第3話 「うちで雨宿りしてっても良いんだけど」
既に俺も伊勢もビールからハイボールに切り替わっているが、お互いそれなりに強い割に変な酔い方をするタイプではないらしい。
「――はあっ、なんか、松尾と会ったら昔のこと思い出しちゃった。あれ小五の校外学習だっけ? 洞爺湖行ったよね、私たち」
「修学旅行が洞爺湖で、校外学修が小樽じゃなかったっけ」
「まあどっちでも良いけど、なんか木刀買ってたよね。あははっ、マジウケるんだけど。あれ、まだ持ってんの?」
「あ……あったなあ」今となっては恥ずかしいような楽しかったような想い出だ。お土産用のお小遣いの殆どを使わないといけないんで流石に気が引けたが、親友のけいちゃんと一緒に覚悟を決めて買ったような憶えがある。勿論、帰って母親に怒られたが。「流石にもう無いと思うけど。フリマか何かで出したんじゃなかったっけ」
「えー? 勿体な。素振りでもすれば良い運動になるのに。あはっ。今はもう木刀買うの禁止してるんだよ。松尾みたいにはっちゃけて後悔する児童が一杯いるんだから」
「伊勢の方は、何か当時の想い出の品的なの残したりしてんの?」
「あ、私は割と取ってる方かなあ! にしても、松尾が木刀――ふふふ」
伊勢にとって、俺というキャラクターが木刀を買うという事実がよほど面白いらしい。確かに、当時を振り返って何でそんなことを――と自分でも思うけど。
それにしても、すっかり思い返すこともなくなった小学生の頃の話でこれほど話のネタを発掘するとは……。やれ先生に怒られた話だの、劇で地味な役を仰せつかったことだの、転じてクラスメイトの話題まで。伊達に六年間同じ教室の空気を吸っていたわけではないってところか。
札幌への終電が近づいていた。体感ではあっという間だ。
「あ、ちょっと私手洗ってくる」
「はいはい」
伊勢がトイレに行っている間に、会計を済ませた。
戻ってきた彼女が机の上のレシートに目を付けて、おやっという顔をする。
「あれ、もう払ったの? 幾ら?」
「いいよ。ここは俺が支払うから。早くそれ飲みきっちゃえ」
グラスに口を付けながら、不思議そうに俺を見つめる。半分近く残っていたので、飲み干す頃には顔に赤が差していた。
「ん。飲んだ」
「よし。じゃあ行くぞ」
さっさと店を出ると、駅前までの道中で「ねえ、やっぱり私出す……。割り勘で良いでしょ」とまだ言ってくる。
「要らないって。店の外でこそこそ金もらってたら、なんかみっともないだろ」
「じゃ、二軒目は私が払おっか」
「もう終電だ」
「え」
伊勢がポケットからスマホを取り出して時間を見た、バックライトで伊勢の赤い顔が夜に浮かぶ。
「うっそ! もうこんな時間。え、ていうか電車乗るの? こっち泊まらないの?」
「すすきので知り合いの部屋に間借りしてるんだ。宿代なんて一々払ってらんないしな」
「結局、松尾の話全然聞けなかったし」
「だから、別に面白くないって。ほら、早く行くぞ」
早々と歩き出す俺に、何故か伊勢の足が付いてこない。振り返ると、例のむかつく笑顔で俺を見ている。
「あはははっ、松尾、酔っ払いすぎ。駅はあっちだし」
「先に駅に行ったら、誰がお前を家に送るんだよ」
「……あ-。なる、ほど……」
勘違いしたのが恥ずかしいのか、しおらしい態度で俺の横に付いてくる。それに、伊勢の足取りはやや不安定だ。きっと最後にかっ込んだハイボールが効いてきたのだろう。額を擦りながらふらりふらりと俺に衝突しながら歩く。
どこまでも静かな夜だった。
いや、実際には遠くの道を走る車のエンジンや、近くの茂みからの虫の声、木々の葉が風に擦れる音が耳には入ってくるんだけど、俗に言う都会の騒音が殆ど無いんだ。東京の夜には、きっと知覚できない周波数の騒音ってのもあるんじゃないか。例えばエアコンの排気音とか。この夜の気の休まりようからすれば、そんなこともある気がする。
「……ちょっと、久々に酔った、かも。ふう……」
「大丈夫か?」
「大学の頃はもうちょっと、強かったんだけどね」
力なく笑った顔が妙に大人びて見える。見えるというか、大人なんだけど。
「伊勢、変わったよな」と、思わず素直な言葉が口から零れた。
「変わるよ、そりゃあ。もう児童じゃないんだし。どこが変わった?」
「……丸くなったかなあ」
「は? 太ったって言いたいの?」
「じゃなくて、性格的に」
「普通は綺麗になったとか言うところなんですけど」
「ああ、綺麗にもなったよ」
「……じゃ、それを先に言えしっ!」
「いや、そういうことを言いたいんじゃなくってさ――」
「ああ~、酔ったあ。明日休みかあ」
「伊勢に会えて良かったって言いたかったんだよ」
「…………」
急に押し黙った伊勢を訝しんで見てみると、目をぎゅっと瞑って、右手で真っ赤な顔を覆っている。
