A prayer for you who has overcome the curse
須賀雅木
第1話 僕たちの結婚は呪われていた。
僕たちの結婚は呪われていた。
彼女が呪いを受けたのは十六の時――とある貴族の娘から彼女の恋人を奪ったことがきっかけだった。
奪ったと言っても男が勝手に惚れたのであり、彼女にとっては何故そうなったのか知る由もないことだったのだが、娘の怒りの矛先は彼女であった。
ありふれた商家の一人娘には似つかわしくない程に美しい容姿と純真無垢で快活な振る舞いの彼女は、多くの男から視線を受け、多くの女から妬ましく思われていた。
娘本人と一つ二つでない命を代償として娘が願ったのは、「リーリヤが決して幸せになれないこと」だった。
それからリーリヤはまず、恋人との仲を引き裂かれた。付き合った男が皆、不思議なことに不幸になったからだ。
ある男は馬車に轢かれ大怪我を負い、ある男は賭け事で財産を失い、ある男は病に侵され右脚を失った。そのうち彼女の周りから人はいなくなった。皆は彼女を疫病神のように遠ざけ忌み者扱いした。
それでも、彼女の傍にいることを選んだ勇敢な男がいた。男は彼女を心から愛し、そして彼女もそんな男を心から愛していた。
娘が願ったのは、「リーリヤが決して幸せになれないこと」だった。願いは、リーリヤが幸せになることを許さなかった。
ある日突然、リーリヤは心から愛した男と引き離された。彼女が「国王の伴侶」に選ばれたからだ。
彼女に届けられたのはその「決定事項」が記された令状だった。そこに彼女の意思はなかったし、彼女が異を唱える権利はなかった。
ありふれた商家の一人娘が、王に見そめられ「妃」になる――夢物語のような、憧れるような幸せな響きだが、そんな聞こえの良いものではなかった。
まず、彼女は唯一の肉親であった祖母との縁を断ち切られた。その後の生涯で、彼女が再び祖母と相見えることは叶わなかった。
そして、「妃」という立場は彼女の自由を縛った。朝から晩まで行われる「妃」としての教育。外界との関わりの遮断。彼女は宮殿から出ることが出来なかったし、その宮殿の中ですら思い通りに振る舞うことが出来なかった。
自由に空を飛び回っていた美しい鳥は、狭い鳥籠の中に閉じ込められてしまったのだ。
僕が初めてリーリヤを見たのは、大聖堂での婚礼の儀だった。
美しい黒い髪が純白のドレスによく映えると思ったのを覚えている。纏め上げた髪がこめかみの辺りから一房垂れているのが、艶やかでまるで絵筆で描いたようだった。
とは言え、僕にとってそれはどうでも良いことだった。僕は女性に興味がなかった――というか、人間に対してそのような、世間一般が抱くような興味関心がなかった。
血統調査と身辺調査の結果、僕にとって最も「安全」だった――彼女が僕の伴侶となったのは、ただそれだけなのだから。僕の感じる恐怖や不安が出来る限り小さくなればそれで良くて、愛やら恋やらは不必要なのだ。
「僕は必要以上に君に関わるつもりはない。君に不都合が無いようにさせるから、君もやりたいようにやるといい」
僕が初めて彼女とした会話は、振り返ってみるとあまりにも最悪だ。今となっては自省している。後ろで纏めた鮮やかな黒髪がびくりと揺れて、赤い瞳がぐっと見開かれたのを今でもよく覚えている。それに心が全く痛まなかったことを、今でもよく覚えている。
呪いは、リーリヤが幸せになることを決して許さなかった。愛する人への想いを断たれ、望まぬ相手と結ばれるのだ。
新婚初夜。行為は非常に義務的なものだった。夫婦になったことを示す為の、子供を作る為の、ただそれだけのものだった。そこに当然愛は無かった。
全てが終わった後、静かになった部屋で僕たちは黙ってベッドで横になっていた。柔らかなベッドに身を沈めて、なんとも言えない気怠さに包まれながらもやたらと目は冴えていた。
重い沈黙に、僕はさほど気にならなかったが、彼女はそうでもなかったらしい。耐えかねたのか、何か決心をしたのか、ごくりと一つ息を飲んで、彼女は僕に話しかけてきた。
