本編

プロローグ

 北海道は札幌市――の右下に位置する小さな市(北海道のスケールで)、北広島。


「な、何してるんですか――こんなところで!」


 電車を降りたときに振っていた雨は上がっていて、今はもう窓のサッシに水滴を残しているだけ。雨脚がその足跡を付けていったみたいに。


 この生まれ故郷、夕暮れの赤が差し込む母校・緑葉小学校の、様変わりした教室で二十七の俺は今。


「ひ、人を呼びますよっ、人をっ」


「……」


 さすまたを持った女に、詰められている……。


「なんとか言ったらどっ、どうなのよおっ」


「いや、あの、だから……」


 とはいえ、俺は小学校の教室で一人黄昏れる成人男性。つまり、このシチュエーションにおいては不審者には違いない。事情を知らないこの女からすれば。


 どう言いつくろうべきなのか、いや、そもそも言いつくろえる程真っ当な理由で俺はこの校舎に入ったのか。


 今日俺は新設された野球場を見物した後、町の新しい部分から身を隠すようにここまで歩いてきてしまったんだ。何となく、ここには変わらないものがあるんじゃないかと思って。


「……俺は、不審者じゃない。校舎を見学していただけですよ……」


 夕日に染まった女の顔を、真正面から見据えて言う。


 年頃は丁度俺と同じくらい、だろうか。根元から毛先までは日を梳くような茶色で、ウェーブの掛かったボブ。身長は俺より低い、百六十三くらい? 着衣はイエローのブラウスにジーンズ。胸元にはシルバーのネックレス。


 全体的な印象としては、首元のすっきりした凜々しい女性――って感じだが、一点気になるのがその目元。垂れ目ともつり目とも少し違って、なんというのか、人を小馬鹿にしたような、ナチュラルでこちらを嘲笑っているような、そんな……生意気な目つきなのである。


 女は、銀色に光るさすまたをますます俺に近づけてきた。思わずたじろいで、教室後方のロッカーに背中をぶつけてしまう。


「入学前説明会の時期ならもうとっくに過ぎてるんですけど」


「いや、別にそういうんじゃなくって。ただ、ふら〜っとね……」


 自分でもどうかと思う言い訳に、女は震える目を更に光らせた。


「やっぱり不審者だしっ。生憎、もう児童は帰ってます〜!」


 それは嘘だ。校庭のグラウンドにはまだサッカーをしている児童たちがいる。


「だから違うって。……俺は、この学校の卒業生なんだ」


「そつ、業生……?」


 さすまたが、少しだけ項垂れた。


「さっき校門の前で校長先生と会って、中に入れて貰ったんだ。これで分かったかな。分かったら、取りあえずその物騒なものを降ろしてくれないかな」


 ゆっくりとさすまたの先を掴み上げると、女は慌てて身を引いた。


「――いいえ」再び目に力を込めて、再び俺の脇を突いてくる。いよいよ教室の壁に捉えられてしまった。とはいえ、こんなものはなんの抑止にもならないことを俺は知っている。さすまたというのは二人以上で使って初めて意味があるのだ。「この学校を卒業したなんて、誰でも言えるし。それなら卒業年度は? この学校には古参の先生が何人もいるの。確認して貰います」


「そんなの憶えてねえよ。参ったなあ」


「てか、あんた何歳」


「二十六」


「にじゅ――」


「……今年で、二十七」


「私と、同い年……?」


「知るか、そんなの」


「じゃあ、……六年生の時の担任の名前」


 馬鹿馬鹿しくなった俺は首を竦めた。すると女は「んんっ」と唸って、さすまたの先をぐりぐり腹に押しつけてくる。


「――き、北方先生だよっ。というか、今の校長! 校門前で会った……。そんなに怪しむんなら、本人をここに呼んでこい!」


「!……嘘……」


「嘘じゃないって! マジで突っつくの止めろ!」


「黙って。……ちょっと、横向いて。窓の方」


 なんなんだ、と思いながらも言われた通りにする。再び顔を戻した時、目の前にはあんぐりと口を開いた女の顔があった。


「やっぱりそうだ――松尾じゃん!」


「えっ」


 ――。


 一瞬思考が止まっていた。


 何を隠そう、俺の名前は松尾良一。


 何故、目の前の女が俺の名前を知っているのか。


 だが、そのショックは俺にあの日の――小学生の頃の記憶を思い出させたのだ。


 ……そうだ、この女の目付きには見覚えがある。


 当時この学区には子供が少なくて、俺の代の入学者数はたったの二十六人。当然クラス分けもなくて、六年間を同じメンバーで過ごすという閉鎖的なコミュニティだ。だけど、その分俺たちの友情は固かったように思う。


 そんな少年時代の、ほろ苦くて、今となっては少しだけ甘いと思えるあの頃の記憶の登場人物。


「お前――伊勢、か?」


 俺の言葉に、表情に、目の前の女が目の下に皺を寄せてにやりと笑った。そういう笑い方は小学校の頃とまるで変わらない。


 その笑顔を前にした瞬間、幼稚で恥ずかしくて後悔ばかりの物語が今、再び目の前に足を降ろしたような気がした。

 

 ――止まったままの思い出が、十年余りの時を超えて今。

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