第2話

 母にああ言われたものの、出勤してみると職場は稲葉さんの話で持ち切りで、神社の話などする雰囲気ではなかった。

 朝のヘルプで入っていたパートのおばさんによると、昨夜、深夜バイトの寺崎が騒ぎを起こしたらしい。僕もそれまで知らなかったのだが、稲葉さんはその寺崎と付き合っていたのだそうだ。彼女が突然いなくなったものだから、寺崎はひどく動揺しているらしい。そのため、バイト仲間の勝手な噂を耳にし、キレて喧嘩になったのだという。

 まあ、そういう事情なら、多少キレるのも無理ないだろう、と僕は考えた。小さな田舎町の常かもしれないが、ここの人たちは噂好きなのだ。中には、デリカシーに欠けたことを口にする輩もいる。

 午後になると、店内はいつものように眠気を催すほど客足が少なくなった。僕が一人でレジを切り盛りしていると、そこへドアが開き、白装束の客が訪れた。僕はなんとなくはっとして、その客のほうを注視した。それから慌てて視線を逸らすと、品出し作業に注意を戻した。

 客は四十過ぎとおぼしい女性だった。痩せていて、背が高い。白装束は体に合っていて、一目でレンタル衣装ではないとわかった。着こなしも上手く、とても自然だ。

 女性はガムを一つ買い、店を出て行った。後ろ姿を見ると、ひどく重そうなリュックを背負っていた。

 それから、数時間後。その女性が再び店を訪れた。喉が渇いている様子で、入り口から真っすぐ、ペットボトルの並ぶ冷蔵庫に向かった。そちらをちらりと見やり、さっきは膨らんでいた彼女の背中のリュックが、今はぺったんこになっていることに僕は気づいた。

 飲み物を手に、その客がレジに来た時、僕は思わずこう声をかけた。

「あの、参拝にいらしたんですか?」

 客は少し驚いたようだったが、きびきびとした口調で答えた。「参拝、というか。うちの子を火葬してもらいに来たの」

 やっぱりそうだったのか、と僕は思った。

「すみません、突然。実は、うちも犬が亡くなって――」

「ああ、そうなの」客は、すべてを察したと言わんばかりに微笑んだ。「それで、花中神社でお願いしようかと考えてるの?」

「そうなんです」

 それで、どうなんでしょう、と尋ねるより早く、客が答えた。

「いいと思いますよ。ちゃんとやってくれるし。うちはいつも、あそこでお願いしてます」

「そうなんですね」

「こういう、キーホルダーも貰えるし」

 キーホルダー? 見ると、女性はリュックにぶら下げたお守りのようなものを手に取って、僕に見せた。

「お守りですか?」よく見ると、それはフワフワの毛皮でできているようだ。

 よくある、動物の尻尾に似せたフェイク・ファーのキーホルダーに少し似ている。違うのは、こちらはフェイクではないというところと、端が結び目のついた紐で結わえられているところだ。

「そう、お守り。あの子の毛皮で作ってもらったの。まあ、好き好きだけどね」

「へえ」僕は目を丸くして、じっとそのお守りを見つめた。

「申し込むなら、早くしたほうがいいわよ」

 その言葉に、僕は顔を上げた。「どうしてです?」

「あそこのお葬式はかなり人気なの。料金が割安だし、サービスもいいから。遠方から評判を聞きつけて来る客もいる、って噂よ」

 なるほど。この間の夫婦もそれだったんだろうな、と僕は考えた。

「信者じゃなくても構わないんですか?」

「全然大丈夫。うちみたいに、お葬式がきっかけで信者になる人もいるけどね」

「へえ、そうなんですか」

 じゃあ、そろそろ、と微笑んだ彼女に、僕は頭を下げて、ありがとうございました、と告げた。



「花中神社、か」フォークでナポリタンをくるくると絡めながら、安国が言った。「俺の知り合いも、あそこでお世話になったことがあるよ」

 同じくナポリタンを食べていた僕は、手を止めた。「えっ、本当に?」

「ああ」と安国が答える。

 仕事終わりに安国と落ち合って訪れたのは、駅前の定食屋。注文するならこれ一択、というくらいナポリタンが人気の店だ。ボリュームたっぷりでコスパがよく、味も申し分なしとあって、安国ともども学生の頃からよく通っている。今日は久しぶりの来店だが、店の様子もナポリタンも以前のままだった。違うのは、向かいに座る安国がぴしっとしたスーツを着ていることくらいだ。

