第4話
そんな夢を見た後の寝覚めが、いいはずがなかった。気分は最悪だったが、たった一つ、いいことがあった。この日は夕方からのシフトだったので、好きなだけ布団の中でごろごろしていられたのだ。
店に行くと、僕を見た町田さんが怪しむような口調で言った。「寝不足みたいな顔ですね。大丈夫ですか?」
ああ、大丈夫、とだけ僕は答えた。
やや辺鄙な場所にあるせいか、この店には帰宅途中の人の群れが押し寄せたりはしないが、それでも夕飯を求める空腹な客がそれなりに訪れる。僕と町田さんが客をさばき終えて、ふと気づくと、とっくに夜が更けていた。やがて、僕らと入れ替わりに遅番のバイトがやって来て、そのうちの一人が例の寺崎だった。
僕はそれとなく、ロッカーへと向かう彼の姿を観察した。彼とはほとんどシフトが被らないので、あまり話した記憶がない。改めて見ると、イケメンだった。黒いボーダー柄のシャツがよく似合う、長身の痩せ型。顔立ちもだが、目つきにキレがあって、いかにもモテそうだ。
寺崎のほうもこちらに気づき、何を思ったかつかつかとそばへやって来た。「よお、園部だっけ?」
「そうだけど」
「お前、就職早々、クビになったんだって? それで、うちに転がり込んできたのか?」肩をすくめ、転がり込まれたほうはたまんねえな、と言うと、さっさと身を翻した。
僕は唖然とし、次いで腹を立てた。だが、何か言い返すより先に、隣で一部始終を聞いていたらしい町田さんに声をかけられた。「気にしないでください。あの人、いつもああなんです」
「吃驚した。すごく失礼だね」
「言うことがいちいちキツイんですよ。それで、稲葉さんとも揉めてたみたい」
それは初耳だった。「町田さんも何か言われたの?」
「ええ、まあ。多少は」
「どんなことを言われたんだい」
そう聞くと、町田さんは、さあ、と不敵な笑みを浮かべた。「それより、本当なんですか?」
「クビのこと?」
「ええ」
僕は力なく言った。「クビというか、不当解雇、かな」
新卒として入った会社で働き始めてしばらくした頃、僕は突然、解雇を言い渡された。急な業績悪化、がその理由だった。そのために僕が所属していた部署は消滅し、同時に僕の存在も不要になったのだ。
思えば、僕の精神はその時すでに疲弊していたのだろう。ショックのあまり立ち直れない日々が続き、一、二カ月間とはいえ、一時は完全に引きこもっていた。まあ、じきにアルバイトができるくらいには立ち直ったのだけれど。
「へえ、そんなことがあったんですね」
「君も気をつけなよ」
わかりました、と言い残して、町田さんは掃除をしに立ち去った。
それからしばらくして、店長から電話がかかってきた。「園部君? ちょっと頼まれてくれるかな」
外出先からかけているのだろう、風の音らしきノイズが混じっている。
「何でしょう?」
「今朝、ばたばたしてて、事務室の鍵をかけ忘れた気がするんだ。ちょっと見てきてくれないか」
「いいですよ」
「もし開いてたら、いつものように鍵をかけといてよ」
わかりました、と告げて、僕は電話を切った。
事務室にはモニターとパソコンがあって、一応施錠する決まりになっている。そのことを忘れて帰宅した店長の代わりに、僕はこれまで二度ほど鍵をかけたことがあった。
もう仕事を終えてもいい時間だったので、僕は店に顔を出して遅番のバイトに声をかけてからバックヤードに向かった。店内にはもちろん寺崎の姿もあったが、品出し中なのをいいことに声はかけなかった。あれ以上、不快な思いをさせられるなんて、ご免だ。
着替えに行く前に、店長から言われたとおり事務室を見に行く。店長の杞憂どおり、ドアの鍵はかかっていなかった。僕はドアを開け、壁にかけられた鍵を手にした。明かりも点いたままだったので、一通り点検することにした。パソコンの電源は落ちているようだ。モニターは点けっぱなしでいいのだが、映像を見るための機器の一つが立ち上がっている。誰かが防犯カメラの映像を見て、そのままにしているのだろう。
ふと、昨日、稲葉さんの両親がカメラの映像を見せろと言って押しかけてきた、という話を思い出した。もしかしたら、慌ただしさに紛れて、店長がその時のままにしているのかもしれない。
戸締りをするなら、これも電源を落としたほうがいいだろうか。僕は考えつつ、デスクに近づいた。
どうせなら、少し見てみようか。
好奇心がそう囁き、僕はためらいつつも、電源の入ったモニターに視線を注いだ。
思ったとおり、そこに映っていたのは稲葉さんがいなくなったとされる日の映像だった。右下に日時が表示されているので、間違いない。映っているのは、バックヤードを天井から撮った映像だ。店内に設置されているカメラは高性能なのだが、このカメラは古いのか、画質があまりよくなかった。
