第5話 「くたばれ。キモ男より」

 朝、鳥の声で目が覚めた。


 ……なんか、体中が痛い。それに、湿っぽいし臭いし――埃っぽいし薄汚い。


「…………ふう」


 板の間に寝ていたんで、体中が硬くなっていた。辺りには昨晩飲んだ酒の缶が無造作に転がっている。


 埃がびっしり付着した窓から、朝日が部屋の中を照らしていた。


 ぼんやりとした頭で部屋を見回すと、ワイヤーの束の中に水道管のパイプが山のように積まれていて、雑に打ち付けられた棚には脚立やら鉄パイプやらスコップ、ドライバ-、それに大昔のアダルト雑誌。


 スマホの電源を付けてみたら朝の六時。既に充電残量は赤になっているので、すぐに電源を消す。


 扉を開くと、伸び散らかした雑草が目の前を覆っていた。踏み倒して、俺は寝泊まりした建物を振り返る。


 ――まさか、まだ残っていたとはな。


 秘密基地。


 多分、どこかの会社か農家が使っていた資材置き場みたいなものなんだろう。


 小学生のある夏に、住宅街から離れた雑木林でけいちゃんと虫取りをしていたら熱中してしまって、どんどん中に入り込んで見つけたんだよな。何時かの雪で破損したのだろうか、屋根が一部抜け落ちてはいるけど、一晩雨露を凌ぐには使えた。


 ……こういうとき、昨晩の記憶が無いって状況なら少しは愉快な気分になれたのだろうか。生憎、俺はどれだけ酒を飲んでも記憶を飛ばしたことがない。


 勿論、昨夜の出来事だって忘れちゃいない。


 俺は資材小屋の床に腰掛けて、昨晩買ったタバコに火を付けた。


 ――思い起こした記憶は、伊勢がソファの隣に座る場面から始まるのだ。


 *


「卒業アルバム。懐かしいでしょ」


 気配の瑞々しい伊勢が隣に腰を下ろす。シャンプーの香りが戦いだ。


「こんなもん、よくまだ持ってたな」


「普通持ってるでしょ。もしかして、捨てちゃったの?」


「実家にはあると思うけど……。え、まだあんのかな。卒業以来開いてない」


「えーっ!? 家に友達来たときとか盛り上がるじゃん」


 手繰っていたアルバムが、生徒の顔写真のページになる。


「あ。北方先生」と伊勢が指さす。「昔の写真見ちゃうと、あの人髪薄くなったよね~」


「そりゃ二十年近く経ってるからな」


「考えらんないよ」伊勢は髪を耳に掛けて、楽しそうに笑う。「ほら、この子が鈴木さん。こうしてみると、二年の鈴木君と顔そっくり」


「ふーん」


 続いて、「武藤むとう圭斗けいと」という男子の写真を指さした。激しい天然パーマだし、生徒たちが神妙な顔をしている中、屈託のない笑顔――というか、爆笑しているので結構目立っている。


「これ、けいちゃん。憶えてる? 仲良かったよね」


「勿論」


「すっごいモテてたんだよね、けいちゃんって。今何してるんだろう……?」


「さあな。俺も、札幌に行ってからはよく知らないんだ。確か中学受験するって話だったけど、それきり」


「受験……そっか。ああ、そういえば、この子」


 今度は、「今田いまだりん」という女子。長い髪をセンターで分けて、分厚い眼鏡が印象的だ。


「委員長だな」


「そ。委員長も確か中学受験組。札幌のめっちゃ頭良いとこ行ったって聞いたよ。会ったことある?」


「無いよ。別に、そこまで仲良くなかったし」


「ふうん」


 続いて伊勢の指は、子供の頃の俺(松尾まつお良一りょういち)を、伊勢(伊勢いせ里映りえ)をと辿り、アルバムの上から消えた。行方は俺の左手にあった。そこで初めて気がついたが、風呂上がりの伊勢はTシャツにショーツ一枚という生っぽい格好だ。


