第6話

 翌日の午後、僕ら家族は揃って、メルの安置された部屋に入った。

 この数日間、僕はドアの前を素通りするだけで、一度もこの部屋に入らなかった。今も、完全には恐怖を克服できていないが、それでも腹を括って、両親とともにドアをくぐった。二人の後ろに、少々緊張しながら続いたのだが、僕のそんな様子に父も母も気づいていないみたいだった。

 メルは、最後に会った時とさほど変わったふうもなく横たわっていた。目は閉じられ、口は以前は少し開いていた気がするが、今は閉じられている。目元と口元の皮膚がパサついていて、体も全体的に萎んだ気がするのは、たぶん乾燥のせいだろう。ほかに目立った変化は見られず、僕は心底ほっとした。

「うう、寒いな」父がぼやくのも無理はない。エアコンの温度設定は十六℃だ。

「ほら、声をかけてあげなさい」

 母にせっつかれ、僕はメルの傍らに膝をついた。「メル」

 近づくと、さすがに腐臭らしきものが鼻をくすぐった。そりゃそうだよな、人間だって動物だって、死ねば腐るのは当たり前だ。なぜか、そう考えても恐怖は込み上げず、むしろ気分が落ち着くのを感じた。

「メル、お別れだな」

 よし、じゃあ行こうか、と父が言い、僕はそれに頷いた。

 メルの体を毛布でしっかりとくるみ、僕と父で車まで運んだ。普段、車には乗らないのでレンタカーだ。荷台にメルを運び入れると、僕らは車に乗り込み、神社へと向かった。

「お葬式が終わったら、このまま何か食べに行きましょうか。車を返す前に」母が妙にはしゃいだ声で言う。

「そうしようか。周太、何食べたい?」

「何でもいいよ」と、僕は答えた。

「そういえば、神社にも屋台が出るらしいわよ。そんなに多くはないらしいけど」

「ほんとか? まあ、一応お祭りだしな」

 僕は尋ねた。「普通のお祭りとは、やっぱり違うの?」

 助手席の母が、僕を振り返る。

「もうちょっと畏まったものらしいわよ。神事、っていうんだって」

 神事…… 僕は考え込んだ。「それとお葬式を同時にやるなんて、ちょっと変じゃないかな」

「まあ、儀式のやり方なんて、神社によって千差万別だからな。古いところほど、おおらかな考えを持っていたりするし」

「花中神社って古いんだ?」

「ここらが農村だった頃からあるらしい」

 車は神社の駐車場に停めた。とはいえ、山の麓なので神社まではかなり距離がある。父はメルの頭側を、僕はメルの後ろ脚側を抱えて、そこからえっちらおっちら神社を目指した。みくり坂が見えてきて、僕が勤めるコンビニの前を通過したが、誰も何も言わなかった。

「いや、こりゃ大変だな」坂を登り始めると、父が情けない声を出した。「周太、お前、こんなに大変だってなんで言わなかったんだ」

 知らないよ、と僕は応じた。「さっさと運ぼう」

 ありがたいことに、坂の勾配は緩やかで、歩きやすいよう整備されていた。ハイキング・コースとしても親しめる、なだらかな登山道、といったところだ。同じく神社を目指す人や、道を下ってくる人の姿がちらほらあって、どの人も、こちらの荷物を見ると訳知り顔でにこにこした。挨拶をしてくれる人も何人かいた。

 なんとなく、それに励まされながら、僕と父は休憩を挟みつつ坂を登った。ようやく鳥居をくぐったと思ったら、今度は石階段だ。たかが十数段の階段だが、今の僕たちにはキツかった。ふうふう言いながらメルの体と自分たちの鈍った体を押し上げ、やっとどうにか境内の入り口に辿り着いた。

「お疲れ様! はい、お茶」母がペットボトルを差し出す。思ったより気が利く人だ。

 メルには悪いが、一旦地面に下ろさせてもらい、冷たいお茶で喉を潤した。それから、ようやく余裕を取り戻して周囲を見渡した。

 行き交う人の数から、なんとなく予想はついていたが、まあまあ多くの人出だった。境内には母が言ったように、屋台が幾つかあるようだ。入り口のすぐそばでは、鈴カステラが売られていた。屋台の前には、まばらな行列もできている。行列の中には、白装束を着た者も混じっていた。見渡すと、境内のあちこちに白装束姿が垣間見える。

「俺たちも白装束を着てきてもよかったな」

 ここまでの道のりの大変さも忘れて、父が呑気なことを言う。

「ああいうのは信者の証しよ。でも、うちにも一着あってもいいかもね」

 少し先に事務テーブルを並べた受付らしき場所があったので、僕は母をつついた。「あそこ、受付みたいだよ」

「ほんとだ。行ってくる」

「おい、メルをどうすりゃいいんだ」

 とりあえず、母の後ろからメルを運んでついていくと、巫女の格好をした受付係が声をかけてきた。「安置所はあちらになります」

「ああ、あれか」

「大型犬ですか? 大型犬は一番奥になるので、そちらにお願いします」

 僕と父は方向を変え、えっちらおっちら教えられたほうへメルを運んでいった。

 安置所には仮設のテント屋根が並んでおり、その下に無数の動物の亡骸とおぼしきものが並べられていた。小さなものから、大きなものまで。紙箱や、タオル、毛布など、様々なものにくるまれ、木札ごとに整列している。木札には、小動物、鳥、猫、小型犬、中型犬、その他、などと書かれていた。大型犬は、と探すと、受付で言われたとおり最奥にあった。大型犬の列は少し離れた場所にあり、そこにはすでに一体の先客が並んでいた。

