みくり坂下のコンビニ

戸成よう子

第1話

 ドアの開く音に振り向くと、そこには白装束に身を包んだ二人連れが立っていた。

「いらっしゃいませ」

 僕はそう声をかけて、レジ内の作業に戻った。レジ前に並ぶ客がいない時でも、煙草の品出しだとか、ホット・スナックの補充だとか、やることは色々ある。

 客の少ない時間帯だったので、白一色のいでたちのその二人の姿はやけに目立った。僕は視界の端に映る彼らの様子を、なんとはなしに観察していた。

 二人は夫婦のようだ。年は四十から五十といったところだろう。女は小柄で、男はかなりの長身だった。二人とも、白い杖に白衣と草履、というお決まりの服装をしている。襟の下にTシャツが覗いているので、おそらく駅前の貸衣装屋で借りてきたのだろう。格好としては、四国のお遍路のそれに似ているが、こちらは輪袈裟はつけない習わしだ。草履も、別にスニーカーなどでもいいらしい。このいでたちにどういう意味があるのかは知らない。僕は地元の宗教にあまり関心のない、今時の若者なので。

 そんな僕でも、二人の着こなしが下手くそだということや、物腰がいかにも初めて訪れた者のそれだということくらいはわかった。彼らはおそらく、信者ですらない、ただの観光気分の客だろう。

 このコンビニで働き始めてからというもの、日常的にこういった客を見かけている。これまでは、ごくたまに道ですれ違う程度だったが、今や毎日だ。というのも、この店が白装束の人々の目的地である神社の参道の真ん前にあるからだった。

 お陰で、最初はぎょっとしていた彼らの姿もすっかり見慣れてしまった。それどころか、白衣の着方にもいくらか詳しくなった。なぜなら、需要を見込んで、この店の棚にも白衣、杖、草履といった参拝用品一式が置かれているからだ。三点セットで、三千円。大変お買い得だ。