「……ね……あの……どうする……お風呂入ったけど……」


「……伊勢」


 体を向けると、彼女の方から唇を近づけてきた。


 寸での所で、彼女の肩を掴む。


「――えっ。な、何? なんか変なことした?」


「伊勢に聞きたいことがあるんだ」


「聞きたいこと?」


月本つきもとひとみは、今どうしてる?」


「つきもと――」紅潮していた彼女の顔が、すうっと白けていく。「……何、それ。つきもんのこと?」


「その呼び方、やめろ。蔑称だろうが」


「……私のことはエビって呼ぶくせに」


「エビは蔑称じゃなくて愛称。お前らの言うってのは、月本と憑き物を掛けて――」


 伊勢がぎゅっと目を閉じて、こめかみをガリガリと掻いた。その拍子に耳に掛けていた髪が垂れる。


「……っ。あ~あ~。いたね! そういえば! そんな子も! ジメジメしてて、いっつも大きな本読んでて、縮れた黒髪で……松尾にくっついて歩いてた! ねえ、その話今する必要ある!?」


「あるよ。その話をしないと、俺はお前の気持ちが理解できない」


 俺の言葉に、伊勢の体がぐらりと揺れたように見えた。


「何っ、それ」


「だってお前、俺と月本のこと嫌ってただろ。あれ何だったんだよ。話しかけても無視して……。キモいとか、何とか散々言ってたよな。それが今、なんでこんなことになってるんだ?」


「子供の頃のこと、だしっ。昔じゃん」


 開いたままのアルバムが、妙に視界でちらついた。表紙を閉じて、「……ま、お前にとっては昔のことだろうけどね」と、自分でもギョッとするほど雑に言い捨てる。「俺は、六年間以外のお前のことを知らない」


「だから昔のことでしょっ。十五年前……!」


「だから、お前にとってはな」


「何!? その言い方!」


「俺にとっては、小学校六年間の伊勢の印象が勝ってるんだよ……こんなことになって、なんか、話が飛んでるっていうか」


「私は変わったの。思春期を過ごして、大人になって、小学校の先生になった。昔の私なんてもう何処にもいないし、つきも――月本さんのことも知らない!」


「……」


「急に変なこと言わないでくんない」


「……だな。うん。ごめん」


 とにかく伊勢は月本のことを知らないらしい。


 それに、彼女からすれば昔は昔で、大事なのは今ってことなんだろう。確かに、今日接した感じだと大人の伊勢は昔のエビとは全然違う。俺が知っているかつての女子は、もういないのだ。


 腑に落ちないが、とにかく状況を飲み込みはした。


 再び伊勢の肩を掴んで、今度は俺の方から唇を近づける――と、今度は彼女の方が俺を突き放してきた。


「待って……」


「何だよ。悪かったって」


「……なんで……?」


「なにが」


「……なんで、北広島に来たのっ……」


 数秒間、俺はどう説明するべきなのか悩んで、迷って、やっぱり心の内をそのまま伝えることにした。


「月本瞳に、会ってみたかった」


 途端に、伊勢の顔が真っ赤になる。


「……はああ!? キモッ!!」


「き、きも――?」


「くっさ!! はんかくさ!!」


「はん、か……」


 北海道弁。


 はんかくさいってどういう意味だっけ。とにかく、相手を罵倒するときに使う悪い意味だった気がする。


「……それが小学校教師の吐く言葉かよ」


「じゃ、なに!? 松尾はわざわざ東京から、小学校の頃好きだった女の子に会いに、ここまでやってきたってこと!? 二十七にもなって!? こじらせるにも程があるし!! そもそも会えるわけないじゃん!」


