ゆうべはおたのしみでしたね

ゆうべはおたのしみでしたね


「ゆうべはおたのしみでしたね」


 カウンターの内側に立つ宿屋の主人は、チェックアウトする妙齢の男女ペアの宿泊客に笑顔でそう語り掛けた。


 とある宿屋。宿の受付兼バーのカウンター。

 天高くのぼった太陽が、窓を通じて室内を明るく照らしていた。

 

 宿屋の主人のふくよかな体躯が、その商才を物語っていた。

 中年といって差し支えのない年齢。その紺髪の髪には所々白髪が光っている。

 顔立ちは、特に言ってこれといったところはないが、全体的に丸みがあり、それがどこか愛嬌を感じさせる。


 宿は一階の|飯処(めしどころ)として、二階は宿屋としての顔をもっていた。

 今も一階は様々な顔で賑わっていた。

 これから仕事に向かう者。仕事の途中で休む者。そもそも仕事が休みの者。

 一階の飯処の利用者はそのほとんどが男性であった。

 その間を、一人の年若い少女が給仕として忙しなく動き回っていた。


 宿屋の主人の声は良くとおった。

 それは彼がこの宿屋の主人であるからなのかもしれない。


 その声と、遅れてその意味を理解した他の利用客たち。

 彼らは、また始まったとばかりに、にやにやと笑っていた。

 ざわりと、ざわりざわりと、声が広がる。


 一階で食事をとっていた男の一人が、指笛を拭いて揶揄うと、周囲の男からも温かい野次が飛ぶ。

 カウンター席で一人座っていた客だけが無関心であった。


 それを耳にした男は、叩きつけるように部屋の鍵をカウンターに置いた。

「は、ははは、ちょっと何言ってるんだマスター」


 声を潜める男に、宿屋の主人は相変わらずただ笑みを浮かべている。

 何も言い返さずただ笑う宿屋の主人に、男は不機嫌そうに宿を立ち去って行った。

 同伴の女性も肩を落として、その男の背中を追って店を去って行った。


 次に二階から姿を見せた宿泊客も、妙齢の男女のペアであった。

 二人は腕を組んで階段を降りてくる。

 貴族や村人から依頼をこなして生計を立てる冒険者だろうか。

 二人とも体を動かしやすそうな服装で、腰には短剣を帯びていた。


 二人が宿屋の主人のいるカウンターまで来ると、滑らすように鍵を置いた。


 宿屋の主人は再び口を開いた。

 それはそっくりそのまま、先ほど去っていった客へ送った言葉と同じであった。


「ゆうべはおたのしみでしたね」


 冒険者の男は、その言葉に少し驚いた様子を見せる。

 周囲の一階にいた男たちも先ほどより大きな声で、冒険者の男を冷やかした。


 冒険者の男は気恥ずかしそうに顔を伏せると、チェックアウトを済ませ、足早に宿を後にした。

 今度の同伴の女性は、怒りを露わにした。二人のやり取りが気に入らない様子である。

 しかし、先に足早に立ち去った男の背中を追いかけ、彼女もまた宿を後にした。


 カウンター席に腰かけ、宿屋の主人と宿泊客のやり取りを見ていた飯処の利用客がいた。

 その利用客はこの時間帯で唯一の女性客であった。


 彼女は服飾の仕事を生業とする者で、つい最近取り掛かっていた大きな案件に区切りがついたところ。

 ここのところ働き詰めであった自分への褒美に、宿屋の主人の経営する飯処に足を伸ばしていた。

 年頃だが独り身の彼女は、それまでカウンター越しに働いている宿屋の主人に、仕事の愚痴を聞いてもらいながらエールを何杯も煽っていた。


 顔を少し赤らめながら服職人の女性客が口を開く。

「ねぇマスター。あなたいつもそんな下世話なことを聞くの?」


 宿泊客から返却された部屋の鍵を整理しながら、

「なんのことでしょうか?」

 真顔で服職人の顔を見た。


 服職人は宿屋の主人を見る目を細めると、

「しらばっくれちゃって。さっきからしている質問はちょっと野暮じゃない? 同僚から勧められてさ。今日ここに初めて足を運ばせてもらったけど、そう言うことは何も衆目の前で言わなくてもいいんじゃないの?」

