第4話 向き合う事実
真っ白な天井が視界に入る。目が覚めると、そこはいつもの家ではなかった。
(あれ……私……)
昨日は会社を出て、副社長の家に来て、それで。
出来事を思い出して、顔が熱くなる。鏡を見なくて自分の顔が真っ赤なのは分かった。隣を見ると、隼人の姿はなかった。
(もう起きたのかな)
ゆっくりと体を動かし部屋を出ると、リビングの方から、お味噌汁の良い香りがした。香りにつられてリビングの扉を開くと、キッチンに隼人の姿があった。部屋着姿にエプロンをして、いつもスッキリと綺麗にまとめられた前髪は、今日は下げられていて、少し幼く見える。
(そっか今日は土曜日。会社も休みだ)
「お、おはよう」
ぎこちなくも、後ろから声をかける。隼人は私を見ると、いつもの調子で「おはよう」と返してくる。少しそっけない感じもするけど、これが彼だと知っている。
「朝ごはん、作ったから食べろよ」
「うん」
ダイニングテーブルに移動し腰を下ろすと、隼人が手際良く器を並べていく。その様子を見て、なんでも出来る人なんだなとつくつぐ思う。
「……あれ、隼人は食べないの?」
正面に座った隼人の前には、カップが一つ置かれていただけだった。
「朝はコーヒーしか飲まない」
「そうなの? でも、それじゃお腹空かない?」
私がそう言うと、隼人は「フッ」と面白そうに口の端を持ち上げた。
「お前じゃないんだから」
「なっ……私、そんな大食いじゃないし」
私がツンとした言い方をしても、隼人は笑っていた。関係性が変わっても、私をからかうことはやめてくれないらしい。
それにしてもと、テーブルに並べられた朝食を見て思う。
(お味噌汁に卵焼きに焼き魚、加えてフルーツまでって、朝から栄養バランスが摂れた食事だな。自分はコーヒーだけで済ますのに、わざわざ起きて朝ごはんを作ってくれるなんて。……隼人って、意外に世話好き?)
今までの彼からは、想像もつかなかった。
目が合うと、魅力的な笑みを向けられ、ドキッとする。さっきは素っ気ない挨拶だったのになんだか調子が狂う。無口で冷たい。でも逆にそこがいい。あの時は、女性社員達が言うことが分からなかったけど、今なら、分かるかもしれない。
「体は平気か?」
「体?」
(あっ……)
「少し激しかったかと思って」
ストレートにそう言われ、また一気に顔が真っ赤になった。
「そ、そんなハッキリ言わなくても……」
「今更、照れることないだろ。恋人同士なんだから」
動揺する私の前、くすくす面白そうに笑う隼人。
「は、隼人はそうでも、私は慣れてないんだから!」
「へえー、そうかよ」
分かってはいたけど、隼人は手慣れていた。触る手も宝物を扱うかのように優しくて、私は与えられるその快楽に縋ってしまった。
聞くまでもない。葉月ちゃんだって言っていた。有名な女優やモデルとも付き合ってたって。
「__おい」
いつもの低く凛とした声が、太くのしかかるような声をしていた。顔を上げると、いつになく真剣な顔をした隼人が、真っ直ぐに私を見ていた。
「余計なことを考えるな。俺が愛しているのは、今も昔も君ただ一人だ」
「隼人……」
胸が、ぎゅーっと締め付けられるような苦しさがあった。でも、嫌じゃなかった。これが、人を愛して感じることの出来るものだと分かっていたから。
(きっと隼人には、私の考えていることなんて、全部お見通しなんだろうな)
「……うんっ」
食事を終えた後、今後のことについて話し合いたいと言われた。
寝室で隼人が用意してくれた洋服に着替えながら思う。
(話って言ったら、やっぱりあのことだよね)
再びリビングへ向かい、ソファーに座っていた隼人の隣、腰を下ろす。
「それで、話って?」
「ああ、俺たちの結婚についてだが……」
思った通り、彼は結婚について話し始めた。
「少し、待っていてくれないか?」
「え?……」