彼女が『呪い』について語ったのはその時のことだ。正直僕は自分がそれにどのような言葉を返したのか覚えていない。ただ、僕の背後から気まずそうな作り笑いが聞こえてきたような気がする。
「決めた! 私、この呪いに絶対負けないようにします。どんなに呪いが私を不幸にしようと、私はそれを楽しんでみせる。どんなに不幸でも、幸せだって思ってやるんです!」
僕は、彼女のこの言葉が記憶に焼き付いている。背中の向こうから聞こえてきたよく通る声が薄暗い部屋に明るく響いて、それは希望とやる気に満ちていた。
「……それは、今が不幸だと言っているのでは」
僕がそう返した後、暫し沈黙が流れた後、誤魔化すような気の抜けたような笑い声が聞こえたのを、よく覚えている。
リーリヤは籠の中の鳥だった。
籠の中で、自由に遊び回る鳥だった。
「ヴィティ! 私初めてきちんとしたテーブルマナーを教わったわー」
彼女は押し付けられる「教育」を喜んで受けた。事細かに指定されるマナーに、退屈な文学の勉強に、複雑で理不尽な貴族の所作に、その目をキラキラ輝かせた。
「ねえヴィティ! 古典文学ってこんなに面白いのねえ」
天真爛漫に笑う彼女のことを、初めは嘗て彼女を嫌った女たちのように冷ややかな目で見たり理解できずに戸惑っていた教師たちも、すぐに心を奪われた。くるくると変化する表情は、どんな苦難にもめげずに立ち向かうその姿は、人々を惹きつけた。
彼女は特に、政治学の教師を務めたセレスという女と親しくなり、授業が終わっても二人は普通の友人同士のように頻繁に茶会を開いていたそうだ。
「ヴィティ! 見てこれ、私、算術ならお手のものなのよ。伊達に商家の一人娘やってないわー」
夕食の席で、眠る前のベッドで、彼女はそれを楽しげに語った。僕は自分がどのように返事をしたかを覚えていない――ということはつまり、碌でもない言葉を返していたのだろう。
「ヴィティ見て! 今日はダンスを教わったのよ、あはは! 筋が悪すぎてこのザマだけど!」
「……その、ヴィティと呼ぶのはやめてくれないか……」
「ええ、じゃあ『ヴィティアス様』? 『陛下』の方が良いかしら、それとも『アナタ』?」
「…………ヴィティで良い」
彼女の跳ねるような声が僕の名前を呼ぶと、僕はゾワゾワするような――心地が悪くて心臓が変になった。僕はそれが何なのか分からなかったが、僕の頭はそれを「不快」だと錯覚していた。彼女もそれを悟っていたと思う。
それでも彼女は柔らかい声で僕の名前を呼んだ。きっとそれは、「呪い」への抵抗だったのだろう。
僕は彼女との夫婦生活に「幸せ」を見出す気はなかったが、リーリヤはそうではなかった。それを諦めていなかった。
僕たちの情事は義務的なもので、一度たりともそうでないことはなかった――僕はそう思っている。少なくとも、僕は。
「……何をしているんだ」
「あのね、折角夜毎するのなら、楽しい方がいいでしょう? セレスに聞いてきたの、色々と」
「……」
「それはもう、鼻息荒くして教えてくれたわ」
彼女は時折、よく分からない知識を持ってきて挑んできた。出所の知れない謎の技術をよく試された。
「君は娼婦ではないのだから、そんな事しなくていい」
「……貴方って潔癖! 潔癖症!」
「……別に潔癖ではない」
僕が苦い顔をしてそれを諌めると、彼女は子供のように頬を膨らせて喚いた。彼女はジトッとした何か言いたげな瞳で僕を見つめ、僕が何も言わなくなったのをいいことにやりたい放題した。僕は成す術なくされるがまま、終わる頃には動けないくらいにぐったりするのだった。
彼女は楽しかったのだろうか。終わった後、いつも満足気に笑みを浮かべ、決まってこう言った。
「ヴィティ、愛しているわ」
僕は一呼吸おくと、いつも決まって「そうか」と返した。
リーリヤの言葉が彼女の本当の気持ちであったのかは、今となってはどうやっても知り得ない。取ってつけたようなその言葉は、彼女が自分に言い聞かせているようだと、捻くれた僕は思った。
僕にとって、彼女はただ「他人」の一人でしかなかった。世界は「僕」と「僕以外」でしかなかったからだ。「僕」の外へ意識を向けるとそこには不安と恐怖が溢れていた。
