第3話

 翌日も、僕は昼からのシフトで、店にはほかに店長と町田さんというアルバイトが入る予定だった。

 町田さんは学生で、たぶん僕より二つほど年下だと思われる。出勤した僕が、店長は、と聞くと、彼女はこう答えた。「留守です。今日は朝からばたばたしてるらしいですよ。わたしも、まだ会ってません」

 へえ、と僕は言った。「何か伝言は?」

「特にないですけど、夕方には顔を出すみたいです」

 それから、町田さんはこう付け加えた。「噂では、稲葉さんの件らしいですよ」

「はあ。――なんか進展があったの?」

 町田さんは声を潜めた。「朝番の人の話によると、稲葉さんのご両親が来て、騒いでたんだそうです」

 騒いでた? 「何を?」

「防犯カメラを見せろ、って。何でも、警察が事件として取り扱ってくれないそうで。防犯カメラに何か映ってないか確認させろ、っていうんです」

 ははあ、なるほど。捜索願を出しに行った両親が、警察の態度に不満を抱いているのだろう。警察はこの件を、ただの失踪として扱うつもりなのかもしれない。「じゃあ、稲葉さんの両親は、これを事件だと思ってるんだ」

「そうらしいです。よくわからないけど、娘が家出なんかするはずない、ってことなんじゃないですか」

 家出も何も、稲葉さんは一人暮らしだったのだから元々家は出ているし、外泊しようが何をしようが勝手だと思うのだが、二十歳そこそこの娘を持つ親としては、そんなことは言ってられないのだろう。

「何だか、大事になってきたね。それで、店長は映像を見せたの?」

「最初は抵抗してたけど、結局折れて、見せたらしいです。朝番の人の話では、その後、バックヤードのモニターのある部屋から、啜り泣きの声が聞こえてきたんですって。きっと、何も見つからなかったんでしょうね……」

 そこまで話すと、町田さんは肩をすくめ、さ、仕事仕事、と言いながらモップを取りに行った。

 店長はそれから数時間後に、店を訪れた。さすがに疲れたのか、巨躯の上の顔がげっそりとやつれている。僕は、お疲れ様です、と声をかけた。

「やあ、園部君。特に何事もなかった?」

「はい、何も。――店長、警察へ行ってたんですか?」

 店長はため息をついた。「これだから、噂ってやつは。まあ、それもあるけど、色々だよ。色々」

 どうやら、稲葉さんの件は話したくないようだ。僕は話題を変えることにした。「あのう、シフトの件なんですが」

「うん? どうした?」

「今度の水曜、お休みを貰えないかと思って」

「いいけど」そう言う店長の目は、返事に反して鋭い光を帯びている。「何か用事があるの?」

 僕は口ごもった。「ええと、実はうちの犬が亡くなりまして」

 店長は、ほお、と呟いた。

「それで、その日に火葬にすることに」

「もしかして、そこの神社で、かい?」

 はい、そうです、と小さな声で答える僕に、店長は覆い被さるように言った。「ほう、なるほどね」

 ぼそぼそと言い訳を口にしようとした僕を、店長が遮る。

「近所に住んでるとはいえ、君みたいな今時の若者は、神社のことなんて知らないと思ってたよ。それとも、ご家族がご存じだったのかな?」

「ええ。母が小耳に挟んでいて」僕はピンとくるものがあって、店長に尋ねることにした。「あの、聞いていいですか」

「何だい?」

「あの神社について、詳しいんですか? その、おっしゃるように僕はまったく知らなくて。あそこって、どういうところなんです? そもそも、何を祀ってるんですか?」

 店長は、呆れた、と言わんばかりの顔をした。「何を祀ってる? 神様に決まってるじゃないか。ああ、あれか。菅原道真公でも祀ってるのかと思ったのかい」

 いえ、そういうわけじゃ、とこちらが言うより先に、店長は派手なため息をついた。「こう言っちゃ何だが、そんなメジャーどころじゃないよ。マイナーもマイナー、ほかに祀っているところはあまりないんじゃないのかな。とはいえ、古事記にも載ってるちゃんとした神様さ。一応、トヨウケビメと並ぶ食物神なんだぜ」

 トヨウケビメ? 漢字でどう書くのかさえわからないその単語は、僕の頭を素通りした。

「……あの、店長」

「ん?」

「店長って、あそこの信者なんですか?」

 店長が、ぎろっ、と光る目でこちらを睨んだ。「ああ、そうだよ」

 悪いか? と聞かれた気がして、僕は慌てて首を振った。

「余計な口をきいて、すみません」

 店長は、ふん、と鼻を鳴らし、そっぽを向いた。ついでに店内を見回したが、客の姿はほとんどなかったので、話を続けよう、と考え直したらしい。

「あの、表の坂、あるだろ」と、喉の肉に埋没しかけている顎で指し示す。「みくり坂、っていう坂」

「ああ、はい。何か謂れでもあるんですか」

「謂れぐらい、どこにだってあるさ。あの坂の名はな、御厨から来てるんだ。神様の台所、って意味だよ」ガラスのドア越しに外に視線を向けたまま、店長は続ける。「あそこに昔、神社の台所でもあったのか、それともただ、神輿や供え物が通る道だということなのか、それはわからん。とにかく、神社には何かあるごとに捧げ物が供えられてきた。米や野菜、家畜なんかがな」

