第4話 「するわけないし。馬鹿……」

 伊勢の家は、ほぼ外観から予想した通りの間取りだった。


 玄関入ってすぐ右側にトイレ、前方に続く扉を開けば十帖程のリビング。こちらは小さなテーブルとソファがあって、急に上がり込んだにしては掃除が行き届いた、慎ましい居住空間だ。


 リビングからは更に一枚の扉を仕切りにして、五帖程の洋室を備えている。


 軽く覗いてみると面の広い作業デスクが壁に向かって設置され、その上にはノートパソコンと、メモが書き込まれた教員用の教科書が開かれたまま。こっちは仕事部屋にしているみたいだ。その他、本棚に教員向けの書籍と、分厚いカバーに入った――アルバム?


 手を伸ばしかけたところで、伊勢に肩を叩かれた。


「ちょっと、何いきなり人の部屋物色してんの!?」


「東京じゃこう広い家には中々お目にかかれないもんで。へえ~……」


「別に広くないし。私的にはもう一部屋欲しいかな」


 そう言いながら、少しだけ開いていたカーテンをきちっと閉める。


 ソファに座ってリビングのあちこちに視線を漂わせたら、予想外の位置に空間があることに気がついた。扉で仕切られてはいないが丸々一部屋分にはなりそうで、天井の高さが違うからか、リビングとは隔たった明かりは雰囲気のある間接照明。それにベッド――リビングの延長には違いないが、寝室なんだな。


「ねえ。お風呂湧いてるんだけど」


「え!?」俺は仰天して伊勢の顔を見る。「自動給湯!?」


 一瞬の内に彼女の顔がシラッと冷めたようだった。


「……なんでそこに驚くんだよ」


「いやいやいや。だって、東京じゃこんなに良い物件はそうそう住めない――」


「いーいから、早く入って来いってのお……!」


 俺の言うことを遮って、ぐいぐいと浴室に背中を押してくる。


「待て待て。お前の方が濡れてるだろ。先にそっちが入れよ」


「私は良いのっ。コンビニ行くんだからっ」


「何でまた」


「……さっき買い忘れたものがあるから! 良いから、とっとと行けし!」


 *


 足が伸ばせる浴槽で体育座りをしながら、少し冷静に考えた。


 要するに、これは、あれか。


 ――今夜、俺は伊勢とセックスする、ということなのか?


 一人暮らし、独身の女性が成人の男性を部屋に連れ込むって……まあ、話には聞いたことがあるけど……当事者になる日が来るとは思わなかったけど……要するに、要すれば、そういうこと、だよな?


 一つハッキリとしていることは、俺の方は臨戦態勢であるということ。ナニがとは言わんが。


 だって、今の伊勢は普通に綺麗な女性なんだし。こういう気持ちにならないのは逆に男性としてはおかしいわけで。それにも増して、脱衣所には彼女の黒い下着(カルバンクライン)が干されていたし。


 ……いや。早い早い。判断が。


 一旦立って、体全体の血流を落ち着かせようとした。


 全然落ち着かなかった。


「ふう~……」


 落ち着こう。というか、落ち着け。流石に風呂から出られない。

 

「ねえ、松尾ー」


「なにっ!?」


 いきなり磨りガラスの向こうから伊勢の声が聞こえたんで、大声で返事してしまった。


「声でかっ……。タオルさ、洗濯機の上に置いておくから」


「あ、ああ。どうも」


「……てか、何で立ってんの?」


「勃っ――。!!?」慌てて湯船に入った。「何で見えてんの!?」


「いや、磨りガラスだし。なんか直立してたから。お湯熱いのかなーって。下げる?」


「……。東京ではこうやって入るのが流行ってんだよ」


「え、それどういう健康法?」


「半身浴の縦バージョン」


「…………」


「ほら。テレワーク流行ってるから」


「あ。なるほど」


 何がなるほどだ。


「まあ、どうでも良いけど。長風呂はしないでね。私も早く入りたいし」


「分かってるよ」


「……あっ!」


 短い叫び声の後に、パチンパチンと洗濯鋏の噛み合う音が聞こえた。干してる下着に気づいたのか。


 それから、伊勢の気配がリビングの方に失せていった。


 お湯で顔を洗って、正規の入浴法でようやく落ち着く。スリリングな出来事があってか、ようやく俺の体が理性を取り戻してくれたようだ。


 ……伊勢は、俺のことをどう思ってるんだろう……。


「……」


 少なくとも、雨の晩に、家に泊める程度の好意はある。しかし、それ以上は? これが小説や映画なら、主人公は大して思い悩みもせずにパッパラパーとセックスをして朝の鳥の声を聴くところなんだろうが。