 そう言って、手にしたエールをぐびりと一気に煽った。


 服職人の言葉に、宿屋の主人がその口を開く。


 しかし、それを遮るように、むさくるしい大男が服職人の座るカウンター席の隣に座り込んだ。

「そりゃあないぜ、ねえちゃん。俺たちはこれを楽しみにしてるんだから、なぁ野郎どもッ!」

 そう言って大男が振り返ると、一階にいた男たちがジョッキやグラスを掲げた。


 そこかしこから、ジョッキやグラス同士をぶつける音が響く。


 宿屋の主人は遮られた言葉をあらためて吐き出した。

「お客様のご要望ですので」


 下品に笑う大男は、笑いながら自分の仲間の座る机へと戻っていく。

 それを服職人は不快そうに見送った。


 しばらくして、次に階段から降りてきたのは、立派な外套を纏った剃髪の男だった。

 彼が外套の下に纏うキトンは、この辺りでは有名な宗派が身に纏う衣類として知られていた。

 服飾人は、その存在に気がつくと、ピクリと反応を見せた。


 挨拶もそこそこに、宿屋の主人が口を開く。

「チェックアウトですね。相部屋のお部屋に問題はありませんでしたか?」


 相部屋には鍵がないので、口頭でのチェックアウトのみである。


「あぁ、悪くなかった。おかげで疲れが取ることができた」

「それは良かったです。よろしければ、次回はぜひ個室のご利用もご検討ください」

「予約が取れたら考えておくよ」

 彼はそう言って、宿屋の主人に礼を述べると、チェックアウトを済ませた。


 部屋の鍵を返し終え、カウンター席の後ろを通り過ぎる剃髪の男。

 それを横目で追う服職人。


 ちょうど彼女の後ろに来た際に、その彼女の視線に気がつき、

「なにか?」

 剃髪の男は尋ねた。


 服職人が顔を逸らして、

「いや、別に……」


 その言葉に、そうですか、と言うと再び歩きを進める。

 剃髪の男の姿は、直ぐに宿の外、街の喧騒に飲まれていった。


 それを最後まで見送った服職人は口についた泡もそのままに、宿屋の主人に向かって追加のエールを注文するのであった。

 