「ここみたいだな」父が言い、僕らは先客の後ろにそうっとメルを置いた。

 辺りを見回し、圧倒されながら、僕は考えた。確かに母が言うとおり、これならメルも寂しくないだろう。

 父が係の人をつかまえて話しかけている。「あの、うちの奴、毛布をこう、ぐるぐる巻きにしてるんですが」

「ああ、そのままで構いませんよ」

「ほどかなくていいんですか? 実は、ちょっと傷みかけていて……」

「はい、大丈夫ですよ。そういう方も大勢いますから」

 なるほど、この状態のまま炉に入れてくれる、ということらしい。

 受付に戻ってみると、母はまだ係と話し込んでいた。

「まだ終わらないのか?」

「大体済んだわよ。後はオプションだけ。――すみませんけど、じゃあそのお守りをお願いします」

 巫女姿の係はにっこりした。「尻尾の毛でよろしいですか?」

「尻尾でいいわよね、周太?」

 母が振り返る。

「え? 俺の、なの?」

「そうよ。一つしか作れないんだから大事にしてちょうだい」

 ぽかんとしている僕をよそに、母はどんどん話を進めていく。「――よろしくお願いします。お渡しっていつなんですか?」

「尻尾は加工に少し時間がかかりますので、一週間以内に郵送致します」

「一週間でできるって、周太」

「よかったな、周太」と、父が肩をどやしつけてくる。

 なんだかよくわからないうちに、メルの尻尾でできたお守りを受け取ることになってしまった。まあ、別に構わないけど。

「それで、いつ始まるんだ?」

「ええとね」母が何やらパンフレットらしきものを開きながら言う。「火葬は順次、行われるんで、自分たちの番が来たら行けばいいみたい。火葬場は裏の林の中。で、その間に、儀式が行われるんですって」

「儀式を抜けて、火葬場に行ってもいいのか?」

「いいみたいよ。参加・退出は自由、って書いてあるから」

 僕と父は口々に、へえ、ほお、と呟いた。

「儀式はいつ?」

「もうすぐだから、それまで辺りを見て回りましょ」

 父と母は連れ立って祭祀場を見に行き、僕は一人で屋台を覗きに行った。鈴カステラのほかに、りんご飴とフライドポテトの屋台があった。ほかに興味を引くものもなかったので、僕はそのまま、ぶらぶらと安置所のテントのほうへ歩いていった。さっきと同じく、たくさんの動物の亡骸が並べられ、数組の家族連れが別れを惜しむように小さな膨らみに話しかけている。僕は自然に、大型犬の列のほうへ歩いていったが、ふと、そこに見知った顔を見つけて立ちすくんだ。

 あれは、安国じゃないか。

 安国は大型犬の札のそばに立ち、何かを見下ろしているように見えた。列に並ぶ亡骸はいつの間にか増えているようだ。僕は安国に駆け寄ろうとした。

「おい、安国!」何をしてるんだ。人混みをくぐり、そう声をかけようとして、たたらを踏む。さっきまでそこにいたはずの友人の姿が、どこにもない。

 慌てて周囲を見渡したが、やはり安国はいなかった。



 両親の姿を見つけてそばに行ったところで、ちょうど儀式が始まった。

 拝殿の手前に白木の祭壇があって、傍らに神主さんとおぼしき人が立っていた。その人が、お静かに、とさほど大きくない声で言い、こう続けた。

「これから、新豊祭に向けてのお祓いを行います」

 深々とお辞儀をすると、祭壇に向き直った。それから、祝詞らしきものが唱えらえたわけだが、それがどういう意味を持つのか、僕にはまったくわからなかった。そもそも、新豊祭とは何なのだろうか。今は秋だから、収穫祭のようなものなのか。

 祝詞が終わると、巫女たちが列になって現れ、それぞれ手にしたものを供物台に捧げていった。そこだけ朱色の布が敷かれた台の上に、酒杯や米の盛られた器が並んでいく。

 父が母にぼそぼそと囁いている。「これ、まだ続くのか?」

 母がパンフレットを開いて答えた。

「ええと、お祓いがあって、その後、祭祀奏上があって、お花入れだって」

 そういえば、火葬場のほうに続いていると思われる道の手前に、花の売り場があったな、と僕は思い出した。

 巫女たちは、泳ぐような優美な動きで次々に供物を運んでいく。果物、魚の干物、大根などの野菜、昆布…… まだまだ時間がかかりそうだと思っていたら、火葬場のほうから男性の声がした。