「あのう」

 カウンター越しに声をかけられ、僕は振り向いた。そこにいたのは、例の白装束の夫婦だった。

 声をかけてきた女の手には、お茶のペットボトルが二本、握られている。

「これ、お勘定。それと、聞きたいことがあるんですけど」

 僕はバーコード・リーダーをペットボトルにかざしながら、何でしょう、と尋ねた。

「道を聞きたいの。わたしたち、神社へ行くんですけど、この道で合ってるのかしら」

 その質問はしょっちゅう耳にしていたので、僕はすらすらと答えた。

「合ってますよ。すぐそこの坂を登った先です」

「あ、やっぱりそうなのね」と、女は声を上げて、隣を見た。「そうですって、あなた」

「この道を真っすぐ行くのか、坂を登るのか、どっちだろうと話し合ってたんだよ。この道は参拝通りという名だし、坂には看板がないだろ。矢印はあるけど」

 困惑顔で、男もそう述べた。

 僕は、よくわかる、という意味で頷いた。そうなのだ。参道は坂を少し登った先にあるのに、手前の道の名前が参拝通りというものだから、混乱が生じている。

「坂を登れば、すぐに鳥居が見えてきますよ」

「そうなのね。それで、神社まではすぐなのかしら?」

「ええ、まあ。十五分ほどかかりますが」

「十五分も歩くのかい」男がうめくような声で言った。

 よく見ると、男は重そうなショルダーバッグを担いでいた。そのせいか、彼の額には汗が浮かんでいる。

「緩い上り坂だから、大丈夫ですよ」安心させようと、僕は言った。

 神社は山の中にあって、参道はそれ自体が登山道になっている。とはいえ、それほど険しい山ではないし、整備された道なので歩きやすい。

 もっとも、僕自身は神社など数えるほどしか行ったことがなく、しかもせいぜい年始参りで訪れる程度だったので、そこがどんな場所かほとんど記憶にないのだが。

 僕の説明を聞くと、二人は少しほっとしたようだった。慣れない草履や重い荷物に、辟易していたのだろう。

「あなた、大丈夫そう?」

「ああ。まあ、なんとか行けるだろう」心配そうな妻へ、男が頷いてみせる。

 もし、靴擦れなどが心配なら、そこの棚に絆創膏がありますが、と僕は付け加えておいた。

 夫婦が礼を言って店を出ていくと、入れ替わりに店長がバックヤードから現れた。四十手前とおぼしい店長は、横幅も縦幅もかなりある巨漢だ。

「参拝客か」夫婦が出て行ったドアを見ながら、店長は言った。

 そうみたいです、と僕は答えた。「また、道を尋ねられましたよ」

「そうか。ちゃんと教えてあげたんだろう?」じろり、と僕を見つつ、店長が聞く。

 もちろん、と僕は言った。この店でバイトを始めて、まだ間もないとはいえ、自分としてはまずまず上手くやっている方だ、というアピールだった。

「ならいい」と、店長は満足そうに頷いた。「園部君、神社へ行く人には優しくしてあげてよ。ああいう人たちのお陰で、うちの店は持ってるんだから」そう言うと、肉塊のような肩を揺すりながら、再び店の奥へ戻っていった。



 ここで、僕がこのコンビニで働くことになった経緯を述べておこう。きっかけは、元々ここで働いていた稲葉さんという子の紹介だ。稲葉さんは現役の大学生で、僕の後輩に当たる。そして、同時に僕の友人の元カノでもある。彼女が、すぐ勤められて、仕事も覚えやすい、というので、それならと応募することにした。実際、ここでの仕事はやりやすいので、いいところを紹介してもらったと思っている。

 稲葉さんにしてみれば、別れた彼氏の友人なんかに親切にする義理はなかっただろう。それなのに人づてに僕がアルバイトを探していると聞き、連絡をくれたのだ。彼女には、とても感謝している。

 その稲葉さんが、数日前から店に現れなくなった。店長が心配して自宅に何度も電話をしたり、実家の親と連絡を取り合ったりしていたのだが、どうやら行方知れずの状態らしい。一人暮らしの部屋は空っぽで、親元にも連絡はないという。今は、両親が彼女の友人に手当たり次第に連絡しているところらしい。

 僕も気になって、安国に連絡してみた。安国のもとへも、既に彼女の親から電話があったという。半年も前に別れたとはいえ、二人は三年近くも付き合ったようだから、両親も安国のことを知っていたのだろう。

「やっぱり、お前も聞いてたのか」

 僕がそう言うと、安国は困惑した調子で言った。「ああ。だけど、何も知らない、としか答えようがなかったよ。なんだか、申し訳なかった」

 落ち着いた声を出そうと努めていたが、内心はかなり動揺しているのが感じ取れた。付き合っていた子がいなくなったと聞けば、それが普通なのだろう。

「どうしちまったんだろうな、遥花のやつ。こんなふうに、バイトも何もかも放り出していなくなるようなやつじゃ、なかったのに」

 まったくだ、と僕は同意を示した。知る限りでは、稲葉さんは真面目で面倒見のいいタイプだ。それが突然、無責任な行動を取りはじめるなんて、おかしな話だ。



 その夜、僕が自宅の自分の部屋でスマートフォンをいじっていると、ドアにノックの音がした。「周太、ちょっといい?」

 何、と返事をしながら振り向くと、母はすでにドアから身を乗り出していた。目の縁がちょっと赤い。

「どうしたの?」

「メルがそろそろ亡くなりそうなの」

 メル、というのはうちで飼っているゴールデン・レトリバーだ。母はどちらかというとサバサバした性格の主だが、さすがに弱りきっているらしい。僕は立ち上がった。「どんな様子?」

「今、お父さんが見てる。時々、痙攣に襲われてるみたい」

 僕は母と一緒に階下へ降りていった。メルは、いつも一階の空き部屋で横たわっている。

 部屋に入っていくと、毛布の上に横たえられたメルと、その傍らに膝をつく父の姿が目に入った。

「メル、どう?」

 父は、おう、と振り向いた。「あまりよくないな。息遣いも不規則だし――」

 促されるまま、僕は父の隣に膝をついた。

 メルは目を閉じ、小刻みな、荒い呼吸を繰り返している。四肢を投げ出し、腹の上にバスタオルをかけられていた。僕は病気のせいでところどころ毛の抜けてしまったメルの体に手を置いた。