「実は、近々、宝月ホールディングスの創立記念パーティーがあるんだが、そこで俺が正式に後継者として発表がされる。それに伴って、俺が宝月貿易の社長に就任する」
現在の宝月貿易の社長は、彼の叔父が務めている。ゆくゆくは隼人が社長になるのだろうと思ってはいたけど、こんなに早くとは。
「君との結婚を蔑ろにはしたくない。だから、仕事が落ち着くのを、少しの間だけ、待っていてほしいんだ」
『__もう待つのは十分だ』
病院で再会したあの日、彼は私にそう言った。隼人だって、本当はすぐにでも結婚をしたいと思ってくれている。それに、私との将来を真剣に考えてくれている。だからこそ、出した結論なんだ。
「もちろん。あなたと一緒にいられるのなら」
「椿……ありがとう」
隼人は鼻先を髪に埋めるようにして、私をきつく抱きしめた。
日本の経済界を背負っていると言っても過言ではない彼にかかる不安と重圧。その全てを、私が取り除くことなんて出来ないけど。
隼人の背中に回した手に力を込める。
私が出来ることは、彼を信じて待つことだ。
「それから」っと私の顔を見て隼人が続ける。
「お母さんのことだが、俺の友人で、癌専門の腕の良い医者がいる。一度、そいつがいる病院に行ってみないか?」
私の前では気丈に振る舞っているけど、お母さんの体は日に日に病気に蝕まれている。正直、いつ何がってもおかしくはない。
「うん……行く。私とお母さんを、その人の元に連れて行って」
「ああ……」
重ねた手の平をぎゅっと握ってくれる隼人。そのぬくもりが温かくて、優しくて、涙が出そうになった。
円を描くように隼人の手が、私の耳に触れる。ぞくっと、痺れるような、あの感覚が体をめぐる。
「耳、弱いよな」
楽しそうに笑う隼人。
「もうっ……」
私は恥ずかしさから、プイッと顔を背けるも、指先で顎をクイっと持ち上げられる。
「俺が君を選んだ。君は世界一の女性だということだ」
近づいてくる隼人の顔に、私は目を閉じた。重なり合う唇。何度か柔らかいキスをされ、ゆっくりと唇が離れる。目を開けると、幸せそうに笑う隼人がいた。その笑顔を見たら、私も笑っていた。
♧♧♧
数日後。隼人と二人で、お母さんの元を訪れた。隼人と結婚を前提に付き合っていることを話すと、お母さんは嬉しそうに「おめでとう」と言ってくれた。少しは親孝行らしいことができているのかと、私も嬉しく思った。
そして、お母さんは隼人の勧めで、病院を移ることになった。
「荷物はこれで全部ですか?」
「ええ、隼人君、忙しいのに迎えに来てくれて、ありがとうね」
「いえ、当然のことをしているまでです」
バッグを持った隼人は、手続きを済ませてくると言い、病室を出ていった。
少し前だったら、想像もしていなかった。こんな穏やかな普通の幸せが訪れることを。安斎の家に生まれて、罵られてきた日々が、遠いい過去になっていく。私は隼人と出会って、未来に進めているんだ。
「椿、あのね……」
徐に口を開くお母さん。
「実はこの間、あの人から、連絡があったの」
「あの人って……まさか、お父さんから?」
「うん」
二人は、もうずいぶん前から連絡を取っていないし、顔だって合わせていない。それが、急にどうして。
「隼人君が、家に来たって」
「え……隼人が!?」
(隼人、いつの間にお父さんのところに……私には、そんなこと一言も言ってなかった)
「『娘さんと結婚を考えているので、どうか見守っていただけないでしょうか』って言われたって。本当なのかって聞かれたから、そうよって言っといたわ」
「それで、お父さんはなんて……?」
「分かった。って……」
「えっ、それだけ……?」
お父さんのことだから、絶対何か言ってくるかと思ったけど、相手が宝月財閥だからだろうか。
「あの人、あなたが家を出て行ったのが、ショックだったみたいね」
(ショック……? あのお父さんが……?)
