第1話 「北広島は田舎じゃないんですけどおっ!?」

 それは、予報外れの大雨が降った日だった。


 朝時点の予想進路から台風の目がゆるりと機嫌を変えて、低気圧の外縁を我らが市立緑葉小学校上空に吹き込んだのである。


「学校が昼に終わるとか超ラッキーだよな、まっちゃん!」


 低学年を交えた集団下校で、カッパを着た俺の親友・けいちゃんが言う。一方俺はというと、父親のこうもり傘をその日は持たされていた。だが、あまりの振りように地面から跳ねた雨水がズボンをぐしゃぐしゃにしている。


「超、じゃないぞ。朝から振ってくれてれば、今日一日休みだったじゃん」


「……確かに! やっぱまっちゃんはクールだなあ。というか、今日この後俺んちで遊ぼうぜ」


「いや、めっちゃ濡れてるし。止んだら行くわ」


 そんなことを話しながらも、一人、また一人と集団下校の生徒が抜けていく。普段の登下校は大抵けいちゃんと一緒なので、集団下校というのは何となく心の浮き立つイベントだ。


「じゃ、俺こっちだから。雨止んだら絶対きてよ」


「おう」


 けいちゃんが最早四人きりとなった集団から抜け出そうとすると、前を歩いていた同じクラスの女子声を挙げた。


「あ、ちょっと待ってよ、けいちゃん。うちもそっちだから途中まで一緒に行こ」


「お? おお。お前こっちだっけ?」


「うん。最近ショートカット見つけたんだ。だからあっちの道よりちょっと近い」


「何それ!? 俺にも教えて!」


「え~どうしよっかな~? というか、エビちゃんどうする? 傘無いんでしょ?」


 それで初めて気づいたが、彼女たちは一つの傘を二人で使っている。しかも、話を聞く限りその傘の持ち主はここで帰路が分かれる女子らしい。


「気にしないでいいよ。私、風邪引いたことないし」


「あ、そう? じゃ、また明日ね!」


 傘を持った女子はそう別れを告げて、けいちゃんと一緒に走り出してしまった。あっさりしたもんである。


 こうして、傘を持った俺と、傘を持たない女子が二人きりになった。何度か集団下校をしているんで知っているが、彼女の家は俺の家よりもう少し遠いところだ。


 リュックを頭に掲げて歩き出す彼女の肩を、俺は叩いた。


「おい、ちょっと。エビ!」


「えっ、何?」


 呼び止めたは良いが、俺ははたと困ってしまった。


 ここで俺の傘に彼女を入れるのは簡単だけど、それは、エビと相合い傘をするということだ。相合い傘というのは好きな女子とやるもので、俺は彼女のことを好きでも何でもない。


 二人で同じ傘に入ることは避けなければならない。が、


「……傘!」と、沈黙に耐えかねて俺は父親のこうもり傘を彼女に突き出したのだ。


 エビはゲッと眉を顰めて、口元をにやりと歪めた。


「え、相合い傘? まっちゃんと? うええ~?」


「ち、違うわっ。貸してやる。お前ん家遠そうだし」


「それじゃ、まっちゃんが濡れちゃうじゃん。良いよ、別に。私濡れても平気だし」


「あー……と。俺、この後けいちゃん家遊びに行っから、ダッシュで帰るから」


 え、っと言葉を詰まらせた彼女に、無理矢理傘を握らせる。


「ちょ、ちょっと! まっちゃん!」


「明日返せば良いから! じゃあな!」


 *


 入学当時からクラスでは浮いていたと思う。縮れた黒髪を鼻まで伸ばして、低身長、短足、なんだかサイズの合わない長袖を一年中着ていたような――それでいて、休み時間は大抵、誰も読まないような大判本を読んでいる。


 それで……あの小規模なクラスで、何故か男子の俺が彼女と気があった。周囲、特に女子からは散々揶揄されたけど、今考えれば恋と自覚する一歩手前くらいのグラデーションの空気が、俺たちの間に漂っていたな。


 六月下旬の北海道の道路には、早くも逃げ場のない猛暑の気配が立ちこめている。染みこんだ雨もとっくに霧散しているようだ。


 夕闇の歩道を駅に向かって歩いて行く。


 東京と比べて札幌――じゃなかった。北広島の道というのは段違いで広い。向こうでは高架で掛かっているような広さ以上の道路が、こちらでは学校の校門前から駅までまっすぐ地面に広がっている。ただし、車の通りはさほど無い。


