交流

 4拍子のリズムに合わせて膝を曲げる。

 この時、膝を曲げるだけでなく胸も一緒に体の中にしまうように背中を丸め、肩は前に突き出す。同時に肘を横に引くと動きがダイナミックになる。

 次に、裏拍のタイミングで丸まりきった身体を伸ばし、胸を思い切り張る。肩を後ろに引くとやりやすい。肘は下方向に向かってパンチするように動かす。そしてまた膝を曲げる。


 何度も言われた言葉が自然と頭の中に浮かび、その言葉の通りに身体を動かす。

 次第に、その言葉も薄れてゆき、自分の身体とそれを制御する4拍のリズムだけがこの自分を支配しているようにも感じるが、呼吸も拍動も全てが同じテンポになっている今、自分という存在も希薄になっていた。

 意思の欠けたロボットのように、ただ体を動かす。

 春人は、あのパフォーマンスを観たその日からダンスに本格的に興味を持つようになり、毎日放課後にこのスタジオで沼山にダンスを教わるようになった。

 もちろん春人は沼山と文化祭で踊る予定だ。

 話を重ねるうちに、無意識的に距離も近づき、仲良くなったのは良いことだが、沼山が丁寧な口調と裏腹に生意気な人間だったことは、少し意外だった。常にニヤニヤ顔でいるし、すぐに揚げ足を取る。