 幾ら考えてもキリが無い。


 このシチュエーション、リアルの男がどういう判断を下すべきなのか……。


 俺の手は、風呂の蓋に置いたスマホへ伸びていた。


 こういうときは、ヤフー知恵袋だ。検索ワードは「女性の家 泊まる」。すると、ドンピシャの状況に陥った悩める男の質問に大量の回答が付いていた。しかも、年齢まで俺と同じと来ている。


 男性諸氏からは「突撃」だの「行かなきゃ逆に失礼」との勇猛果敢な回答。対して女性からは「概ねOKだが、告白はした方が良い」だの「犯罪」だのと身を引いたような回答。ざっと眺めた限り、結局は男と女の関係性に寄りけりと……。


 俺はスマホをぶん投げたくなった。そんなもんが分かれば初めから質問しない。


 いや、俺は質問すらしてないんだけど。


 やはり、真実というものは事実を元に、客観的な証拠をかき集めて導き出すものである。


 俺と伊勢の間に横たわる事実。


 客観的で。


 動かしようのない、事実――は――


 *


「ちょっとのぼせた……」


「ほ~ら、言わんこっちゃない!」


 いつの間にか部屋着に着替えていた伊勢が、俺の首筋に冷たいペットボトルを押しつける。右手で受け取って、こめかみを冷やした。


「自動給湯の風呂に入るの久しぶりだったから……結構熱くないか? あれ」


「松尾が長風呂しただけでしょ。ほら」伊勢に手を引かれて、ソファに座らされて……なんか、頭を撫でられた。「よし、よし」


「何だよ、それ……子供扱い、すんな……」


「小学校の先生からすれば、同年代の男なんて子供みたいなものなんです~」


 目線を上げると、うっとりと勝ち誇った表情の伊勢が俺を見下ろしている。


「同年代の男の知り合いなんて、殆どいない癖に……」


 柔らかい手つきが、急に突き刺さるようなゲンコツに変化した。


「痛ッ――い!?」


「そういえばあんたにはゲンコツして良いんだった」


「体罰だろ!? この暴力教師!!」


「子供には優しいし。私は」


「……はあっ……」


 溜息を吐いた瞬間、視界が肌色で染まった。目が慣れると伊勢の鎖骨が、体温が目の前にある。


「子供にもこんなことすんのか?」


「するわけないし。馬鹿……」


 *


 客観的な事実が一つ積み重なった。


 伊勢の俺に対する好意の最低ラインが、頭を胸で抱く程度には底上げした、よな?


 三角形の面積は、底辺掛ける高さ割る二。だから、伊勢の俺への好意をαとすれば、


 (抱きしめるほどの好意)×(高さ)= 2α


 ……あれ。意味が分からん。高さはどう定義すれば良い?……年齢? αは二分の二十七掛ける抱きしめるほどの好意――というか、なんで三角形の面積。三角形みたいに尖っているのは間違いないけど。


 というか違くて。俺が求めたいのはそういう単純なやつじゃなくて。せめて中学の数学で――三角関数? 斜辺? ああ、もう分からん。


 多分、解に近いのは、


(抱きしめるほどの好意)×(抱きしめる行為)=……。


 きっとその答えは。


 瞼を擦って開いた視界では、見慣れないコンビニの袋がテーブルに立っていた。


 ――そういえば、さっき伊勢が買い忘れたものがあるって言ってたっけ。


 中を開いてみると、水滴の浮いた缶ビールが三本。……酒なら、さっき俺が買って冷蔵庫に入れたのに。忘れていたのだろうか?


 ところが、袋の底におかしなものが入っている。それは茶色い紙袋に包装された、タバコのパッケージを少し大きくしたようなサイズで。


 なんだろうと思って開いてみると、コンドームだった。


「…………」


 いや、もう。


 これ決まりなのでは?


 俺はそれを、まるで爆弾のように、慎重に、テープを貼り直して元通りにする。


 それから、腕を組んで唸ってしまった。


 ……そうか。コンドームを単品で購入するのはあまりにも如何にもである。しかも、あのコンビニはここから最寄りで、伊勢と姫カットの店員は多分顔見知り。目的は酒なんですけど、なんか、もし斜め上の方向性になったら、……ねえ? みたいな感じでレジにコンドームを置く伊勢の姿が思い浮かんだ。


 袋から缶ビールを引っ張り出して、一息に半分ほど飲む。そして、袋の脇に開いたままの分厚い冊子があるのがようやく目に付いたのだった。


 卒業アルバム――か。


 なんとはなしにビールを飲みながら、子供の頃の俺たちの写真を手繰っていく。小一の頃の運動会から、三年の学芸会、五年の校外学習に、六年の修学旅行。

 

 …………。


「あ――れ?」


 もう一度最初のページから手繰る。


 やっぱり、いない。


 そりゃそうか。これは緑葉小学校の卒業アルバムなんだから。


 緑葉小学校を卒業しなかったあいつの写真が、ここに写っている筈はないんだ。

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