「だからせめて、結婚くらいは自由にさせてあげようって、思ったのかもしれないわね。あの人も素直じゃないから……」
切なげに目を伏せるお母さん。
私が家を出ると行った時、好きにすればいいと冷たく言い放ったお父さん。お母さんを愛していたとしても、一族から罵られている私は、結局はどうでもいい存在なのだろうと、ずっと思ってきた。
(あれは、好きの裏返しってこと?)
考えにくいことだけど、話をするお母さんの顔を見ていたら、信じられないことではなかった。
隼人の運転で車を走らせ、しばらくすると、望月医科大学病院が見えてきた。助手席の窓から見えた病院は、今までお母さんが入院していた病院とは比べ物にならないほどの規模。それもそのはず、望月医科大学病院は、著名人や芸能関係者が通う大病院だ。
隼人は、駐車場の警備員にフランクに挨拶をすると、病院の正面に車をつけた。車を降りると、白衣を着た長身の若い男性が私たちの元へやって来た。
「隼人!」
「紫……?」
隼人は男性を見ると、驚いたように大きく目を見開いた。そして、二人は親しそうに抱き合った。
「久しぶりだな。お前の大学の卒業式以来だよな?」
「ああ、会えて嬉しいよ。今日は、オペが入っているんじゃなかったのか?」
「そうだったんだけど、予定より早く終わったんだ」
「さすがだな」
「いや、親父に比べたら、俺なんて全然」
そう言うと、男性は隼人の後ろにいた私を見た。その様子を見て、思い出したかのように隼人が私を紹介する。
「こちらは伊藤椿さん。俺の恋人だ」
「はじめまして、望月紫です」
望月紫(もちづき ゆかり)さんと名乗った男性は、ニコッと微笑みながらそう言い、私に片手を差し出した。
細くしなやかな手を握る。
「伊藤椿です。母がお世話になります」
「こちらこそ」
「それで、こちらにいらっしゃるのが、彼女のお母様だ」
紫さんは私から手を離すと、隣にいたお母さんと握手をする。
お母さんの担当医になる紫さんは、隼人の幼馴染でもあり、この望月医科大学病院の御曹司。お父様は、業界では知らぬ者がいないほどの名医で、大学の理事もされているらしい。その息子である紫さんも、若手ながら数々の手術を成功させている優秀な外科医だ。年齢は隼人より五つ上と聞いていたけど、実年齢よりもかなり若く見える。全体的にふわふわとした感じの人で、クールな雰囲気な隼人とは正反対のタイプ。二人が友人っていうのも、意外に思える。
「細かい手続きは全部やっといたから、入院病棟に行って大丈夫だよ」
「助かる」
紫さんに続き、私たちも病院内へと入る。通されたのは個室の病室で、ベッドはクイーンサイズで、お風呂もついていて、おまけに二十四時間、専属のお世話係がついていた。まるで高級ホテルのようで、お母さんは気後れしている様子だった。
一通り、病院内の説明を受けた後、私達に気を遣ったお母さんが、「二人でどこかに行ってきたら?」と言い、隼人と二人、病院近くにある海辺のカフェを訪れた。
海が見える外のテラスに腰を下ろすと、メニューを受け取った隼人が飲み物を二つ注文する。
「ケーキ、食べるか?」
「食べたい……!」
「了解」
隼人は私の返答に頬を緩ませそう言うと、店員におすすめのケーキを聞いてくれ、私はそれを頼んだ。
ぼんやりと海を眺める隼人の横顔を見る。
(さすがの隼人も疲れてるよね。ここ最近はずっと働き詰めだったし)
創立記念パーティーの準備に仕事の引き継ぎにと、隼人は忙しない毎日を送っていた。休日は、私が隼人の家に泊まりに行っていたけど、隼人の帰りが遅かったり、家にいても仕事に追われていたから、こうして顔を合わせて一緒に過ごすこと自体、久しぶりだった。
飲み物とケーキがは運ばれてきて、ケーキを食べた隼人は、穏やかな笑みを浮かべた。
「美味いな」
(……よかった。少しでもリラックスできているといいな)