 ◇


 薄暗い夜明け前。

 服職人は職場へと向かっていた。


 朝露に濡れる石畳の上を歩く。

 久しぶりの休暇を取ったので心も体が軽かった。 


 ほどなくして職場につくと、挨拶を交わしながら彼女に割り当てられた作業机に着く。

 大きな仕事は休暇前に片付けていた。

 そのため、急ぐわけでもない彼女は両隣の同僚と言葉を交わす。


「そう言えばどうだった? 例のお宿?」

「あれよね? 連休前に勧めてくれたところよね? あなたたちが理想的な男を見つけるのに一番のお宿、って言うから行ってきたわよ」


 その言葉に、きゃあー、と両隣の席が盛り上がる。

 三人は恋に恋するお年頃であった。

 愛する人との結婚、という乙女なら誰もが一度は描く夢。


「それで?」

 目を輝かせる同僚たちに、

「それで、って。別に……。お酒とご飯は美味しかったわ。それに宿の一階のご飯処には独り身の男が多そうだったけど……私の好みじゃなかったわ」


 彼女がそう言うと、両隣の同僚は揃ってキョトンとした顔を浮かべた。


「……あなた何か勘違いしてない?」

「たぶんしていると思うわ」


 左右に座る同僚は、その顔を見合わせると揃ってため息を吐いた。


「どういうこと?」

 そう言って眉を寄せる。


「あのお宿は気になる男性と二人で行くお店なのよ」

「ご飯に、じゃないわよ? 個室の部屋に、二人で泊まるの」


 両隣からの言葉に少し不機嫌になる。

「私はそんなに軽くないわよ」


 またしても勘違いしている様子の彼女に、顔の前で手を振った同僚は、

「違う違う。別に深い関係にならなくてもいいの」

「ただ一緒に泊まるだけ。もちろん深い関係になってもいいけど。あなたにも気になる人の一人や二人いるでしょう?」


 ほれほれー、と言って同僚の二人が悪戯な笑みを浮かべながら、彼女の顔を探る様に覗き込んだ。


「気になる人って……。あっ、でもそう言えば、お宿で私が初めて作った男性用の外套を買って行った人を見たわ」

「それって。この前に店に来た剃髪の彼よね? あなたがお熱をいれてた」

 揶揄うような同僚の声に、

「ね、熱って……。確かにかっこいいとは思ったけど」

「あなた短髪で野性味がある男がタイプだもんね」

「剃髪は短髪だった……?」

「……でも連絡先は知らないわ」

「私、知っているわ!」

「えっ。これってもうそういう運命じゃない?」


 三人は大盛り上がりであった。

 彼女たちの上司が、中々仕事に取り掛からない三人にしびれを切らすまで、三人の声が止まることはなかった。


 それから、彼女の同僚のお節介は早かった。

 あれよあれよと、二人の顔合わせの場が設けられた。


 相手の剃髪の男も独身で、服職人の彼女とは同い年であった。

 同い年ゆえか。二人の感性は近かったため、二人の距離が深まるのに、さほど時間はかからなかった。


 二人は順調に逢瀬を重ねていった。


 服職人の彼女が剃髪の男との結婚も考え始めた時、ふと同僚の話を思い出した。


『――いい? あの宿屋にはただ泊まるだけじゃだめなの』

『そうそう。必ず"オプション"をつけないといけないわ』


 オプション? と首を傾げた彼女に、同僚は優しく宿屋のオプションと、それにまつわるとある|伝説(ジンクス)を話した。

 