 それで僕はふと、母が言っていたことを思い出した。「そういえば、うちの犬の葬式はたまたま、お祭りか何かの日と同じみたいで」

「新豊祭だろ。俺は行けないけど、せっかくだから行って来いよ。ここのところ、休み返上で働いてもらってたしな」

 新豊祭? それが祭りの名前だろうか? 「ありがとうございます」

 店長は頷いた。「稲葉さんの件で、シフトが厳しいけどな。まあ、なんとかなるさ」

 ゆっくりしてきな。そう言って、店長はレジ・カウンターを後にした。



「俺も、休みが取れたよ」帰宅するなり、父は母と僕にそう告げた。

「本当? 水曜、休めるの?」

 スーツを脱ぎながら、父が母に答える。「ああ」

「よかったじゃない。わたしと周太でなんとかメルを運ぼう、と思ってたの。これで一安心だわ」

 ネクタイを弛めながら、父は笑みを浮かべる。「そうだろ。力仕事は俺と周太に任せろ。な?」

 僕は決して、腕っぷしに定評があるほうじゃないのだが、うん、と返事をしておいた。

 食事の席で、母が父にこう言った。「それにしても、よく休みが取れたわね。急といえば急だったのに」

 父は、ああ、と頷いた。

「俺も、どうしようかと迷ったんだけどな。正直に事情を話したんだよ」

 僕は興味を覚えて聞いた。「へえ。そしたら?」

「そしたら、意外にもみんな、休め休め、って言ってくれてな。どんな犬だったんだい? 十七歳? そりゃ、ショックだったろう、って声をかけてくれて」

 僕は、へえ! としか言えなかった。

「いやー、驚いたね。時代が変わったんだろうな。昔だったら、飼い犬のために会社を休むなんて、言語道断だ、と怒鳴られるところだ」

 母も同意した。「そうねえ。昔はそんな感じだったでしょうね」

「ああ。怒鳴りはしなくても、大笑いはされただろうな。今じゃ、誰も笑ったりしない。犬も家族の一員と理解されてるんだろうなぁ」

 父はそう言うと、身を乗り出して僕に言った。「周太も、会社で嫌なことがあったのかもしれないが、そういう会社ばかりじゃないんだぞ」

 僕は顔をしかめ、母は無言で父の腕を叩いた。

「それはそうと、神社のことだけど」僕は咳払いをして言った。「詳しい人から色々話を聞いてきたよ。ナントカって神様を祀ってる話だとかを」

「ナントカって、何よそれ。それじゃわかんないわ」

「忘れちゃった。その人、コンビニの店長なんだけど、あの神社の信者なんだって」

 そう、と母は相槌を打つ。「意外と多いわよね。あそこの氏子だっていう人」

「氏子?」

「信者のことをそう呼ぶの」

「そうなんだ」

「この近所にもいるのか?」

「割とね」母は父を振り返る。「そこの角の大貫さんとか、アパートをやってらっしゃる高木さん。町内会にも、結構いるみたい」

「氏子っていったって、何をするの?」

 母は首を傾げた。「さあ。寄付、とかじゃない?」

「何かそういう、氏子の会、みたいなのがあるのかな?」

「聞いたことないわね」

 母がそう言い、父も首を振った。

「神社の維持費は町内会費に含まれてるんじゃないか?」

「どうかしら。明細にはそんなこと、書かれてなかったけど」

 神社というのはどこも細々とやっているものだと思っていたが、花中神社に関してはそうではないのかもしれない。氏子とやらも想像していたより多いようだし、意外と根強く地域に受け入れられている、ということだろうか。

 父も同じことを考えていたらしく、頭を振ってこう言った。「すぐそこの神社だってのに、色々と知らないことがあるもんだな」そして、疎かになっていた箸の動きに注意を戻した。



 その夜、すごく嫌な夢を見た。

 僕は芝生に座り、駆け回るメルを眺めている。長い毛を波打たせながら走るメルの姿は、見ているこちらまで爽快な気分にさせてくれる。たまに訪れるドッグランでも、メルはいつも人気者だ。

 しかし、その日は辺りにはほかの犬や人の姿は見当たらなかった。夜のサッカー場のように、メルと僕のいるところにだけ光が当たっている。その外側は、すとん、と切り取られたように何もない、真の暗闇だ。

 僕は座ったまま、メルに呼びかける。

 メル! メル!

 遠くを走っていたメルが、すたすたとこちらへやって来る。僕は立ち上がって近づこうとしたが、その時、メルの様子がなんだかおかしいことに気づく。さっきまで元気に走り回っていたはずのメルが、妙にぐったりしているのだ。そればかりか、足の節々に先ほどはなかった腫れ物ができている。傷口からじくじくと血膿を垂れ流す、赤黒い腫れ物が。

 それを見た僕は悲鳴を上げる。

 ――メル! メル!

 その時、メルが顔を上げる。恨めしそうな目が僕を見る。――なぜ、早く葬ってくれないんだ。なぜ、肉体が腐るのに任せてるんだ。そう言っているかのようだ。その間も、メルの体はどんどん、ぼろぼろになっていく。

 骨が折れる、ぼきり、という音が響き、支えをなくした血肉がその上に崩れ落ちてる。未だ、犬の姿はとどめながらも、もうそこにはかつてのメルの姿はなかった。あるのは、ただ、こちらを憎悪を込めて見上げる、腐りきった肉の上の白濁した眼球だけ。

 僕はもう一度、声の限りに悲鳴を上げた――

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