を破壊した。自分の子供にぶつけた言葉を彼女はすべて覚えていた。自分の意識が鮮明になった瞬間、その事実が彼女の胸をずたずたに切り裂いた。

 彼女一人になった部屋からは、張り裂けそうな泣き声が響き渡っていた。かける言葉を見つけられなかった僕は、部屋の外でただの悲痛な嘆きを聞くことしかできなかった。


 やがて、彼女は殆ど寝たきりになった。「呪い」に加えて――これも「呪い」の一つかもしれないが、心臓を悪くしたのだ。

彼女は一日の殆どをベッドの上で過ごし、常に中身のない空っぽのような、放心状態になっていた。時折体調が良いときは、僅かな時間を娘たちと穏やかに過ごした。

穏やかで優しい時間は長くは続かなかった。彼女は常に「呪い」の恐怖に怯え、それが訪れるとまた彼女は彼女でなくなった。「呪い」はただ淡々と、彼女の心身を削り取っていった。

ある夜、僕は彼女の部屋を訪れた。

その頃には彼女と過ごす時間は大きく減り、夜を共に過ごすことはアレキサンドラの誕生以来一度もなかった。

部屋に入ってきた僕を彼女は目を丸くした。眠るまでここに居ると伝えると、「寝つきが悪いから……」と遠慮するような言葉を何度か言った。僕は元々不眠症で殆ど眠れないので、気にしないで良いといつものように言って、彼女のベッドの側に置いた椅子に腰掛けた。

特に何かを話すでもなかった。僕は何も言わず、彼女も何も言わなかった。ただ僕は彼女が眠りにつくまで側にいて、眠ったのを確認して部屋を後にした。

それから毎夜、僕は彼女が眠るまで側にいた。僕らは僅かな言葉しか交わさなかった。僕はただ、彼女の側にいたいと思った。

その夜の彼女は様子がおかしかった。

僕は変わらず彼女の側の椅子に腰掛け、彼女を眺めていた。不意に、彼女は上体を起こして真っ直ぐ僕を見た。


「どうしてこんなことするの?」


 はっきりとした声だった。こんなに意識の鮮明な彼女と話したのは久しぶりで、僕は言葉が出てこなかった。黙っている僕を見て、彼女はぐしゃりと表情を歪めた。


「どうしてって聞いてるの‼ 答えろ‼ 聞いてるの‼」


 劈くような声に、僕はびくりと肩を揺らした。彼女の「呪い」の言葉を聞くのは初めてではなかった。ただ、いつものそれは苛立ちを当たり散らす癇癪のようなものだった。

 明確に僕に対して言葉を投げつけられるのは、初めてだった。


「答えられないの‼ そうよね、当然ね! あなた、愛していないくせに、どうして⁉ 愛してたのに‼」


 瞳が泣きそうに歪んでいた。僕は何も言わず、それを見つめた。


「あなたなんか大ッ嫌い‼ 一度も好きだったことなんかない! 愛してくれないお前なんか大嫌い‼ 大嫌い大嫌い‼ 死んでよ、死ねばいい‼」


 僕は彼女の叫びを黙って浴びた。僕は何も言わなかった。

僕は暴れる彼女の腕を掴んだ。


「は⁉ 離して、離せっ‼ 死んで、お前なんか死ね‼」

「……すまない」


 全て事実だった。それが「呪い」なのか彼女の本心なのかは分からなかったが、僕はそのように言われても仕方なかった。何も言い訳が出来なかった。

 僕が掴んだ手を下にやると、彼女はそれ以上抵抗しなかった。僕は椅子から立ち上がり、ゆっくりとベッドに上がった。


「な、なに! やめて! 好きでもないくせに、愛してないくせに! 償いのつもり⁉」


半ば強引に布団の中に入ると、僕は彼女の両手を取った。彼女の赤い瞳に、無表情の僕が映り込んでいた。


「僕は僕の意思で、好きでこうしているよ」


 僕は何事も上手く言えなかった。僕の人生の大半は、誰かに何か伝えたいと思わず、伝える必要が無いと思っていたからだ。だから何も上手く伝わらなかった。

 僕がそう伝えると、彼女は漸く少し落ち着いて、しかし何も言わなかった。少しの沈黙が流れた後、泣き喚いて掠れた声で僕に言った。


「……私、もうずっと……私の気持ちの何が本当で、何が本当じゃないのか分からないわ」

「……そう」

「でもね、これだけは確かだって分かるわ、私……こんなだけど、『幸せ』なのよ、こんなだけど……愛する友人たちがいて、愛する娘がいて……」


 彼女は綺麗な瞳で真っ直ぐ僕を見つめた。ボロボロの髪と傷だらけの顔で、くしゃりと僕に微笑んだ。


「……愛するヴィティがいるのよ。これは本当の気持ち、私の気持ち。この『幸せ』は、私だけのものだわ」


 僕もそう思う、と僕は心の中で返事をした。それを声に出すことはできなかった。

 それからも僕は毎晩彼女の側に居た。彼女が差し出した手を繋いで、少し話をして、明け方前彼女が眠るまで側に居た。時々彼女の隣に横になって、うっかりそのまま朝まで眠った。彼女が少し体調の良い時は、娘たちを呼び、流石に四人では狭いベッドの上で四人眠りについた。

 それはあまりにも幸せな時間だった。

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