 理想の男を見つける|オプション(おまじない)のお話を。


 その伝説は、宿屋の恋する一人の乙女の足を、宿屋と突き動かすには十分であった。


 ◆


 日が沈み、残光が空に色を与えている。

 オレンジと蒼が入り混じった東の空が美しい。


 店の路地裏。そこで空になった木箱を整理している宿屋の主人。

 腰をかがめて、空の木箱を整理していると、影が宿屋の主人を覆った。


 視線の先が一段と暗くなる。

 顔を見上げた宿屋の主人の先に立っていたのは、一人の妙齢の女性。

 それはいつぞやの服飾を生業とする服職人であった。


「あ、あああのッ!」

「あなたは……いつぞやの服飾屋さん?」

「覚えていてくれたんだ?」

 驚いた様子の服職人に、

「人の顔を覚えるのは、私の数少ない特技ですので」

 そう言って遠慮がちに笑った。


 彼女がただでさえ珍しい女性の一階の利用客であったこと。

 加えて、しこたまエールを煽っていたこと。

 これらのことから、服職人の彼女の存在は、未だ宿屋の主人の記憶に残っていた。


 宿屋の主人を前にもじもじとする服職人。

 それを急かすでもなくただ待つ。

 どこかの空で鳴いた鳥の乾いた声が、二人のいる路地裏まで響いてきた。


 意を決して顔をあげると、

「あのッ。予約を、したいん、ですけど……」

 尻すぼみになっていく声。


 宿屋の主人はいつもと変わらぬ笑かべて頷くと、

「宴会のご予約でしょうか? 宿のご予約でしょうか?」

「宿泊でお願いします。その……オプション付きで……」


 宿屋の主人はもう一度頷いた。


 ――おぷしょん、えらく人気だなぁ。




 すべては今は亡き宿屋の主人の妻の言葉から始まった。

『――お帰りになるお客さんに、言葉を一言、添えてみましょう。他でもない、あなただけの言葉を』


 それは今から二十年前の話。


 故郷の村を出て、街の近くの農家に住み込みで働いていた一人の男。

 真面目な男は一生懸命に働いた。雨の日も風の日も。

 同僚が厳しい現場に耐えかねて逃げ出しても、彼は逃げなかった。


 そんな男にも楽しみがあった。

 それはたまの休みに街へ足を伸ばし、行きつけの店に行くこと。

 それが彼の人生の楽しみ。

 行きつけの店の女性に一目惚れしていたのだ。


 女性を色々なものを男に与えてくれた。


 ある時、いつまでたっても街の垢抜けた女性に慣れない男に、女の子を教えてくれたこともあった。

『――ねぇ、女の子が何でできているか知っている?』

『え、えっと、それは血と肉とか、魂とか……?』

『もー、違うわよ。女の子はね――』


 真面目なことだけが取り柄の男は、紆余曲折を得て、幸運なことに一目惚れしたその女性と結婚することができた。


 その後、二人の間には子宝にも恵まれた。


 順調な人生を歩んでいた男は、十年前のある日、長年の夢であった宿屋を開くことにした。


 男は宿屋の主人になったのだ。


 長年の夢は、ご飯の美味しい飯処としてお客さんが集め、成功を収めた。

 それには彼の妻の力が大きかった。

 かつて、宿屋の主人となった男の行きつけの店の看板嬢であった妻は、商売を、人の惹きつけ方をよく理解していた。


 宿屋の主人にとって、人生の何もかもがうまくいっていた。

 愛する伴侶に娘。自分の店。仕事。世間の評判。


 宿屋の主人は、そんな生活がこれからも続いていくものだと思っていた。


 しかし、そんな公私にわたって順風満帆な生活に思えたある日。

 その彼女が病で倒れたことを機に、事態が一変する。


 口下手な宿屋の主人の経営で、日に日に傾いていく。

 宿屋の主人なりに妻の真似も試みてみた。

 しかし、客からはただ気味悪がられるだけであった。


 病床からレシピを教えてくれた妻の期待に応えるために、寝る間も惜しんで、料理も一生懸命勉強した。

 しかし、それを集客に結びつけることができなかった。


 日増しに遠のく客足。


 いつからか店には終日、閑古鳥だけが鳴くようになっていた。


 店の操業資金は、あっという間に底を尽いた。

 それを溜めるのには長い時間がかかったが、それが無くなるのに長い時間は必要なかった。


 やせ細った病床の妻の手を握り、涙する主人。

 医療の知識はない彼であったが、それでも目の前でベッドに横たわる最愛の人物の迎えが、すぐそこまで迫っていることだけは理解していた。


 地面に両ひざをついて、握り締めた彼女の手に自身の額を当てる主人は、まるで懺悔しているようであった。


 すすり泣く主人は、

『すまない。本当にすまない……。私が不甲斐ないばかりに、こうして最期まで君に苦労をかけて』


 悲しみと自責の念に苛まれる。

 別れなければならない現実と、その最期くらい安心して逝って欲しいのに。

 それすらできない自分の無力に。


 主人にとって、彼女には与えてもらうばかりの人生だった。

 逢引、異性、恋人、伴侶、娘、宿、料理など数え上げればきりがない。

 

 妻はそのすっかりこけてしまった頬を緩めると、

『ううん、良いのよ……。何があっても、あなたと添い遂げるって、私が決めたんだから……。あなたは、優しい人だけれど、宿屋の主人としては、言葉が少なすぎるのかも、しれないわね……。そうね――お帰りになるお客さんに、言葉を一言、添えてみましょう。他でもない、あなただけの言葉を』


 そう言って柔らかく微笑んだ妻。

 それが主人が見た最愛の人の最後の笑顔であった。


 その翌日、彼女はこの世を去って逝った。その一言を待たずに。


 宿屋の主人は、最低限の質素な葬儀を執り行うと、娘と共に一日中泣いた。

 大の大人が泣きつかれるまで泣いた。


 そして、翌朝を迎えた時、宿屋の主人は誓った。

 真面目な男は、心から愛した女性の最期の言葉を守ると誓った。


 宿屋の妻の葬儀の翌日。

 その日、何かに導かれるように、店には久しぶりに二人の宿泊客が現れた。

 それはやけに風格のある好青年と、これまたやけに貴賓のあるうら若き女性だった。

 娘が聞くと、二人とも旅の者ということであった。


 二人にはある種のカリスマ性があった。


 その二人の影響か、宿泊客こそ彼ら以外にいなかったものの、ご飯処にはチラホラと客足が戻り、その日は久しぶりに忙しい日であった。

 その忙しさは、心にぽっかりと空いた喪失感を、ほんの少しだけ紛らわせてくれた。


 唯一の宿泊客であった二人には、宿屋の主人はチェックアウト時間は気にしないでいいと伝えた。

 宿屋の主人には、宿泊客へ送る言葉を考える時間が必要であった。

 