 沼山にダンスを教わり始めて1週間の間、“ダウン”の練習ばかりしていた。

 ダンスといったらもっと華やかな振り付けを練習するのかと思ったら、ステップ、とも言えないものからレッスンは始まったから、釈然としなかった。

 一昨日、ついにその事に文句を言ったら、

「貴方は、まだクラウチング・スタートはおろか、走ることすらままならない子どもに100mハードルの指導をしようと思うのですか?」と返ってきた。

 あまりにも直接的なその言葉に、少々むかついたが、言っていることは全くその通りだった。

 ダンスは想像以上に難しかった。

 最初に実力を測りたいという沼山の提案で、軽くダンスを踊り、それをスマホカメラで記録することになった。

 2小節ごとに異なる振り付けを3種類、合計6小節踊ることにし、それらの振り付けを沼山にざっと教えてもらった。

 スマホの前に立つのは少し恥ずかしかったが、少しは自信があったし、それ相応に踊れたと思ったが、録画を確認してみるとそれが思い上がりだとわかった。

 腕は伸びず、上半身はダイナミックさに乏しい。動きにメリハリがなくリズムを感じられない。

 悪いところを挙げようと思えばいくらでも挙げられるほど、ひどいものだった。

 春人は、その映像を観るのを1小節が終わる前に断念したが、沼山はその映像を時々巻き戻したり、何かをぶつぶつと呟いたりして、細かくチェックしていた。

 こんな酷い映像のどこを見ているのか気になったが、急に沼山が急にこちらを向いて、

 「貴方、スポーツやってますか? サッカーとか、短距離とか」

 部活を言い当ててきた。少し面食らって、「どうして分かった?」と聞いてみた。

 「脚のステップが比較的上手だったからですねえ」

 「いや、それでもバスケとか、バレーとか、色々あるじゃん」

 すると、沼山は返答に困ったのか「まあ、そんな事はいいじゃん」と言い、スマホの画面をいじりながら、

 「まあ上手とは言いましたが、他の振り付けと比較してなので、下手なのには変わらないんですけど」

 と言い放った。

 あまりに失礼な物言いに、少したじろいだ後、春人は聞いた。

 「じゃあ、俺は何からやればいいのさ」

 ううん、と少し唸ってから、

 「“ダウン”からですね、まずは全身でリズムを刻めるようになってから」

 「そんな所から始めて、間に合うの?」

 「そのために、4月からやってるんですよ」

 よし、と気合いを入れた後、沼山はラジカセに飛びつき、ドラムが4拍子を刻む音がよくきいたインストを流し始めたのだった。



 沼山がラジカセの一時停止ボタンを押すと、いつもの二面が鏡に覆われたスタジオが戻ってきた。

 自分のカバンから水筒を取り出して、中身を飲む。よく冷えた麦茶が喉を通る感覚が心地よかった。

 「いいですね。もう“ダウン”はもうよさそうです。ただ、楽しそうじゃない。楽しく踊らないと、ダンスの意味が無くなっちゃいますよ」

 スマホの録画を確認しながら、沼山はそう言った。

 1週間もの間、ずっと“ダウン”の練習をするのは流石に堪えたが、今日で終わるのであれば話は別だ。春人は開放感に、ふう、と息をついた。

 「じゃあ、次は何すんの?」

 「次は、まあ、“アップ”かな」

 その名前に、嫌な予感を覚えた春人は、聞き直す。

 「“アップ”? アップって、まさか——」

 「そのまさかです。“ダウン”の逆バージョン。体を伸ばしてから、裏拍で体を曲げる」

 思わず、うわあ、と声が出る。

 「そんな、上げて落とすみたいなことやめろや。お前の悪い癖やぞ。それ」

 沼山は、いたずらっぽく口角をあげた。特に目鼻立ちが良い訳ではないが、いわゆるキザな表情がとても似合っていた。

 「まあ、あなたは物覚えがいい方ですから。すぐ踊れるようになりますよ」

 「いや、そういう問題じゃなくて」

 「どうします? キリがいいからこれで今日は解散にする?」

 はぐらかされたが、その事は無視して返事をする。

 「じゃあ、ちょっと早いからコンビニにでも行かん? このまま1人なのもつまらんし」

 「いいですね、行きましょうか」

 沼山はさっさと荷物を整えると春人を置いて外に出ていってしまった。

 慌てて沼山の後を追った。


 夕方5時頃のコンビニは、部活帰りの学生で賑わっていた。

 春人たちは、お菓子コーナーと飲み物の棚を行ったり来たりしながら買う物を吟味していた。

 春人は既に何を買うか決めていて、片手には炭酸とポテトチップスがあったが、沼山は5分経ってもまだ悩んでいた。

 「どっちがいいと思いますか?」

 そう言って、メロンパンとエクレアを春人の目の前に差し出す。

 「お前、服じゃないんだから、適当でもいいんだよ」

 そう言ってエクレアを沼山の手から取って棚に戻した。

 その行動が気に食わなかったのか、沼山は、

 「いいや、違いますね。適当な、大した事のない事を思い悩むなんて贅沢な事をできるのは我々人間の特権なんだから、存分に悩むべきなんですよ。かのパスカル御大曰く、『人間は、考える葦である』なのだから」 