「こっちのケーキも美味しいよ」
フルーツが乗ったタルトのケーキは、甘くてとろけるようなクリームが癖になりそうだった。
「一口食べる?」
「食べようかな」
ケーキが載ったのお皿を前に差し出すと、隼人は怪訝そうな顔をした。
「食べさせてくれいないのか?」
「えっ、あ……」
じっと見つめられ、耐えきれずお皿を自分の元に戻すと、フォークで一口サイズに取り分ける。
少しだけ、手が震えた。隼人の口元の前までフォークを持ってくると手首を掴まれた。そして、そのままケーキは隼人の口の中に。
「甘いな……」
そう言い、魅惑的な笑みを向けてくる隼人に、ドッキっとしてしまい、さっと手を引く。この笑みには、何度向けられても慣れない。
ケーキを食べ終わる頃には日も暮れだし、風が冷たくなってきた。
(寒いな……)
腕を摩ると、正面に座っていた隼人が立ち上がり、着ていたカーディガンを肩にかけてくれた。
「ありがとう」
隼人はそのまま、隣の椅子に腰を下ろすと、私の肩に腕を回し抱き寄せた。海は夕焼け色の太陽の光が散りばめられ、宝石のようにキラキラと輝いていた。眩しくて、思わず目を細めてしまいたくなるけど、彼と見るこの景色を目に焼き付けていたかった。
「君のお父さんに会ってきた」
「うん……お母さんから聞いた」
「俺たちの結婚については、とやかくは言われないと思う」
「うん……」
「ただ、彼は君を手放す気はなさそうだ」
「……」
黙り込む私を見て、顔を覗き込む隼人。
「分かってたのか?」
「……なんとなく、ね……」
お母さんの話を聞いて、そんな気はしていた。この結婚で安斎と縁を切れたらよかった。そんなことを思わなかったわけじゃないけど、仮にそう出来たとしても、あの人が私の父であり、自分の中に安斎の血が混ざっていることは事実だ。
それに、父のような策略家は何をしでかすか分からない。
(もしも隼人に……)
すると、頭上からため息が聞こえた。顔を上げると、隼人は不機嫌そうな顔をしていた。
「また余計なことを考えてるだろ」
「余計なことって……私はただ、もしあなたに何かあったらって……」
自分がどうにかなることよりも、隼人が傷つくこと以上に、今の私にとって怖いものはない。
だけど。
「それが余計なんだ。俺がどうこうなることはない。そして、君に危害が加わるなどありえない」
ハッキリとした口調で断言する隼人。その瞳は、吸い込まれてしまうほどに力強かった。
いつもそう。あなたの言葉一つで私の不安は消え去り、深く思い詰めてしまうことも、あなたはなんでもないかのようしてしまう。
隼人は私の頭をポンポンとすると、きつく抱きしめた。その強い抱擁が、変に心地良かった。
私は彼の胸の上に両手を置くと、その唇にキスをした。隼人は一瞬、驚いた表情をしたけれど、すぐに私の後頭部に手を回し、啄むようなキスをしてきた。
唇が離され、見つめ合う。
「……隼人……ありがとう」
見上げた先、私はそう言った。
優しい笑みを見せる隼人。私は彼の胸に頭をつけ、その鼓動に耳を澄ませた。
永遠にこのままでいたい。そんな儚い思いを抱えながら、私は愛する人の胸の中で、静かに目を閉じた。
♧♧♧
翌日、私は有給を使い病院へ。エコーなどの画像検査を行い、紫さんの診断の元、腫瘍は以前いた病院の先生も言っていた通り、取り除くことが難しいとのことだった。だけど、紫さんは必ず完璧なオペをしてくれると約束してくれた。
診察を終えた後、私は病院のラウンジで隼人と電話をしていた。
「手術は一週間後だって」
[そうか。パーティーの前日だから、行けるかどうか分からないが、スケジュールを調整してみるよ]
「ありがとう。でも、あんまり無理しないでね? 隼人の体が壊れちゃったら元も子もないんだし、それこそ、お母さんが心配しちゃう」
[そうだな……君は大丈夫か?]