僕は傲慢だった。僕は僕一人で生きていかなければいけないと――生きていけると思っていた。僕にとって、ただ何の益も生まない恐ろしいだけの「僕以外」は不要だった。僕は「僕以外」を黒く塗り潰した。
そうして、僕の世界は安寧に包まれた。冷たい暗闇にいると安心して、心が落ち着いた。
真っ黒い暗闇に現れたきらめく赤い瞳は、僕の心をざわつかせた。直視できなくて柵で囲って閉じ込めていた「僕以外」が、こちらに触れようと手を伸ばしてきたからだ。
自らを不幸にしようとする意図に抗う姿はあまりにも強い光に見えた。僕は胸のざわめきを、僕の秩序を乱そうとする彼女の輝きのせいだと思った。冷たい暗がりに慣れすぎた僕の心はひん曲がっていたからだ。
本当はそんな複雑で面倒臭い当てつけのような理由などではない事を、僕は分からなかった――分かろうとしなかった。
幾らかの月日が流れた後、彼女は身籠った。日に日に大きくなる腹を愛おしそうに撫で――時折急に気分が悪くなってソファにひっくり返ってぐったりしていたのは、『呪い』の所為だったのだろう。
「ねえ、この子今蹴ったわ! ほら、少し触れてみたら?」
彼女はしきりに柔らかい声で僕を呼んだ。僕にとって彼女の懐妊は予定調和でしかなかったから、神秘的だとかで嬉しそうな彼女と同じ気持ちにはなれなかった。
言うことを聞かないと一日に何度も呼ばれるので、渋々彼女に手を引かれるまま腹に触れた。僕が怪訝な顔をして黙っているのを見て、彼女は呆れたように笑うのだった。
産まれた子は女児だった。リーリヤの長い苦痛の末、明け方差し込む陽光も共に、僕たちの娘はこの世に生まれ落ちた。
そこでは歓喜の後、落胆があった。子を取り上げた助産婦は、子の性別を確認して僅かに眉を下げた。立ち会った使用人たちは、それを聞いて小さく息を吐いた。勿論それは彼らの本心の全てではなかったのだが、その空気の濁りは彼女の気持ちを冷たくさせただろう。
陣痛が始まった知らせを受けながらも別段普段と変わらなかった僕は、早朝、身支度を整えている最中に激しいノックに呼び出され、着の身着のままで部屋から連れ出された。
僕がその場に辿り着いた時、疲れ切った様子でベッドに横になっている彼女がまず目に入った。彼女は僕を見て嬉しそうに目を細めた後、ハッとしたように申し訳なさそうな顔になった。
出産というものを知ってはいたが、その場に立ち会うのは初めてだった僕には、一つ戦闘が終わったかのような満身創痍の空気感に圧倒されるばかりだった。夜通し残りの業務を片付けていたのも相まって、開け放ったドアの前で呆然と立ち尽くしてしまった。
「陛下、元気な女の子ですよ!」
助産婦に声をかけられて我に帰ったが、どう振る舞えばいいのか分からず硬直する僕に、彼女はぷっと吹き出した。この時僕はブラウスのボタンもまともに閉めずに(その上ボタンを掛け間違えていた)、左右違う靴下を履いたあまりにもみっともない姿だった。
「抱いてあげて、その子を」
彼女に促されるがまま、動揺の治らぬままに助産婦から赤子を受け取る。あの時、腕の中の小さな命があまりにも軽くて、胸がどきどきして、僕の頭には知らない感覚が走った。
「はは……」
肺から勝手に空気が漏れたようだった。
僕にも分からないが、したことのない顔をした。力が抜けるような、突っ張っていた頬が勝手に緩んでしまうような、それが不快ではなかった。
「……ありがとう」
胸の中で溢れた言葉が、つい口に出た。
刹那、リーリヤは初めて見る顔をしていた。驚いたような、少し泣きそうに口元を歪めて――潤んだ瞳を細めて口元を隠した。
情けないことに、僕はこの時点でも彼らの失意の空気に全く気が付いていなかった。僕が気がついた頃には、僕のせいですっかり緩み切った空気になっていた。
リーリヤは口元を隠して笑うばかりで、僕の言葉に返事はしなかった。
それから僕の世界の秩序は狂ってしまった。
世界は「僕」と「僕以外」だけではなくなってしまった。僕と彼女から産まれた存在は「僕以外」なのか? その子は、黒く塗り潰された「僕以外」と言えるのか?