「……おい、そんなに酔ったのか?」
「うん――そう――平気――なんで――?」
「なんか変な顔してたから」
俯いたまま、顔を覆っていた右手で胸元をぴしゃんと叩いてきた。大して痛くはない。
「じゃなくてっ。なんで私に会えて良かったの」
「ああそっちか……俺って、あんまり野球に興味無いんだよな」
伊勢は額を指で擦りながら、横目で俺を睨む。
「はあ?……野球……?」
「そう。ファイターズも、せいぜい札幌のサウナで見るくらいなんだ。だから――」
俺は空を見上げた。星は見えなかった。
「多分、北広島に来ることは二度と無いんじゃないかと……」
「……」
「地元、というのともちょっと違うしな。俺の親、今は札幌に住んでるからさ。ここで過ごしたのは産まれてから小学校の六年間までで、時間は長いけど、やっぱり思春期は札幌だったから。そっちのイメージが強い」
「……」
「今日はエビと飲むことになるとは思わなかったけど、お前のことが知れて良かった。なんか、産まれた場所で昔の知り合いが頑張ってるっていうのは、別の世界を垣間見たような気がしたんだ。俺にとって北広島という町は、伊勢が小学校の先生をやっている場所、ということで良い」
「……何よ、それ」
「だから、まあ、お前はお前で頑張れよ。仕事と婚活」
「うっさ。勝手に応援すんなし」
手のひらにぴたりと何かが張り付いた気がした、続いて、頬に、脳天にと何かの感触が落ちて、
「小雨か」と再び空を見る。
「あ、ほんと」伊勢は手のひらを空に掲げて指先を摺り合わせた。「ね、台風で大雨降った日のこと憶えてる?」
「台風なんて、しょっちゅうあっただろ。いつのことか分かんないって」
「小四の春。私たち一緒に帰ったじゃん」
当時の思考を巡らせてみた。だが、台風の日というのは大概しみったれた記憶しかないんで、伊勢が何のことを言っているのかピンと来ない。それにも増して、四年生の頃の記憶となると思い返そうにも深淵の彼方なのである。
「なんかあったっけ……? 全然ピンと来ないんだけど」
「……分かんないならいいし」
*
伊勢の住まいに到着する頃には、雨の勢いは地面を打ち鳴らす程になっていた。騒がしいのはむしろ木々で、葉の間に侵入した水を、枝を奮って追い出しているようだった。
「じゃ、元気でな。エビ」
「ん。……てか、本当にもうこっち来ないの?」
「うん。別に用事ないし。エスコンも一回見物したし」
「じゃ、私と会うのもこれで最後じゃん!」
「だから、こうして別れの挨拶をしてるんだろうが」
「……はい。じゃあね。おやすみ」
「おやすみ」
小さなエントランスの庇から雨降る町に降り立つ。振り返るとまだ伊勢がオートロックを抜けずに俺を見つめている。目が合って、小さく手を振ってきた。
――結局、この町に来た目的は叶わずか。
そもそも俺に、それを叶える意思があったのか――
それにしても雨脚が強まりつつある。終電までは少しばかり余裕があったんで、近くのセイコーマートに入った。店員は姫カットの割と若めな女性――マジで若いな。大学生くらいか? この辺りでは見慣れない人間が来たんで驚いている、というか警戒しているんだろう。レジに立ちながらじっと俺を見つめている。
なんだか長居しちゃ悪いような気がしたんで、折り畳み傘を買ってさっさと出た。
すると、歩いてきた方から息切る音と水が跳ねる音がして――
「松尾っ……」
「伊勢?」
街灯の下に伊勢が立っている。傘も差さずに、肩を濡らして。
買ったばかりの傘を伊勢の上に開いた。彼女は少し潤んだ目で真正面から俺を見上げる。息も上がっているようだ。
「走ってきたのか? どうした? 忘れもんとか……してないよな?」
「――あ、ああっ、とっ」
「…………」
伊勢は息を整えながら、たっぷりと間を取って言った。
「うちで雨宿りしてっても良いんだけど」
……雨宿り?
俺は自分が今持っている傘を見上げる。傘を持っている人間に雨宿りを勧めるってのはどういうことだ。
「だから、もう終電――」
「んん」彼女は目を合わせないように俯いて、「それは分かってるけど」と呻く。
一歩、いや、数歩遅れて伊勢の言っていることに理解が及んだ。
彼女は多分、今夜は泊まって良いと言っているんだ。単なる親切か、酒の道連れが欲しかったのか、……好意……なのか? その真意は分からないが。少なくとも悪意はないだろう。
なんにせよ、驚天動地とはこのことである。
あの伊勢が、俺に家に泊まって行けと……。
「――あっ。あああ。そう?」
声が裏返ってしまった。咳払いをしてごまかす。
「ん」
「そ、それじゃ、コンビニで何か買っていこうか」
「うん」
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