映像は一時停止になっていて、画面では通路を歩く人物がフリーズしていた。暗いが、目を凝らすとスカートを履いているとわかる。稲葉さんはよく、インドかどこかで買ったという花柄のスカートを身に着けていた。モニターに映し出された人物が着ているのは、まさしくその色鮮やかなスカートだ。
これが、最後に捉えられた稲葉さんの姿なのか。
僕は思わず、まじまじとその映像を凝視した。仕事を終えて帰るところなのか、稲葉さんはカメラに背を向け、戸口に向かって歩いている。再生ボタンを押すと、停止していたその姿が軽やかに動き出した。
そうか、これを見て、稲葉さんの両親は泣き崩れたのか。娘が生き生きと歩く姿を見て、思わず咽び泣いた―― あるいは、この後、娘に降りかかる運命を思い、おののいたのだ。
そのまま再生し続けると、稲葉さんは何事もなく通用口をくぐり、出て行った。彼女の身に、この後何が起きたのだろう。残念ながら、店外のカメラは駐車場にしかないので、通用口を出た彼女が徒歩で帰宅したのだとしたら、その姿はカメラの死角に入っていただろう。
などと、あれこれ考えながら、僕はしばらく映像を早送りにしていた。何を考えてそんなことをしたのかはわからない。考え事に夢中になりながら、何の気なしにやったのだ、としか説明しようがない。
やがて、画面に映し出されたものに、僕の考え事は弾け飛んだ。早送りで飛ばした時間は、三十分ほどだっただろう。そこに現れたものに、僕の視線は釘づけになった。
警察の事情聴取が終わったのは、真夜中過ぎだった。
警察署からパトカーで送ってもらい、ようやく帰宅した僕は、ふらふらになりながら玄関をくぐった。父も母もすでに寝ているらしく、起き出してくる気配もなかった。僕は足音を忍ばせて二階へ上がり、すぐにベッドに倒れ込んだ。
色々なことが目まぐるしく起きたので、頭の中を整理する暇もなかったけど、改めて考えると、とんでもないものを見つけてしまったな、と思う。我ながら、そこのところの嗅覚というか、勘というか、悪運みたいなものは抜きん出ているのではないだろうか。
映像を早送りして僕が見たものは、通用口を開けて入ってきた何者かの姿だった。薄暗い上に、その人物がレインコートのようなものを着て、頭にフードを被っていたので、正体はまったくわからなかった。しかも、おかしなことにその人物は後ろ向きにカメラの前に現れたのだ。
僕は最初、泥棒が顔を隠して侵入してきたのかと思った。けど、そうじゃないことはじきにわかった。そいつは前屈みになり、何かを運んでいたのだ。後ろ向きなのは、何かを引き摺っているためだった。
そいつは時々、耳を澄ますように動きを止めたが、作業自体は素早く、あっという間に終わらせた。時間にすれば十数秒だろう。運んできた何かを通路に面した扉の一つに押し込むと、そいつは駆け足で再び通用口から逃げ去った。
僕は数秒、呆気に取られてから、気を取り直して映像を少し戻した。もう一度見直してみたが、やはりその謎の人物の正体はわからない。運んでいたものが何かも不明だ。ただ、なんとなく、なんとなく、かなり重さがあり、ぐんにゃりしたものだった気がした――
いつの間にか、僕の手には脂汗が噴き出ていた。緊張で体がこわばり、息をするのも辛い。運び込まれたものが何か、知るのは簡単だ。映っていた部屋のドアを開ければいい。
行って、見てみようか。
見ずに済ませられるわけがないのに、僕はそう自問した。なぜかというと、もちろん怖かったからだ。行動を先送りにしたかった。僕の想像どおりなら、そこにはきっと――
ためらいながらも、僕は立ち上がると、のろのろと廊下に出た。目指すドアと思われるものは幾つもない。おそらく、右隣の資材置き場だろう。備品のストックなどが置かれた、普段はあまり使われない、狭い部屋だ。
手汗をズボンで拭いながら、僕はそのドアの前に立った。本当は開けたくない。開けたくないが、開けないわけにはいかない。一応、責任があるし、何より怖さを上回る好奇心が疼いているのだ。
僕はおそるおそる、ドアを開けた。
――暗い資材置き場。見渡すほどの広さもないその部屋をじっと覗き込んだが、そこには何もありはしなかった。
とにかく、そういうわけで、僕はすぐに店長に電話をかけ、店長が警察に電話をかけ、やがて押しかけてきた警官の相手をすることになった。まったく、てんやわんやの一夜だった。
僕は事情聴取を受けただけなので、警察があの防犯カメラ映像を見てどう考えたかはわからない。店長も、それについてはハリウッド俳優みたいに肩をすくめただけだ。もちろん、あれが稲葉さんの失踪と関係があるかはわからないのだが、なんとなく、これをきっかけに警察は稲葉さんの件に本腰を入れるのではないか、と僕は考えていた。
それにしても―― ああ、なんてこったろう。
メル、人間の世界はほんとに大変だよ。
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