「メル」と、呼びかける。

 メルは無反応だったが、ぴくぴくと額のあたりが動いた気がした。「聞こえてるのかな」

「聞こえてると思う。声、かけてあげて」

 母にそう言われ、僕は虚しく、何度もメルの名を呼んだ。

 メルの体が病に蝕まれだしたのは、ほんの五カ月ほど前のことだ。骨肉腫は犬にとって恐ろしい病気だと聞いていたが、本当にあっという間の出来事だった。十七歳といえば、この犬種としては高齢なほうだが、それでも不自由なく駆け回れるほど元気だったメルが、みるみるうちに弱り、歩くことはおろか、立ち上がることすらできなくなった。

 ここ数カ月は、何度も入退院を繰り返し、家族も疲弊しきっていた。獣医からは、助かる見込みがないことを告げられた上で、どういう最期を迎えさせるか考えておいたほうがいい、と言われた。悩んだ挙句、両親はメルを自宅のみで看病し、今後は入院させないことにした。つまりは、自宅で看取ることを選んだのだ。

 痛みが酷いとき、注射を打つととても楽になるということは聞いていたので、これは難しい選択だった。とはいえ、メルの場合はそこまでの体の痛みはないだろう、とも言われていたので、両親はこの決断に踏み切った。僕の目にも、メルは痛みに苦しんでいるようには見えなかった。それでも、もちろん苦しそうではあったけど。

「メル、メル」僕は呼びかけ続けたが、メルはもうぴくりともせず、ただ横たわっているだけだった。

 最初、荒かった息遣いは、段々ゆっくりした浅いものに変わっていった。毛皮越しに感じられたメルの体の温もりが、徐々に失われていく気がした。手の平の下から生命が抜け出ていく感覚に、僕はうろたえた。

 メル、もういっちゃうのか。

 母が、うっうっと嗚咽を漏らしている。父も肩をわななかせているようだ。僕はメルの名を呼びながら、心の中で囁き続けた。もう、痛くないんだぞ。いくらでも、好きなだけ駆け回れるんだ。

「さよなら」母が涙声で言った。

 さよなら、メル―― 僕もまたぐずぐずと鼻を鳴らしながら、口には出さずそう告げた。



「ねえ、メルのことだけど」

 翌朝、階下に降りていくと、母が父に話しかけていた。

「お葬式とか、どうする? やる?」

 朝食のテーブルについた父は、テレビ画面を見ながら困ったように言った。「お葬式って――」

「ペット葬ってやつ。今時は普通よ。ねえ?」最後の、ねえ? は僕に向けたものだ。

 僕は頷いた。「たぶんね」といっても、本当にそれが普通なのかは僕も知らない。メルは十七年、うちにいた。ほかにペットを飼ったことはない。うちの家族は誰も、ペットが死んだ時どうすればいいか知らないのだ。

「ほんとか? ペットのためにお葬式、ねえ」黒縁眼鏡をかけ直しながら、父が呟く。「まあ、それならすればいいじゃないか。どうせ、あれだろう。遺体の処分はしないといけないんだろう?」

 メルが亡くなったばかりなのに、随分生々しい、と思ったが、致し方ないのだろう。

「そうよ。それも、早くしないと。残暑が厳しいから」

 そうなのだ。十月の頭とはいえ、温暖化で毎日暑い日が続いている。この気温の中、メルの亡骸をいつまでも家に置いておくわけにはいかない。

「お骨にするの?」僕は尋ねた。

「そうよ、焼き場に持ってくの。――あんた、ご飯は自分でよそってよ」

 茶碗にご飯をよそってテーブルに戻ると、父と母はメルの思い出話に耽っていた。

「ほんと、寂しくなるわぁ。昨日は眠れなかった。つい、メルの昔の写真なんかを探しちゃってさ」

 どれ、と僕は母の手元を覗き込んだ。スマートフォンの画面に、仔犬の頃のメルが映っている。デジカメのデータを落としたのだろうか。スマートフォンで撮ったにしては、画角が画面に合っていない。

