事件
400メートルリレーの大会が1ヶ月後に迫っている事に気づいたのは、部室に掲げられた『大会まであと35日!』とでかでかと書かれた張り紙を見たからだった。
今日の朝に教室に顧問がきて、大事な話があるから昼休みに部室に来い、とだけ告げられたのを思い出す。
どうして、と訊ねても話があるからの一点張りで呼び出された理由も心当たりも無いまま春人は部室に来たのだった。
顧問を待っている間、春人は部室の壁や天井や机などをぼんやりと眺めていた。
久しぶりに訪れた部室は静かで春人以外の誰もいなかった。
色々な意味で賑やかだったあの頃の部室とは似ていてもかけ離れていて、初めて来た場所のように感じた。
少しの間待っていると顧問が来た。
国体の常連だったらしい彼は、ランナー膝によって前線を退いた今でもその肉体(特に脚)には現役時代の輝かしい記憶が残っているように見える。
「お疲れ。飯は食ってきたか?」
「ちゃんと食べてきました」
顧問は顔を合わせるたびにちゃんとご飯を食べているか聞いてくる癖がある。
運動したら飯を食え、勉強したら飯を食え、何もしなくても飯は食え、眠たい時はちゃんと寝ろという言葉を思い出して少し懐かしい気持ちになった。
指導者としての実力ももちろんあるが、何より顧問には人徳に優れていた。
スポーツマンとしての情熱と謙虚さを併せ持った顧問は、誰からも信用されていた。春人も当時、いじめ問題で悩んでいた時に受け取った「ネットを見るのをやめろ」というアドバイスに実際に効果があった時から、信用している。
「今日は部活のことで話があるんだけど、いいか?」
「はい」
朝の時点であまり職員室や教室では話したくないような話題であることは既に察していたので、十分過ぎるほど、心構えはしてある。
「わかった。これから言う事はあまり人に広めて欲しくないんだが、いいか?」
「はい」
ここまで念を押されると無意識の間に緊張してしまう。思わず机の下で指を組む。
「簡潔に言うと、坂崎が怪我をした」
体が硬直するのを感じた。
「坂崎、あいつ自転車通学だろ? それで昨日、学校の帰り道に、思いっきり転んだらしい。骨折だとよ」
言葉が頭の中で反響する。先輩が、怪我?
「部員には今日の部活の時間に伝える予定だから、辛いけど、少しの間黙っててくれよ」
「……はい」
顧問が心配そうに自分を見つめる。
「坂崎のこと、1番慕ってたもんな。ごめんな、こんなことになって」
「先生が謝ることじゃないですよ」
「いや、この件は選手の健康管理を怠った俺にも責任がある。そこは譲れない」
あまりにもまっすぐな視線に、目を逸らしてしまう。
「それで、春人。実はこっからが本題なんだがな」
少しばかり先生の声が柔らかくなり、悪いニュースではないと直感する。
「なんですか」
「坂崎自身が言ったんだけどな、次の大会、自分の代わりは春人がいいって」
「え?」
言葉が飲み込めず、思わず聞き返す。
「だから、次のヨンケイ(400メートルリレー)の大会に、坂崎の代わりに出て欲しいって、他でもない坂崎自身が言ったんだよ」
いままで避けてきた、頭の中でふわふわと漂っていた2択が、不意に自分の目の前に突きつけられる。どうにかして、逃げようと思う。
はやく、何かを言わなければならない。
「それで? え、僕は走るんですか?」
おかしなことを言っていると気づいたときには、もう遅かった。
「あのな、それは春人自身が決めることだ。俺が決めることじゃない。この部活で走るのがまだ辛いならやめればいいし、頑張りたいなら今すぐじゃなくてもいいから俺に教えて欲しい。それは春人、お前の自由だし、俺は春人の決定を反対することはないよ」
言葉から滲み出る良心が、胸を刺す。
「そうですね、はい」
「大丈夫か、ちょっと疲れてるだろ。ごめんな、一気に色んなこと伝えちゃって。俺はいつでも待ってるから」
はい、と答えた自分の声が、なんだか遠くで響いた気がした。
いつものダンススタジオの中で、いつものように体を動かそうとする。
「どうしましたか? すごく調子が悪そうですけど」
「大丈夫。なんともない」
先週はできていたはずのチャールストンが、上手くできない。
足を前後に動かす過程で必ずもつれてしまい、そのことがさらに自分を焦らせて泥沼にはまっていく。