彼女は、その子は、「僕」と「僕以外」ではない何かになってしまった。意識するつもりはないのに、そこに視線が行ってしまうのだ。
僕の世界の秩序は狂ってしまった。「僕以外」ではない存在が現れた途端に、新しい不安と恐怖が次々と頭の中を支配した。僕の頭は勝手に考えてしまうのだ。ぐるぐると重く暗い思考は、浮かんでは脳に焼き付いてこびりついていく。
「……ふ」
また空気の漏れる音。揺籠で眠たげに口をむにゃむにゃさせるナターシャを見つめる。ハッとして振り返ると、リーリヤはニヤつく口元を必死に堪えながら腕を組んでいた。抗議するように表情を正すと、はいはい分かってますよとばかりに満面の笑みを向けられるので、僕は決まりが悪くなって目を逸らした。
彼女と同じ真っ赤な美しい瞳の女の子。触れたら壊れてしまいそうに儚くて、柔らかくてあたたかい子ども。僕の世界の秩序は狂ってしまった。こんなものは予定調和のはずなのに、知らない感覚が、新しい感覚ばかりが僕を支配する。
ナターシャが女児だった為、僕たちはまた子作りを続けなければならなかった。相変わらず僕にとって、それは義務的で儀式的な意味以上のものではなかったのだが――狂った秩序は、僕をおかしくさせた。
その夜、僕は彼女に僕の話をしてしまった。
「……僕には、頭の足りない兄がいた」
病弱でどこか抜けていて、優しく大らかで思いやりのある兄が大好きだったこと。
民に愛され、偉大で有能な王だった父のことを尊敬していたこと。
おっちょこちょいな兄がよくいろんな怪我をしていたこと。
あの日、父の部屋から逃げ出してきた兄が父に瓶で頭を打たれたのを見たこと。
兄が父の厳しい折檻の末に死んだこと。
『くやしい、しにたくない、ころしてやりたい』
兄が最期に僕の腕の中でそう言ったこと。
兄は優しくて頭が足りなかったが、心は人々と同じように強い恨みで満たされていたこと。
父が使用人たちに兄のことを「やっと死んでくれた」「これで我が血筋も浄化される」と笑っていたこと。
僕が、父を階段から突き落として殺したこと。
「ちょっと問い詰めるつもりだった、そんなつもりはなかった」
僕が話すのを、背中の向こうで彼女は黙って聞いていた。
父は「病死した長男」の死を思い詰めた末に「脳卒中で死んだ」という。
「何も信じられなくなった。誰が真実を知っているかも分からなかった。誰が何を考えているのかが怖くなって、毎日が不安と恐怖で埋め尽くされた」
僕が淡々と話す声と、彼女の小さな息の音だけが静まり返った部屋に響いていた。
「何が正しいのか分からなくなった。父を偉大だと信じていたのも、兄の言葉を信じたのも、兄の為に怒ったことも、兄を大好きだと思ったのも、もう何が正しいのか分からない」
僕の心臓は思っていたよりずっと落ち着いていた。自分の心拍の音が心地よかった。
「何かを信用しようとすると、不安で頭がぐちゃぐちゃにって、結局信用しなければ、興味なんて持たなければ良いと思うようになった。もう、誰の事も心から信用することが出来ない」
「……」
「……だから、すまない。君が望むような、幸せは手に入らない」
束の間の沈黙があった。僕は、新婚初夜の彼女の告白を思い出していた。あの夜とは違い、僕はあまりにも後ろ向きで、僕の告白には何の未来もなかった。
不意に、僕の背中に温もりが触れた。
「これでお相子ね」
軽やかな声色で少し笑った後、彼女は僕の項に口付けた。
リーリヤも、あの夜を思い出していた。
「……と言いたいところだけど、あなたの秘密の方が流石に重すぎるわね……どうしようかしら、私、もう秘密なんて何もないのだけど……」
程無くして彼女が真剣な声で言うので、僕は思わず少し笑ってしまった。彼女も釣られて笑った。今の僕にはよく分かる。その夜は満たされていて、「幸せ」だった。
彼女の体調が悪くなったのは、丁度その後のことだった。
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