「可愛いでしょう。この頃はまるでぬいぐるみみたいだったんだから」

「ここまで小さい頃のことは覚えてないなぁ」当時の僕は五歳くらいだったから、メルがうちに来た時の記憶は曖昧だ。

「最初はよちよち歩きだったの。それが、成長するにつれて家の中を走り回るようになって。フローリングの床が傷だらけ。でも、可愛かったから許せたのよね」

「ああ。俺が家中の床にマットを敷いたんだぞ」

「そうだったわね。――最初は、鈴のついてる首輪をつけさせてたの。でも、チリンチリンうるさくって。すぐに鈴なしのに替えたのよね」話しているうちに母は目を潤ませ始めた。「でも、あの子は音の鳴るものが好きだった。玩具も、音のするのがお気に入りだったわ。病気になってからも、枕元に鈴のついてる玩具を置いておくと、時々口で咥えて遊んでたの」

「食いしん坊だったな」

「そうね。ご飯の準備をしてると、いつもすぐそばでお座りをしてたっけ。根負けして、ついウインナーの切れ端なんかをあげちゃうんだけど。食べ物を盗ったり、くれ、とアピールしたりはしなかった」

「怒られるとわかってたんだよ」と、僕も口を開いた。「嫌いなおかずがあると、よく、こっそりテーブルの下でメルにあげてたな。メルもわかってて、バレないように食べてたんだよね」

「あんた、そんなことしてたの?」母が怒った顔でこちらを睨む。

 僕は肩をすくめた。小学生の頃のことだし、もう時効というやつだろう。

 父が咳払いをした。「それで? ペット葬のことはどうするんだ」

「それなんだけど、昨日眠れなかったからパソコンで色々調べたの。そしたら、ほんっとたくさんあって。もう、どれがどれがわからないくらい」

「え、そんなに?」

 確かに、昨今のペット葬関係の広告の量は凄まじい。普段から多少、インターネットを利用している分、僕もそれは知っていた。

 父は、呆れた、と言わんばかりに鼻を鳴らした。「へえ。ペット産業、賑やかなりし、ってところか」

「悪徳業者もいるらしいから、気をつけてよ」僕は一応進言した。

 母はそれを聞くと、しかめっ面をした。

「そう言うなら、あんたが調べてよ。わたしに何でもやらせてさ。――それでね、調べてて、思い出したんだけど」と、向かいに座る父の腕を叩く。「あの、神社。周太が働いているところの近くの。花中神社、っていったっけ? あそこでも、確かペット葬をやってたと思うのよね」

 父が、ほんとか? という目を僕に向ける。

「いや、知らないな」

「そう? 以前、聞いたことがあるの。ペットの火葬、だったかな? そういうのをやってくれる、って。もちろん、祝詞も上げてくれるらしいわよ」

 本当に? 僕には、まったく聞き覚えのない話だった。まあ、アルバイトを始めてまだ間もないし、勤め先の近くだからといって詳しくなれるわけでもないのだが。

 僕のアルバイトの話になるといつも苦虫を噛み潰したような顔をする父が、わざとらしくため息をついた。「そういえば、お前、仕事は上手くいってるのか?」

 僕が、ああ、まあ、と曖昧な返事をすると、父は口をへの字に結んだ。きっと、バイトなんか辞めてさっさと就職して欲しい、と考えているのだろう。

「とにかく」と、母が話を引き戻した。「お店の人に聞いてみてよ。誰か、知ってる人がいるかもしれないでしょ」

「いいけど、神社に電話して聞いたほうが早くない?」

 僕が言うと、母は怖い顔をした。「もちろん聞くけど、それとは別に評判が知りたいの! そのぐらいやってよ」

「わ、わかったよ」

「あなたも。ペット葬のこと、調べといてよ」

 父は、俺が? と驚いた顔をしたが、渋々頷いた。

「それと、帰りに保冷剤を買ってきて。メルの体を冷やすのに使うから」

「ああ、わかった」父は頷き、立ち上がった。

 僕は味のしない朝食の残りをかきこんだ。

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