「私?? 私は大丈夫だよ、体は丈夫な方だから!」
そう言うと、面白がるような薄笑いが聞こえた。
[その割には、昨日へばるのが早かったが?]
「だ、だから! そういうこと普通に言わないでよ……!」
(あっ……)
思わず大きな声を出してしまい、周りにいた人達に向けて「すいません」と、軽く頭を下げる。
電話越しでも、隼人が意地悪そうな笑みを浮かべているのが分かった。
「お前がふっかけてくるのが悪い」
「私はそういうつもりで言ってないから。隼人の受け取り方に問題があるんじゃない?」
私がムキになりながらそう言うと、「はいはい」と笑う隼人。
すると、電話の向こう側から「副社長」と声が聞こえた。
[悪い、そろそろ切る]
「うん。忙しいのにありがとね」
[ああ、またな]
そう言われると、電話はすぐに切れた。
寂しさを感じないこともないけど、少しの時間でも、隼人の声を聞けてよかった。
(私も頑張らないと)
それからの日々は、あっという間に過ぎていった。互いに仕事に追われながらも、少しの時間を見つけては会うようにしていた。忙しいと食事を抜く癖がある隼人にお弁当を届けるのは私の役目で、面倒くさそうな顔をされても、一日の体調チェックは怠らなかった。
葉月ちゃんだけには、隼人とのことを伝えることにした。結婚のことも含めて話すと、「おめでとうございます!」とすごく喜んでもらえた。
「ってことは、先輩は未来の社長夫人としてパーティーに参加するんですね!」
創立記念パーティーは、船の宣伝も兼ねて、宝月貿易が所有する豪華客船を貸し切って行われる。パーティーには、私を含めた宝月貿易の社員、他の傘下の会社社員はもちろんのこと、親交のある大手企業の業界人達や政財界の大物達が大勢くる。隼人の社長就任と、財閥の正式な後継者発表をする場ということもあって、マスコミの数もすごいことが予想される。私も社員として、身を引き締めないといけない。
♧♧♧
パーティーを明日に控えた前日。予定通り、お母さんの手術は行われた。手術は事前に言われていた時間よりも長引き、時計のはりが進むごとに、待合室で祈る私の手に力が入る。
すると、テーブルの上に置いてあった携帯が鳴った。
画面を見ると、相手は隼人だった。
【大丈夫。何も心配はいらないよ】
(……隼人……)
きっと、僅かな隙間時間にメールを送ってくれたんだ。
今日は朝から大事な商談があると言っていた。本当に忙しいのに、こんな時まで優しい人だ。
私は携帯を握り締めて、組んだ手を額に当てた。
(……お母さん、頑張って……みんながついてるよ)
__そして、長時間の手術の上、お母さんの手術は無事成功。しばらくして、目を覚ましたお母さんは、顔を覗かせた私を見て、にっこりと微笑んだ。
私の頬を涙が伝った。
少しして、隼人が病院に駆けつけてくれた。病室に来た隼人は、ベッドの上で横になりながらも微笑むお母さんを見て、肩を落とし安堵の表情を浮かべていた。
「紫」
隼人は、今まで付き添ってくれていた紫さんに向かって、お礼を言い頭を下げた。
「こちらこそ。大切な人を守る手伝いを、俺にさせてくれてありがとう」
(本当に……よかった……)
ベッドの手すりに置いていた私の手の上に、お母さんが片手を重ねる。私はその手の上に、そっと片方の手を乗せて頷いてみせた。
廊下で紫さんを見送ると、隼人はぎゅっと私を抱きしめた。
「一人で不安だっただろ」
抱きしめられた力からは、発せられたとは思えないか細い声に、私は首を横に振った。
「隼人の存在を近くで感じていたよ。ありがとう」
私はそう言い、隼人の大きな背中に腕を回した。
こうして抱きしめてもらう度に、隼人の誠実さや優しさが体の中に流れ込んでくるかのようで、私は酷く安心する。