 と、捲し立ててきた。

 「はいはい」

 詭弁をあしらいながら、レジに並ぶ。しばらく、マシンガンの弾丸のように降り注ぐ沼山の言葉を無視していると、よく知った顔の生徒が店内に入ってきた。

 「お、春人じゃん。久しぶり」

 部活後と思わせない清潔感と、甘いマスク。すらりと伸びた脚はスポーツマンを思わせる。

 坂崎先輩だった。

 全くの不意打ちであるせいで、声がうわずって「ひ、ひさしぶりです」と、間抜けな返事をしてしまった。

 「そんなに驚かなくてもいいだろ、中学からの仲なんだし」

 先輩は目を細めて言った。

 「そう言ってもまだ4年目じゃないですか」

 確かに、と言いながら先輩は心底愉快そうに微笑んだ。

 しばらく、談笑していると、

 「どちら様で?」

 と、沼山が聞いてきた。

 春人は沼山に、先輩を簡潔に紹介した。

 「坂崎先輩。陸上部の先輩で、ちなみに中学から同じ」

 すると、沼山は、突然にやけ始め、

 「つまりですよ、もしかして貴方、先輩の後を追って、この高校に入学したという事ですか?」

 これはこれは、いやあ、熱いですねえ。

 先輩は猫のような愛嬌があるが、こいつは猫は猫でも、チェシャ猫によく似ている。

 真横に引き伸ばされた口角と揶揄うような目線に、眉を顰めた。

 「そうだけど、なんか悪いか」

 堪えきれなくなったのか、先輩は、あははと笑う。

 「笑い事じゃないっすよ」

 「ごめんごめん」

 「そうですよ、笑い事じゃないですよ! 僕は真面目に春人くんと先輩について知ろうとしているだけだというのに!」

 なんて嘆かわしい、と沼山は大袈裟に言ったのち、

 「という事で、先輩も一緒にオヤツ食べましょうよ」

 「お前——」

 「まあまあ、いいじゃん。俺も春人と話したいよ」

 先輩までもがそう言うと弱ってしまう。

 「そうかもしれませんけど、でも」

 「じゃあ決まりですね。僕ら、先輩の用が済むまでコンビニの前で待ってるので。近くの公園でお菓子食べましょ」

 「ちょっと待てよ」

 「ああ、あと、春人さん、もう一つ」

 「なんだよ」

 「レジ、空いてますよ」


 沼山は公園へ向かう間、ずっと石を蹴っていた。五メートルほど前を一人で歩いている。先輩は通学用の自転車を引いて、春人の横にいる。

 「おもしろい子だなあ」

 そう言うと、先輩は唸った。

 「振り回されっぱなしで嫌になりますよ」

 「だけど、退屈はしない」

 「まあ、はい」

 「一緒にコンビニに行けて」

 「はい」

 「話も面白い」

 「……それだけは『はい』とは言えません」

 「こんな子はなかなか居ないと思うけどなあ」

 「……」

 春人の表情をちらりと見てから、なんだか説教くさくなったな、と先輩は呟いた。

 「ところでさ」

 「はい」

 「部活、戻る気ある?」

 沼山の蹴った石が、あらぬ方向に飛んで行った。沼山は石を追いかけて、駆け足になる。

 唐突な質問に、言葉が詰まる。

 「それは、ちょっと、分かんないですね」

 そうか、と言うと先輩は斜め下に向いていた顔を真正面に向け、「ごめんな、お節介なこと聞いて」と言った。

 「先輩は悪くないっすよ」

 坂崎先輩は、天才的なスプリンターだ。

 当時中学1年生の春人は部活を決めるのに難儀していた。

 親からは運動部には入れと言われたが、何かしたいわけでもない当時の春人は、適当に陸上部を見学することに決めた。

 そのときに初めて坂崎先輩の走りを見たが、素人目にしても彼の走りは周りとレベルが違うことがわかった。

 走り始めは遅く、他の部員の後を追っていたが、地面を蹴るたびにぐんぐん加速していきあっという間に全員抜かすその走りは、まるで湖を飛び立つ白鳥のようだった。

 その走りを見たその日に、陸上部に入部する事に決めていた。

 部活の練習はきつかったが、憧れの先輩と一緒に練習ができる喜びの方が強かった。

 先輩は大会でも順当に活躍し、全国とまでは行かなくても、地区大会や県の大会で優秀な成績を収めていった。

 先輩は中学校を卒業すると、県内でトップの実力の陸上競技の高校に入学し、そこでも陸上部のエースとして順調に結果を残していた。

 高校に入ってから、さらに陸上に身を入れたのか、その実力は留まるところを知らず、あっという間に全国トップレベルの選手になった。

 実績もあり、外見もいい先輩は、しばしば地元のメディアで取り上げられることもあった。ファンレターが届くこともあるようだった。

 その姿を見て、先輩の後を追いかけることに決め、より部活動や学業に専念することにした。実力はギリギリだったが、なんとか合格できた。

 そのまま陸上部に入ったのだが、そこの練習は想像以上に厳しいものだった。

 徐々に練習についていけなくなった春人は、劣等生のハンコを押されることとなった。

 そんなある日、春人は部活でミスをしてしまった。器具を安全に使用しなかったのだ。その結果、3年生の先輩は怪我を負ってしまい、最後の大会に出ることができなくなってしまった。

 普段の練習もついてこれない弱い人間が、先輩を怪我させるとどうなるか。

 そんなのは自明であった。

 その日から、いじめが始まったのだ。

 元々パシられ気味だったが、その要求はエスカレートし、できなかったら叩かれることもあった。

 どんどん部活に行く気がなくなったが、部活に行かないとより強く先輩に詰められる。

 そんな生活が1ヶ月続いた後、転機は訪れた。

 この暴力沙汰が、『いじめ』として外に漏れ、一部メディアが報道したのだ。

 これを受けて、教育委員会がいじめの調査を開始した。

 最終的には加害者グループは部活を辞めることになり、表面上は平穏が訪れた。

 しかし、加害者グループが部活内での実力があったことや、陸上部自体が悪い目で見られるようになった結果、『あってもなくても変わらない、1人のスター選手によって支えられた斜陽部活』になってしまった。

 そうなってから、自分は部活に行けていない。自分がことの発端であるから、自分が責められるような気がするのだ。

 春人は坂崎先輩にバレないようにため息をついた。


 

 公園には、小学生らしき子どもが4、5人、サッカーボールを蹴って遊んでいた。

 三人は、近くのベンチに並んで座り各々買ったお菓子を開封した。

 夕方の、オレンジ色がかかった空に、ポテチの袋を開ける音が良く響いた。

 暫くの間、誰も喋らずに向こうにいる小学生を眺めながら、手元のお菓子を食べていた。

 しばらくすると、先輩が呟くように、

 「春人と沼山くんって同じクラス?」

 と聞いてきた。

 春人がそれに答え、沼山がそれに付け加えるように、ダンスを文化祭でパフォーマンスする予定だという事を話した。

 そっか、と先輩は漏らした。

 「じゃあ、早いうちに行動するのがいいね」

 そのとき、先輩がその瞬間だけ無表情になったのを春人は見た。お面のようなそれは、深い悲しみを押し殺しているように見えた。

 そのことが気になりはしたが、すぐに先輩の表情はいつもの猫のような人懐っこいものに戻ったため、さっきの無表情は見間違いか何かと思った。

 先輩は、春人の目を見て言った。

 「絶対観るから。がんばれよ」

 それに応え、春人も先輩の目を見る。

 「もちろん、そのつもりです」

 目を逸らすタイミングを逃し、しばらく見つめ合っていると、沼山は食べ終わったメロンパンの包装紙を綺麗に畳みながら言った。

 「ところで、先輩は今年も大会、出る予定なんですか?」

 先輩は春人から目を逸らし、答える。

 「うん、そのつもり。特に今年は400メートルリレーをする予定」

 「うわあ、リレーですか。大変そうですね。プレッシャーとか、すごいんじゃないんですか?」

 「まあ、そうだね。でも、プレッシャーがあるからこそ頑張れるし、本気になれるんだよね。いろんな人に応援してもらってるし」

 「流石ですねえ。春人君にも、こういったバイタリティがあればいいんですけど」

 急に矛先を向けられ、「余計なお世話だ」と答えると同時に、先輩がまた魂が抜けたような無表情になっていることに気づいた。

 公園で遊んでいた小学生は、もう誰もいなかった。

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