第5話

「そうか」僕の話を聞き終えると、安国はそう呟いた。

 駅前の、ちょっと古びた喫茶店だ。ぎりぎり、まだモーニングを頼める時間だったので、僕はトーストをぱくついていた。安国の前にあるのはコーヒーカップだけだ。

「それで、警察は何て?」

 僕は首を振った。「何も。ただ、同じ日の、稲葉さんが帰る時の映像を見せられて、何度も、彼女に間違いないか聞かれたよ。そうだと思う、としか答えられなかったけど」

「実際、間違いなかったのか」

 僕は、警察にしたのと同じ説明を安国にもした。インドのスカートは、安国の記憶にもあったのだろう。それと似た服を映像に映った人物が着ていたから、間違いない、と言うと納得した。

「大体、退勤時間を調べれば、あれが彼女かどうかぐらい、すぐにわかると思うけど」

「そうだけど…… 失踪時のことを詳しく知りたかったんじゃないかな」上の空、といったふうに安国は答える。「そのレインコートを着てた奴は、何者なんだ」

 わからない、と言うしかなかった。

「でも、その部屋に運び込んだものは? どこかへ消えたんだとしたら、別の日の映像に何か映ってるはずだろ」

 普通に考えればそうだろう。「そうかもしれないけど、俺は調べてないんだ。映像はみんな、警察が持って行ったんだと思う」

 答えが得られないと知り、安国は落胆したようだった。

「俺さ、気になってることがあるんだ」トーストを齧りながら、僕は言った。「稲葉さん、彼氏と揉めてたらしいんだよね」

 え? という顔で安国がこちらを見る。

 たぶん、こんなことは言うべきじゃなかったんだろう。だが、その時の僕は疲れていて、まともに考えられる状態じゃなかったのだ。

「彼氏? あいつ、彼氏いたの?」

「ああ、うん。――同じバイト仲間の寺崎って奴。ごめん、あまり知りたくなかった?」

 いや、と安国はくぐもった声で言った。「いいから、続けて」

「うん。――噂によると、揉めてたらしい。その岩崎って奴、相当キツイ奴でさ。ちょっと性格に難ありなんだ」

「別れ話でもしてたのかな?」

「うーん。か、どうかはわかんないけど」

 正直言うと、僕はこの時、すでに安国にこの話をしてしまったことを後悔していた。安国も、別れて半年以上経つのだから聞き流すだろう、と思っていたのに、聞き流すどころか妙に真剣な目で身を乗り出している。

「どんな奴なんだ?」

「ちょ、ちょっと待ってよ」僕はたじろぎ、相手の勢いを牽制した。「まだ、何もわかってないんだからさ――」

「知ってるよ、もちろん」

 到底そうは見えなかったが、きっと本人は冷静なつもりなんだろう。「岩崎のことは、きっと警察が調べてくれるさ」

「そうだろうな」僕の言葉など耳に入らないのか、安国はどうでもよさそうに言った。「で、どうなんだよ。そいつのこと、もっと詳しく教えてくれ」

 結局、僕は気圧されてしまい、知っている限りのことを安国に話した。といっても、僕に話せることなど大してなかったが。寺崎について知っていることといえば、モノトーンのシャツが似合うイケメンであることと、嫌な奴だということくらいだ。

「そんなこと聞いて、どうするんだよ」

「そいつに会ってくる」

 安国がこともなげにそう答えたので、僕は一瞬、沈黙した。「おい、本気か」

「だって、遥花の居場所を知ってるかもしれないんだろ、そいつ。だったら、聞くしかないじゃないか」

 もちろん、僕は必死で止めた。だが、こういう時の僕はいつだって、おそろしく無力なのだ。説得なんかうまくいったためしはないし、そもそも、言葉が思うように出てこない。この時も、まごまごしている僕をよそに、安国は妙に落ち着いた、据わった目でテーブルを見据えていた。

「とにかく、会ってくるよ」好きなだけ僕を慌てさせてから、奴は言った。「お前、今日も仕事なのか」

「通常運転だよ」昨日、あんなことがあったからって、休めなどとは言ってもらえない。店はいつもどおり営業するし、僕もいつもどおり、午後から出勤する。

「で、寺崎は?」

「確か、遅番だったかな。いつもそうなんだ」

「お前と入れ違いか」

「そういうこと。けど、一体――」

 僕は言いかけたが、その質問を振り切るように、安国はレシートを手に立ち上がった。青褪めて見えるほど思い詰めた顔で。



 その後、僕は出勤したが、安国の件が気になって仕事どころではなかった。少々ぼんやりしていたはずだが、バイト仲間たちは噂話に夢中で、誰も僕のことなど気にかけなかった。