「いや、明らかに大丈夫じゃないですよね。最近ずっとこの調子ですよ。できていたことができなくなるって相当ですからね?」
煽ってくる沼山に反応することなく、ただ水筒の中身を飲む。
「返事くらいしてくださいよ。確かに、先輩の事故のことはショックだったかもしれませんけれど、流石に立ち直ってください。新しいステップの練習もできないじゃないですか」
「余計なお世話だ」
「余計なお世話って、僕は新しいステップの練習ができないって言ったんですよ。それのどこが余計なお世話なんですか」
緊張感のある空気のまま、練習に戻る。
いたって当たり前だが、ステップはうまくいかない。沼山の手で音楽が中断された。
「練習中に別のこと考えてますよね。心、ここにあらずって感じでしたよ」
「そんなことねえよ」
「本当に大丈夫なんですか。こっちは割と本気で心配してるんですけどねえ」
やっぱり坂崎さんのことが気になるんですか、と言って、沼山は心配そうに春人を見た。
「坂崎さんは大会に出られるんですか?」
「そんなわけ、ないだろ」
沼山は目を落とした。
「やっぱり、そうなんですね。練習、頑張ってたようでしたけど」
「え? お前、先輩の練習を見たん?」
「はい。僕、帰宅部ですし、練習が終わった後とか、練習がない日はグラウンドの隅で覗いてました。あ、先輩の許可は取ってあるので」
顧問の先生とか、他の先生に見つかるとめんどくさいんですよ。ああいうタイプの先生、ぶっちゃけ苦手です。
ものすごい勢いで言い訳を重なる沼山の滑稽な姿に、笑えてくる。
「別にいいよそれくらい。で、どうだった? 先輩の走りは。やべえだろ?」
「急に元に戻るじゃないですか。なんなんですか、貴方」
沼山はそう言ってから少し考え、
「確かに、凄かったですね。全国レベルの選手の走りを生で観るのは初めてだったので、とてもおもしろかったです」
すかさず、質問を重ねる。
「なんの練習みたんだよ?」
「リレーの練習ですね。坂崎さんがスタートから次のバトンパスまで練習してたんですけど、あの中で一番速かったですよ」
「いやあ、先輩は凄いからな、マジで。中学校の頃もいつも最終的には一位に」
そう答えながら、さっきのやりとりに違和感を覚え、「ちょっと待って」と言う。
「え? 何かありました?」
たっぷり考えてから、口を開く。
「先輩がトップバッターを走ったって言った? あり得ないと思うけど。そんなこと」
「え? なんでですか? 僕、嘘なんかついてないですよ?」
「400メートルリレーのエースはふつう、チームのエースが第二走、もしくは第四走、つまりはアンカーを担当することが多いんだ。坂崎先輩はどう考えてもチームのエースだ。そんなチームのエースが第1走を担当するとは思えない」
「いや、でもそれは傾向の話で、絶対エースが第一走をしないわけじゃないですよね?」
「そうだけれど、実は先輩はスタートが苦手なんだよ」
春人は初めて先輩の走りを見た時のことを思い出す。
最終的には一位を取っていた先輩だったが、スタートの時点ではあの中で一番後ろにいた。
「今は流石にスタートが下手なわけじゃないと思うけど、わざわざスタートが苦手だった選手に第一走を任せるとも思えない。先輩の強みは中盤以降の力強い加速力だ。だからテイクオーバーゾーンを使える第二走以降に走らせた方が先輩は強いはずだ」
なるほど、と沼山は感心したように言うと、
「じゃあなんで先輩はトップランナーだったんですかね?」
と呟いた。
「それは、分かんない。でも調べるべきだと思う。代わりに走る身として」
話している間に、自然と覚悟は決まっていた。
沼山が、片方の口角を上げる。
「それは、つまり?」
沼山の目を見て、言う。
「俺、先輩の代わりに走ろうと思う。ダンスの練習に来れなくなるかもしれないけど、もう一度、陸上部で頑張ってみたい」
「主人公みたいなことを言って。恥じらいをどこに捨ててきたんですかね?」
沼山はそう言って両方の口角を上げた。
「いいですよ、部活、行ってもらって。ダンスの方はまだ余裕がありますし」
二面に映る沼山の姿が、輝いて見えた。
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