「小動物、小型犬、猫、鳥、その他の方々、こちらにどうぞ!」

 父が、おっ、と声を上げる。どうやら、火葬が始まったらしい。

 本当に、儀式と並行してやるんだな。周囲の様子を窺いながら、僕は思った。「これから火を入れるの?」

「そうみたいだな」覗きに行きたいのか、父は落ち着きなく火葬場のほうを眺めていたが、なんとか我慢したらしかった。

 人の流れの中に安国の姿がないか、と僕は思わず探したが、それらしい人影は見つからなかった。

 それからしばらくして、今度は中型犬のグループが呼ばれた。小型犬のグループはまだ戻ってきていないので、幾つか炉があって、時間をずらして火を入れているのかな、などと想像した。祭壇の前では、神主さんによる祭祀奏上が始まっている。

「そろそろ、行ってもいいんじゃないか」父が痺れを切らした様子で言った。

 母も肩をすくめた。「いいんじゃない? 行こうか、周太」

 ついでに花を買おう、という母の提案で、僕らは売店に寄り道した。高校生にしか見えない売り子が、退屈そうに店番をしている。母はそこで人数分の花束を買った。

「これ、メルと一緒に炉に入れるんだよね?」

「そうよ」

 僕らはそれぞれ花束を持って、林へ向かった。

 神社の裏手は広場になっていて、中央に火葬用の炉らしきものがあった。円形の石造りで、真ん中に煙突がそびえている。金属製の扉が幾つか見えるので、やはり複数の炉があるらしい。

 入り口に立っていた袴姿の男に、父が話しかけている。「あの、すみません。まだ呼ばれてないんですけど、見せてもらっていいですか?」

 男はにこやかに答えた。

「いいですよ。どうぞ」

 母も頭を下げる。「すみません、勝手なことをして」

「いえいえ。火葬も儀式の一部ですから。儀式を抜け出したことにはならないので、大丈夫ですよ」

 火葬も儀式の一部――

 どういうことだろう、と考えてみたが、まるでわからなかった。

 炉のそばでは、先に火を入れた小型犬や小動物のグループと思われる人々が時間を潰していた。僕らが離れたところから見ていると、やがて、時間が来たのか火が止められ、炉の扉が開かれた。待っていた人々が、わらわらとそちらへ集まる。これから、お骨の分配が行われるのだろう。

 それが終わると、ようやく大型犬の番が来た。

 袴姿の男性たちによって、開いた炉の前に布で覆われた亡骸が並べられていく。母に促され、僕は慌ててメルのもとに花を供えに行った。見覚えのある毛布の上に、各々手にした花束を置く。

 母が咽び声で言った。「メル、ありがとうね」

「メル、よく頑張ったな」父も後に続く。

 僕も何か言いたかったが、胸が詰まって声にならなかった。メル、ありがとう。メル、さよなら。――何だっていいのに、その何だっていい言葉が出てこなかった。

 大型犬は数が少ないせいか、別れを告げる人もさほど多くなかった。皆が花を供え終えると、頃合いを見計らったかのように袴姿の男が一人やって来て、こう述べた。

「これから、御厨の儀を執り行います。こちらのご遺体は、儀式によって神様に捧げられることになります。火を入れましたら、どうぞ手を合わせてお祈りください」

 御厨の、儀。僕はふと、店長が話したことをよぎらせた。

 ――あの坂の名はな、御厨から来てるんだ。神様の台所、って意味だよ。

 ――昔、神社の台所でもあったのか、それともただ、神輿や供え物が通る道だということなのか。

 ――とにかく、神社には何かあるごとに捧げ物が供えられてきた。米や野菜、家畜なんかがな。

 そうか。そういうことか。僕は心の中で呟いた。

 炉に火が点けられたのだろう。ごう、という音がして、どこからか風が吹いた。焼けつくほどの熱い風だ。僕らは怯んで、数歩後ろに下がった。

 やや放心した様子で、父が言った。

「とうとう、焼かれちまうんだなあ」それから、頭を掻きながら、「おかしなもんだな。人間の葬式なら、口が裂けても言わないよな、こんなこと。焼かれちまう、なんてさ」

 母が頷く。「そうねえ。でも、さっきの話、ちょっと嬉しかったな。メルが神様に捧げられた、っていうの」

「うん。まあ、ただ焼けちまうより、ずっといいかもな」

 ね、と母がこちらを見る。僕は頷いた。

「そうだね」

 ――そう、メルは本当にいい犬だった。家族の一員で、その元気な姿で毎日僕らを和ませてくれた。メルがいなければ、僕のこれまでの人生はもっとずっと味気ないものだったろう。もし、メルの亡骸が神様に供されたのなら、どうか余さず食べてやってほしい。

 境内のほうから、しゃらんしゃらん、と鈴の音が聞こえてくる。

 誰からともなく、僕ら家族はそれぞれ手を合わせて祈っていた。その僕たちの間を、林から吹いた涼しい風が吹き抜けていく。あたかも、尻尾を振りながらすり寄ってきた生き物のように。僕は薄目を開け、空を見上げた。幾筋もの白煙が立ち昇る、遥かな空を。

「さようなら、メル」僕は小さく呟いた。

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