腕が緩められ、隼人を見上げると、その背中に人が立っているのが見えた。
(……え)
その人物が誰か分かった時、私は目を疑った。
「……お父さん」
そこには、神妙な面持ちをしたお父さんが立っていた。
「どうして、ここに……」
「俺が呼んだ」
「えっ?」
呆気に取られている私をよそに、隼人はお父さんに挨拶をする。
「お久しぶりです。安斎さん」
(そうだ。二人は面識があるんだった。でも、隼人が呼んだって、どうしてお父さんを……)
「……久しぶりだな椿。見ない間に、立派になったな」
私を見たお父さんが、ぎこちなくもそう言う。
「……お父さんも、お元気そうで」
私はお父さんから視線を外しながら言った。
お父さんも私と会うのが気まずいのか、そう言ったきり、こちらに視線を向けない。
気まずい沈黙が流れる。
久しぶりに見たお父さんは、少し老け込んだ気がする。あれだけ威厳があったはずなのに、あの頃よりも小さく見える。家を出てからというもの、お父さんに会うのは年末年始の挨拶をしに、渋々、安斎に行って顔を合わせたくらい。まあ、顔を合わせたと言っても、ほんの一瞬だし、泊まることもなかったから、ほぼ会ってないに等しい。
すると、隼人が沈黙を断ち切るように、真剣な顔で私を見下ろしながら言った。
「お父さんは、ずっと君に会いたがっていた。君の成長を見守り、幸せを願っていたんだ」
「……そうは見えなかったけど」
今更、何なんだと思う。お母さんが一番苦しい時に傍にいなかったくせに。自分はいつも高みの見物で、私に手を差し伸べてくれたことだって、一度もなかった。
ぎゅっと拳を握り締めていると、お父さんが口を開いた。
「私はお前にとって、良い父親ではなかった」
「私にとってだけじゃないよ。お母さんにとってだって、良い……」
相応しい言葉が、見つからない。
「……良い人じゃ、なかった……」
「その通りだ。今更何を言っても、何をしても、もう遅いことは分かっている」
まるで後悔しているような口ぶりだった。お父さんは、そんなことを思うような人ではないはずなのに。
黙って私たちの会話に耳を傾けてい隼人が、口を開く。その瞳は、頼もしくも、儚げに揺れていた。
「昔、母が言っていました。『目に見えるものは、ほんの一部の事でしかない。人は過ちを繰り返しながら生きている。私たちは、許すことを学ぶべきだ』と」
(許すことを、学ぶべき……)
お父さんが、お母さんに会いに来たというのは事実。
ちらっと、お父さんの顔を見ると、お父さんは、深く思いつめたような顔をしていた。
「椿」
隼人が私の手をそっと握る。
「お父さんをお母さんに会わせてあげよう。椿だって、ずっとそうしてほしかっただろ?」
隼人の言う通りだ。私はずっとお父さんに、お母さんに会いに来てほしかった。矛盾してしまう気持ちを抱えながらも、いつか会ってはくれないかと期待していた。
(だって、お母さんが愛しているのは……やっぱり、お父さんだから……)
私は知ってる。お母さんの携帯の待ち受けが、今もお父さんと撮った写真であることを、今も、お父さんと交わしたメールを消せないでいることも。
私はゆっくりと頷いた。
「だけど、もしまた、お母さんを傷つけるようなことをしたら、絶対に許さないからっ……」
私が鋭い瞳でそう言うと、お父さんはその言葉を深く胸に留めるように重々に頷いた。
ドアの前から退ける。
躊躇しているのだろうか。お父さんはドアに手をかけようとして、手を下げる。
そして、落ち着かせるように一息つくと、ドアを開けた。
いきなり現れたお父さんに、お母さんは驚きのあまり声も出せていなかったけど、その表情は、今まで見てきた中で、一番幸せそうだった。
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