「俺だって絶対会えるとは思ってねえよ。エスコンを見物するついでに、ちょっとこっちの方歩いてきただけ。会えないなら会えないで、それでも良かったんだ」


「いやっ……キモいわそれ……!」


「――ああっ。お陰で思い出したよ!」


「何を!?」


「俺は、伊勢里映っていう女子が大嫌いな、キモい男子だったんだ」


「!!……」


 伊勢が、さっき近づけてきた自分の下唇を噛む。


「お前は変わったかもしれないけどさ、こっちはあの頃から大して変わってない。俺は、お前にキモいって言われてからずっと、キモい男子のまま……大人になったんだ」


 それからお互いが言ったことと、言われたことを冷静に咀嚼する時間が発生した。その間に、伊勢は部屋着の下を履いている。


 先に沈黙を打ち破ったのは、伊勢だった。


「いや……キモいっ。キモいんだけどっ……」


 何故か瞳を潤ませながら、そんな罵倒を唾と一緒に吐き出す。


「……お前の気持ちがようやく分かった。やっぱり変わってねえわ。お前」


「――分かったら出て行ってよっ!!」


 *


 それから俺は、買ったばかりの傘も忘れて雨降る夜を歩き始めた。


 雨の夜。終電は過ぎた。行く当てはない。


 ……取りあえずセコマに行くか。と、その時の俺は思ったのだ。


 行き場のない道民が行く所は、セコマと決まっている。


 *


 レジに大量の缶を置くと、姫カットの店員が唖然と見つめていた。


 手書きの名札には「かやもり」とある。


 かやもり……茅森、かな。


「……あ。袋付けます?」


「よろしく。それと、19番」


「はい。一箱で?」


「……。一応、二つ」


「はい、ショートピース二つすね」


「…………」


 あっ、スマホの充電――持つかな。無駄に動画とか見なければ、まあなんとかなるか。


 ふと、会計が進んでいないことに気がついた。茅森店員は何故かタバコを持ったまま俺を見つめて停止している。


「あの……」


「ん?」


 俺のことを、ピッと指さした。


「伊勢先生の、彼氏さん」

 

「!?……違うよ」


 やっぱりこいつ、伊勢と顔見知りかよ。……別のとこ行けば良かったな。


 って、近くに別のとこなんて無いんだった。


「あれ? さっき良い雰囲気だったのに。なにがあったんですか? 伊勢先生のとこに泊まらないんですか?」


「詮索は良いから、早く会計してくんないかな」


「すません。なんか気になって」


 茅森は、大して急ぐ風もなく酒のバーコードを読み取っていく。


「……えーと、伊勢先生とヤッたんですか? 早くないですか?」


 俺は後頭部を掻いた。


「田舎のコンビニ店員は皆君みたいに図々しいのか?」


「えっ、どうなんだろ。田舎のコンビニ行くことないんで分かんないすね」


「…………この辺に、民泊とか無いかな」


「私は謝ったほうが良いと思うけどな~。多分、今も謝りに来るの待ってるんじゃないかな~。じゃなきゃこんな雨の夜に……ねえ~?」


「民泊は、あるのか。ないのか」


「ありますけど、もう受付閉まってるすよ」


「チッ」


「あの優しい伊勢先生が怒るって、相当のことしたんすね」


「あいつは優しくねえよ。猫被ってるだけだろ」


「でも、この間夜のバイトの時にコーヒー奢ってくれたんすよ。いつもありがとねって。私感動しちゃった。あんなに優しい人いないですよ。私が男なら、絶対捕まえるすね。早く会いに行った方が良いす」


 マジかよ。


 何だよ、あいつ……何なんだよ。


「生憎、俺はもうこの町に来ることはない。札幌帰ってそれきりだ」


「いや、多分また来ることになると思いますよ」


 俺は乾いた笑い声を上げた。


「……用事なんかないって、こんな町」


「用事はできます。ここは、これから未来になる町ですから」


 会計を終えると、雨の降りようにまたげんなりとした。


「てか、マジで民泊閉まってんの?……ここ、泊まらせて貰うことできないかな。バックヤードとか」


 自分でも無茶を言っていると思ったが、茅森は嫌悪感を隠しもせずに顔を顰めた。


「無理に決まってるじゃないすか、そんなの」


「だよな……まあ、何とかするか……。ところで君、伊勢と仲いい?」


「ま、顔合わせたら喋るくらいすね。よく来店されますし」


「じゃ、伝言頼めるかな」


「なんすか?」


「くたばれ。キモ男より」


「……本当になにがあったんですか!?」


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ここまで読んで頂きありがとうございます。

書き溜め分は現時点で残り十五話くらいになりますので、引き続き投稿してまいります。

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