 その翌日、一泊だけであった二人が、昼前に二階から降りてきた。

 既に一階の飯処は、どこかカリスマ性のある二人を見ようと、街の人たちで朝から賑わっていた。

 

 男が部屋の鍵をカウンターに置いた。

『――チェックアウトで』


 宿屋の主人は、妻との約束を果たすために口を開ける。


 宿屋の主人は、二人が宿泊を決めたときから、ずっと言葉を考えていた。

 しかし、学のない頭では結局何一つ言葉は出てこなかった。


 震える唇。浅くなる呼吸。脈打つ鼓動。


 なかなか鍵を受け取らない宿屋の主人に、青年が何かあったのかと視線を向けた。


 自身の鼓動が耳に響く。周りに聞こえるのではないかと思うほどに激しい動悸。


 ――ゆうべは、ぐっすり眠れましたか? これだッ。これでいこうッ。


「ゆうべは」

「ゆうべは?」


 宿屋の主人の震える声を反芻する青年。


 二人のやり取りに一階にいる全員が、耳をそばだてていた。

 会話一つないどころか、食器のぶつかる音、咀嚼する音、嚥下する音。

 音という音が、何一つ聞こえない。


 宿屋の主人の耳がひどく熱をもつ。


 ――言えッ。言うんだッ。


 宿屋の主人は、これから自分がひどく間違ったことを言おうとしている気分になった。その視線が徐々に下がっていく。


 心に不安という影が差しかかったとき、思い出した。|今際(いまわ)の妻の笑顔を。そして、愛した人へ捧げた誓いを。


 視線を上げて、目の前の青年を見つめる。


 ――ええいままよッ!