 ――と、学校の駐車場から出た一台の軽がするりと俺に追い縋ってきた。俺の行く先に停止して、開いた窓から助手席越しに伊勢が声を掛けてくる。


「ちょっとー! 何勝手に帰ろうとしてるわけ? 私がちょっと目を離した隙に……」


「勝手も何も、俺が帰るのにお前の許可は要らないじゃん」


 構わず停まった車を徒歩で追い抜くと、文句を言いながらのたのたとタイヤを転がしてついてきた。


「何なの? 松尾のとこの子供、うちに入学するの? ていうか、いつの間にこっち帰ってきたの? 夢破れた? リストラ? 親の不幸とか?」


「だから、そんなつもりで見物してたわけじゃ――というか、矢継ぎ早に不吉な質問をするな!」


「……結婚とか、してないわけ?」


「見たら分かるだろ」


「いや、分かんないし! というか――」耳障りなクラクションをパンと鳴らして言う。「話しにくいから、早く乗ってくんない? こんなとこ、児童に見られたら困るんですけど」


 ……この調子だと駅まで追ってきそうだ。


 取りあえず、大人しく助手席に乗り込む。


 それにしても、北方先生は一体何を考えているんだろう。校門前で俺に声を掛けたと思えば、せっかくだからと昔の教室を見物しろと言い出すし。見物してみれば、何故か伊勢に捕まるし。


 ……彼女のことを言い忘れた、ってわけじゃないよな。サプライズのつもりか。


 シートベルトを締めると、伊勢は気分を良くしたようにゆったりと道路を滑り始めた。車内に漂うのはビレッジバンガードとかで売ってそうな甘い芳香剤。バックミラーには「ちいかわ」のうさぎのストラップがぶら下がっていて、……


「なんか、お前のセンス従姉妹の姉ちゃんみたいだな」


「はあ? 何それ。ふふふっ。松尾さ、今日この後用事ある?」

 

「用事は、まあ、無いけど」


「あ、そ。じゃ、飲みに行こ。流石に聞きたいこと一杯あるわ」


 むず痒いような気がして、俺は親指の爪で鼻先を掻いた。


 職業柄なのかは知らないが、思えば長らく同年代の女性と損得抜きに会話をしたことが無い。それに、こんな急転直下の展開で飲みに行くなんて。まだ日も沈んでいないというのに。


 ……というか。


「飲みに行くって……こんな田舎に居酒屋なんてないだろ……」


 突如、車体がガクンと縦に揺れた。赤信号で伊勢が変なブレーキの踏み方をしたのだ。


「北広島は田舎じゃないんですけどおっ!?」


 何故かまずいことを言い当てられたように顔を赤らめて否定してくる。


 ……ひょっとして、あまりにも地元から離れなかったもんで変なコンプレックスでも抱えてるんじゃないだろうか。


 とはいえ、車窓から見える光景に田舎以外の似つかわしい言葉はあるのだろうか。助手席のすぐ横の道には洒落っけの無い大きな建物が建ち並び、道路反対側は草の敷き詰められた丘の上に三角屋根の住宅街。小綺麗ではあるが、面白みに欠ける。


 確かに、更に道東、道北となればこれ以上の過疎風景が広がっている。だけど、そっちは最早田舎と言うより過疎集落だしな……。


「地元出た人って、すぐ田舎田舎って言う……! こっち残ってる人間からしたらマジ不快なんですけど」


「わ、悪かったよ。けど、本当に居酒屋なんてあんの?」


「あ、り、ま、す~! ここら辺は最近賑わってるんです~! これから北広島が北海道の中心になるんです~!」


「ああ。それってエスコンフィールド効果?」


「そっ。今や北広島は正真正銘日本ハムファイターズの拠点だし!」


「拠点ねえ……」


 ふと目線を横に向けて、俺は見慣れたはずの町並みを眺めた。昔住んでいた俺の家は駅からは正反対の方向だったので比ぶべくもないが、やはり変質している感じはあるかな。


 この北広島に北海道のプロ球団・日本ハムファイターズの新拠点となるエスコンフィールドが開設された。実は、かくいう俺も朝の電車で札幌からエスコンフィールドを見物しにやってきたのだ。……ついでに、目的とは言えない程度の調べ物があったんだけど。


 とにかく一言で表すのなら、テーマパーク。


 もはやその規模は一球団のホーム球場に留まらない。広大すぎる敷地には席数三千の米国風球場は勿論のこと、種々様々なグルメ、居酒屋、スポーツショップにサウナ、ホテル……。それに伴って、今後市の主導で市内の居住施設の開発が決まっているらしい。


 この町は今も変わり続けているというわけだ。


 小学生までを北広島で過ごした俺にとっては、嬉しいような、なんだか取り残されたような――


「あ、そういえば、まっちゃ――松尾」


「ん?」


「……おかえり」


 昔のあだ名をつい呼んだのが恥ずかしいのか、少し間を取って伊勢は言った。


「ただいま。久しぶりだな、エビ」


 彼女の名前は伊勢いせ里映りえ。名前をひっくり返して、イセエリ。誰が読んだか伊勢エビ。俺が縮めて、エビ。


「……。次そのあだ名で呼んだらゲンコツね」

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