疾走

 その次の日から、春人は陸上部に復帰した。

 顧問の先生には特に喜んでもらえた。

 「もう4週間くらいしかないからな。ビシバシやるから、飯食って着いてこいよ」

 そう言って背中を一発、叩いてきた。

 春人は坂崎先輩の後を引き継ぐ形で、トップランナーを走ることになった。

 二走目の新見先輩と話し合いながらバトンパスの位置などを少しずつ決めていく。

 一度試しに走ってみるが、あまりうまくいかない。

 「もうちょっと早くバトン出してもいいかも」

 新見先輩にそう指摘され、ちょっとずつ細かく体勢などを直していく。

 久しぶりの部活は懐かしくもあり、正直退屈でもあった。

 同級生や先輩たちは、明らかに自分の扱いに困っているように見える。

 自分としてはもう少し厳しくやってもらっても構わないのに、腫れ物を扱うような態度に疎外感を味わってしまう。

 結局、その日はそのままバトンパスの微調整や、通しの練習を主に行っていると、いつの間にか活動終了の時間になっていた。

 器具を片付けた後、顧問の先生が

 顧問の先生が少しだけ話した後、

 「気をつけ、礼」

 「ありがとうございましたーッ」

 部長の号令に合わせて礼をする。

 今日はもう解散だった。

 春人は新見先輩に近づいて話しかけた。

 「新見先輩」

 「ああ、どうした」

 「自主練してませんか? 今日やったとこ、もう一回確認したいんです」

 「ああ、いや、いいかな。この後予定あるし」

 そう言って新見先輩はさっさとブレザーに着替え、他の先輩たちの輪に混ざって帰って行ってしまった。

 ここで、自分は誤解をしていたのだと気づいた。

 先輩たちは自分を腫れ物扱いしているわけではなく、単純にやる気がなくなっているのだ。

 部内のいじめが発覚してから、この高校の陸上部のイメージは激変した。

 実力のある先輩がいじめの主犯格だったこともあり、部活内の実力が大きく低下したし、世間からの印象もかなり悪くなってしまった。残った部員も殆どは他の部活へ流れていってしまった。

 スポーツ推薦で入ってきた生徒たちや、あんなことがあっても陸上を辞めきれない自分のような人間で構成されているのが、今の陸上部であるのであれば、この異常なやる気のなさは頷けた。