「ゆうべはおたのしみでしたね」


 沈黙が支配した。


 極度の緊張状態にあった宿屋の主人は、自身が何を言ったのか理解していなかった。

 宿屋の主人と青年以外は、彼が何を言っている言葉の意味を正しく理解していた。


 青年には、力があった。風格があった。威厳があった――そして、純粋無垢であった。


 その結果、当事者の青年と宿屋の主人だけが、言葉の意味を理解していないという奇妙な状況を生み出した。


 宿屋の主人の言葉に、青年は|昨晩(ゆうべ)を振り返った。


 部屋を共にした女性と雑談で大いに盛り上がったことを思い出し、

「えぇ、ありがとうございます」

 青年は穢れなき笑顔でそう言い切った。


 宿屋の一階が爆発した。

 爆発したと錯覚するくらいの歓声が、宿屋を包んだ。


 青年と共に宿泊した美しい女性が、青年の後ろで嬉しそうにその頬を染める。

 顔の輪郭をなぞるように、色づいた自身の頬に両手をあてていた。


 ◇


 青年と彼と共にいた女性は、その後結婚した。

 宿屋の主人がその事実を知ったのは、彼らが去ってしばらく経った頃であった。


 あの日以来、カップルや夫婦の利用者の予約希望の声が殺到した。

 一部屋を残して、相部屋を全て潰し個室に変えた。

 それでも、あっという間に数ヶ月先まで予約で埋まった。


 そして、その利用客のほとんど全員が妙な要求をしてくるのだ。それも全く同じ。


 最初は目も回る忙しさであった。

 なにせ閑古鳥が鳴き続けた店が、一夜にして予約で生まれ店へ生まれ変わったのだ。

 飯処も大盛況になった。

 二人では店を回せないので、すぐに従業員も雇った。


 最初こそおおわらわであったが、妻との思い出の店。

 娘と、そして従業員たちと一丸となって、店を盛り立てた。


 数年の時が流れ、店が軌道に乗ると、あらためて宿屋の主人に考える時間も生まれた。

 ――なんでこうなったのかと。


 その答えはすぐ近くから返ってきた。

 それはすっかり成長してお姉さんになった娘からであった。


「あのカッコイイお兄さんとキレイなお姉さん。結婚したんだよ」


 宿屋の主人は、世俗に疎いため知らなかった。

 あの日訪れた二人が有名人であることに。その後、二人が結ばれたことにも。


 そんな父親とは反対に、宿屋の主人の娘は、母の血を色濃く受け継ぎ、社交性溢れる立派なレディへと成長していた。

 それはときおり、父親である宿屋の主人に若き日の妻を彷彿させるほどに。


「恋人の聖地、って女の子の間で言われてるんだよ」

「……え? なにそれ?」


 宿屋の主人は、突然その後頭部をハンマーで殴られたかのような感覚に陥った。

 寝耳に水。宿屋の主人が宿屋の主人となってから、二十年近く経つが全くの初耳であった。


「この宿でお父さんが『ゆうべはおたのしみでしたね』って言って、それを受け入れた男性と女性の関係はうまくいくんだって」

「なにそれ、怖い……」


 宿屋の主人は宿屋の主人であって、祭司でもなければ、愛の伝道師でもない。

 宿屋の主人と青年のやり取りに、尾ひれと背びれ、それに翼がついたくらいに話は飛躍して、拡散されたようだ。


 顎に指を当てて宙を見つめる娘は、

「女の子でこの話を知らない人はいないんじゃないかな?」


 娘の情報にその話の規模がになる宿屋の主人が、

「この街で……?」

 恐る恐る尋ねる。


 それに娘の満開の笑みを浮かべると、

「ううん、大陸でッ!」

「大陸ッ……!?」

 宿屋の主人の声が思わず裏返る。


 恋物語は民族や国境を軽々と超えていた。


「お父さんはそのままでいいよ。何も気にしないで。いつものようにしていればいいから。ただ、オプションって言ってくる子には、例のセリフを言ってあげてね」

「……わかったよ。はぁ、いつまでたっても、お父さんには女の子はわからないよ」


 これみよがしに肩を落とす宿屋の主人に、娘が笑いかけた。


「えー。私がいるのに? じゃあ教えてあげる。まずは、女の子が何でできているかね。知ってる? 女の子はね――」


 娘の言葉は宿屋の主人の記憶を刺激した。

 ふと脳をよぎったのは、若かりし頃の色褪せない記憶の欠片であった。

 

「――お砂糖とスパイスと素敵な何かでできているの」

『――お砂糖とスパイスと素敵な何かでできているのよ』


 娘の言葉に宿屋の主人は無言で微笑む。

 あの頃から随分と皺の増えた手で、自身の心臓部を服の上からそっと握りしめた。


「お父さんの言葉はきっとスパイスなのよ。女の子の恋にふりかける」

「……そうか。じゃあお父さんも、まだまだがんばらないとな」

「うん。がんばって――あ、そろそろ時間じゃない?」

「もうそんな時間か。じゃあお父さんは行くよ」


 席を立つ。部屋の隅に置かれた姿鏡を使って、身なりを整えると部屋を後にする。


 カウンターへと続く扉の前で一つ深呼吸すると、扉を開けて足を踏み出す。

 先に働いていた従業員に挨拶交わすと、まずは備品と在庫の確認を行う。


 夜の営業に向けて酒類の確認を行っている時、階上から誰かの降りてくる足音。

 宿屋の主人が顔を上げると、昨晩宿泊した服職人の女性が、剃髪した男性と会談を降りてくるところであった。


 二人がカウンターに立つ宿屋の主人の前にやってくる。

 剃髪した男性が一歩前に進み出て、部屋の鍵をカウンターへと置いた。


 それを確認した宿屋の主人は、笑顔を浮かべて、この日も口を開く。

「ゆうべはおたのしみでしたね」


 天高くのぼった太陽が、世界を明るく照らしていた。

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