「その人は猫の葬式をしてもらったらしいけど、犬や猫以外でもいいらしいぜ。何でもオッケーだそうだ」

 安国はそう言うと、フォークに巻きつけたナポリタンにかぶりついた。

「葬式って、所謂、葬式?」と、僕は思わずおかしな質問の仕方をした。「つまりその、人間の葬式と同じなの?」

 長いことかかって口の中のものを咀嚼してから、安国は答えた。

「さあねえ。俺もそこまで詳しくは聞かなかったから」

「そうか」

「でも、神社なんだから、その辺はちゃんとやってくれるんじゃないのか? そこいらの業者よりは、よっぽど安心だろ」

 確かにそうかもしれない。無論、良心的な業者だっているだろうが、広告を見るこちらには判断のしようがない。「そうだなぁ。神社に頼んだほうがいいのかもな」

 ひとまず、帰宅したら母にそう伝えてみよう、と僕は考えた。

「ところで、遥花のことだけど――」

 安国がそう切り出した途端、テーブルの空気が急に重くなった。さほど鋭くもない僕が感じ取ったほどだから、よほど思い詰めていたのだろう。

「その後、何も進展はない、よな?」

 うん、と僕は口ごもりながら答えた。その返事に、安国が視線を落とす。

「そう、か」

「その、心配だよな、やっぱり」慰めにもならない、くだらない言葉しか、口から出ない。

 安国の奴、まだ彼女のことが好きなのかな―― と、僕はよぎらせた。稲葉さんは次の彼氏を見つけたようだが、安国のほうはまだそういった話は聞かない。

「警察に捜索願を出すかも、なんて話はあるけど」

「へえ」安国はぴくりと眉を動かした。

「噂だけどね。決めるのは彼女の両親だから、俺たちはそこまで詳しく知らない」

 安国は、そりゃそうだよな、と呟きながら頷いた。

 友人の密かな悩みを思って、こっちまで切ない気分にさせられた。僕も安国も酒が苦手で、だから会う時はこうして定食屋などで会っているのだが、こういう時は、お互い酒でも飲めたらいいのに、と思ってしまう。

 飲めない酒を飲むわけにもいかず、僕はひたすら咀嚼音で沈黙を埋めた。やがて、安国もぎこちなくフォークを動かし、再び食べる作業を再開した。



 帰宅後、神社のことを告げると、母は頷いて言った。「ありがとう。だけど、実はもう申し込んじゃったのよね」

「え、神社に決めたの?」

 僕が聞き返すと、母は肩をすくめた。

「だって、結構人気らしいから。早く申し込まないと、と思って」

 テーブルに頬杖をつく母の向かいに、僕は腰を下ろした。「それで、いつにしたの」

「来週の水曜」

 えっ、と思わず声をあげた。水曜といえば、五日後だ。「そんなに先?」

「しょうがないでしょ。その日しか空いてなかったんだから」少しムッとした様子で、母が言い返す。

「でもさ、ほら、遺体が――」

「そんなに持つのか、っていうんでしょ? それも神社に聞いてみた。そのくらい、みんななんとかしてるそうよ。温度を低くしておけば大丈夫、ですって」

「温度を低く?」

「だから、エアコンをがんがんに利かせてる。あと、保冷剤もね。ま、なんとかなるでしょ」

 と、母は楽観的な調子だ。ほんとに? 心配だな、と僕は呟いた。

「で、なんで神社に決めたの? やっぱり、安心だと思ったから?」

「そうね。地元の神社だし、評判もいい。それに、なんといってもリーズナブルだし」

「ああ、なるほど」

 僕の間延びした声に、母は鼻白んだ顔をした。「何よ、まったく。――それとね、葬儀は合同葬儀にしたから。火葬も、合同よ」

 合同? 「それって、ほかの犬や猫と一緒に焼かれる、ってこと?」

「そう」

 僕は驚きを隠せなかった。母はというと、やや後ろめたそうな顔をしている。

「いくらリーズナブルだからって、そんな――」

「どうして? 別に悪いことはないでしょう」

 同時に火葬にするということは、つまりお骨を拾えないということだ。何匹も一緒に焼かれたあとの骨なんて、どれがどれか見分けがつかないだろう。僕がそう述べると、母は頷いた。

「そうだけど、メルは大型犬だから、ある程度は見分けがつくそうよ。それに、もし混ざってしまっても、それはそれでいいんじゃないか、と思ったの。だって、メルは他の犬が大好きだったし、一匹で旅立つより一緒のほうがいいでしょう」

 僕は呆気に取られたが、落ち着いて考えてみると、そうかもしれない、と思えてきた。確かに、大型犬なら他との見分けはつくだろうし、混ざったか混ざらなかったかなんて、そこまで気にする必要はないのかもしれない。

「それに、聞くところによると、今度の水曜は特別らしいのよ」

 母が妙に浮き浮きしてそう付け加えたので、僕は興味を引かれた。「特別?」

「そう。神社にとって特別な日。だから、普段より大掛かりな儀式をやるんですって」

「はあ。そうなんだ」と、僕は間の抜けた声を出した。神社にとって特別な日、とは? 「それって、お祭りみたいなこと?」

「そうなんじゃない? よくわからないけど。とにかく、その日はいつもより豪華な葬儀になるらしいの。申し込みもいつもよりたくさん受け付けてるんだって。受付の人も、お勧めだ、って言ってた。だから、急いで申し込んだ、ってわけ」

 なるほど、そういうことだったのか。僕は納得した。「まあ、確かに、そう聞いたら申し込みたくなるよな」

「でしょ。賑やかに見送られたほうが、メルも喜ぶわよ」

 母の言うとおり、メルはそういう犬だった。人も犬も大好きで、人混みをまったく怖がらなかった。初めて行く公園やドッグランでも、臆したことがなかった。

「ね? きっといい式になるわよ」

 そう言う母に、僕はためらいながらも頷いてみせた。

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