 グラウンドに、生暖かい風が吹いた。

 このまま練習を続けることに、早くも嫌気がさした。

 自分ももう帰ってしまおうか、と思ったところで後ろから誰かに話しかけられた。

 「ハルト先輩」

 振り向くと、後輩の光川蒼が立っていた。今年入部してきた数少ない部員のうちの1人。

 「どうした」

 「自主練、やってきましょうよ」

 光川はじっと春人の目を見ていた。

 「そうだな、やろう。自主練」

 倉庫当番の部員から器具庫の鍵をもらい、バトンを取り出す。顧問に自主練をすることを伝えた。

 「一回、2人で流してみませんか? 本番想定で。今日は細々としたところばかりで退屈だったんで」

 春人がトップランナーを行い、光川にバトンを渡すことになった。

 スタートラインに立つと、コーナーを曲がった所に光川がいた。

 「オッケーですか?」

 光川がそう声を上げると、クラウチングスタートの体制になった。

 スタブロのないクラウチングスタートは、少し不安定で心許なかった。

 「いきまーす、オンユアマーク」

 光川の気の抜けた声で、逆に心が引き締まる。

 半年の間で、こういった勘が衰えていないことに安心する。

 「セット」

 静寂が場を完全に支配した。

 集中力が研ぎ澄まされ、限界ギリギリまできた。そこで、

 スタートを告げる、ホイッスルの音が鳴り響く。

 地面を蹴り、大砲のように身体を飛び出させる。

 前傾姿勢のまま、暫く加速し続ける。

 風が強く、自分の体に吹きつけて、気持ちよかった。

 カーブを曲がり終わろうとすると、光川が正面に見えた。

 松川が走り出す。それを追う。

 徐々に近づく背中に、バトンを突きつける。

 「はい!」叫んだ。

 光川がバトンを掴む感覚と同時に手を離し減速すると、光川はぐんぐんと先へ進んで行った。

 直線を走り抜ける光川は、加速し続けている。

 その姿は、まさに坂崎先輩のようだった。

 コーナーを曲がるところで、バトンを渡すそぶりをしてから、光川は足を止めて、こちらへ振り返った。

 「すごいっすね」「すげえな」

 その言葉は、ほぼ同時だった。

 次の言葉を譲り合ったあと、松川が最初に口を開く。

 「スタートダッシュ、完璧じゃないですか。タイミングとか、どうやってるんですか?」

 「最高速度、速すぎでしょ。どんな風に走ってんの?」

 図らずとも、お互い褒めることになってしまい、気恥ずかしい。

 場をとりなすように、走りが坂崎先輩に似ていたことを伝えると、

 「坂崎先輩のこと、憧れてるんで」

 という返答が帰ってきた。

 聞いてみると、坂崎先輩の走りをテレビで観てから本気で陸上を頑張るようになったらしい。

 「走るスタイルが同じだったんで、より強く魅かれちゃいました」

 と言っていた。

 「坂崎先輩を追いたい気持ちが強すぎて、不祥事とか無視しちゃいました」

 とも。

 共通の話題を手にしたら、仲良くなるのは速かった。

 部活後に二人で自主練を行う日々が始まった。

 5月の風は、走っている間だけ、涼しかった。


 部活づくしの生活の合間に、坂崎先輩のトップランナーの謎について調べていたが、手がかりが一つもなくて進展しなかった。

 光川にそのことを打ち明けてみても、特に心当たりは無いようだった。

 「僕も正直不自然だとは思いましたけど、チーム編成の都合でたまたまそうなっただけじゃないですか? 気になるなら顧問に聞いてみたらどうですか? チーム編成に確実に関わっているでしょうし」

 と言っていた。

 実際、一度だけ顧問の先生にそのことについて聞いたが、

 「チームメンバーの意見を反映した結果だ」

 と、帰ってきた。

 この言葉を聞いて、一つの仮説が浮かび上がった。

 この仮説がもし合っていたとしたら、何を意味する?

 仮定の先にある仮の答えは、あまりにも現実味が薄くて、そして、余りにも恐ろしいものだった。

 頭の中からその考えを排除しようとする。

 こんな仮説を立てるなんて、疲れている証拠だ。先輩にも悪い。第一、動機がない。

 しかし、どうしてか、その考えから抜け出すことは難しかった。


 急激に進展があったのは、ずるずるとこんな生活が続いて大会1週間前になった時のことだった。

 大会前の仕上げに入り、強度の強い練習が立て続けに行われる。

 体力の少ない春人は、正直、着いていくだけでも大変だった。

 坂道ダッシュやハードルなどの体力が奪われる練習が立て続けに行われた結果、自主練の前に体力を使い果たしてしまった。

 必然的に自主練は行われずに、光川との雑談が始まる。

 その話は、2年間音沙汰のなかったとあるバンドが電撃復帰するらしいという話題の中で起きた。

 「そのバンドは突然復帰しましたけど、先輩も突然復帰したじゃないですか。まあ、復帰した理由は坂崎先輩の代打な訳なんですけど、そもそも、なんで部活を休んでたんですか?」

 「え? いや、分かるだろ、普通」

 「え? 分かんないですよ、分かんないから聞いてるんじゃないですか」

 「じゃあ、簡潔に言うけど、いじめられてたんだよ」

 「え?」

 歯車がずれた感覚が春人に襲いかかった。

 きょとんとした光川の顔に、自分が何か間違ったことでも言ったのかと一瞬疑う。

 「一応聞くけど、去年この部活でいじめ問題があったのは知ってる?」

 妙な緊張が走る。

 いや、きっとこの歯車は、一年前から——。

 「はい、知ってますけど」

 光川が釈然としない顔で続ける。

 「いじめられてた人って、坂崎先輩じゃないんですか?」

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