 昨日の件の対応に追われているのか、店長はずっと留守で、時々電話であれやこれやと指示が飛んでくる。皆、それに振り回されて、特に客が多いわけでもないのに店内は大混乱の様相を呈していた。電話の向こうの店長はひどく苛々して機嫌が悪いし、スタッフたちはスタッフたちで、わけもわからず右往左往している。そして、熱に浮かされたように噂話に興じ続けている。

 僕は仕事の合間に安国と連絡を取ろうとしていたが、メッセージをいくら送っても応答はなかった。やがて退勤時間が来てしまい、ええい、勝手にしろ、と憤りながら店を後にした。

 疲弊しきって帰宅すると、母が眉をひそめて言った。

「あんた、目の下に凄い隈ができてるわよ」

 僕は肩をすくめた。「そう?」

「ちゃんと寝てるの? 体調崩してんじゃない?」

 大丈夫、とだけ答える。

 食事を終えると、早々に二階に引き上げようとした僕に、父が声をかけた。「おい、風邪でも引いてるのか?」

 いや、そんなことないよ、と僕は答えた。

 母が父の腕を叩く。「ほら、店で色々あったからでしょ……」二人がひそひそ話している間に、僕は階段に向かった。

 すると、階下から母の声が追ってきた。

「周太。メルの部屋、全然覗いてないんじゃない? たまには顔を見せてあげなさいよ」

 メルの部屋。メルの遺体が置かれた部屋。僕は一瞬、身をこわばらせ、うん、と生返事を返した。

 なぜか怖くて、あの部屋のドアを開けられない、などとは言えなかった。メルの亡骸を見るのが、腐臭を嗅ぐのが、たまらなく怖い。実際どうなのかは知りもしないのに、変わり果てているだろうとか、酷い匂いがしているだろう、という嫌な想像ばかりが膨らんでいく。考えるだけで、手が震え、足がすくんでドアを開けることができない。

 何をやってるんだ、お前は、と自分に呆れもする。あんな夢を見たくらいで、妄想に取りつかれるなんて。本当にビビリだな。

 そう考え、頭を振りつつ、とぼとぼと階段をのぼっていく。



 翌日も、安国とは連絡がつかなかった。

 一体どうしたんだろう、と心配を募らせ、メッセージだけでなく電話もかけてみたのだが、やはり応答はなかった。やきもきしながら店に行き、寺崎から何か聞いていないか、と数人のバイト仲間に聞いてみたが、誰も何も聞いていなかった。寺崎は昨夜、いつもどおり勤務を終えて帰ったらしい。

 もしかしたら、その後、寺崎と安国の間で悶着が起きたかもしれないが、そんな話は誰も耳にしていないようだった。

 夕方ごろ、店長があたふたした様子で店に現れて、何事もなかったか、と皆に聞いて回った。店長のほうこそ、寝込みを強盗に襲われたような顔をしている。僕が、どうかしたんですか、と聞くと、こう答えた。「警察の連中、付近の捜索をはじめたらしい」

「捜索? 稲葉さんの件でですか?」

「そう。遺体の捜索、ということだと思うよ」

 その話は瞬く間にスタッフの間に広まり、店内は異様なムードに包まれた。誰も、口には出さないものの、こう考えているのだ―― 稲葉さんは死んだ。死んでしまった。

 重く、ピリピリした空気に、疲労感がさらにいや増したが、僕はそれを振り捨てるように無心で働いた。と、店長がそばに来て言った。

「そういえば、園部君、明日お休みだったね。お葬式で」

 はい、と僕は返事をした。

「ついでにゆっくり休みなよ。このところ、色々大変だっただろうからね」

 ありがとうございます、と頭を下げながら、僕は、店長に心配されるほど酷い顔をしているのだろうか、と首を捻った。

 帰宅途中、ふとスマートフォンを見ると、安国からメッセージが届いていた。

”心配ない。大丈夫だよ”

 それだけだ。

 僕はすぐさま、”寺崎と会ったの?”と送信した。しかし、それには返答は返らなかった。

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