第3話 愛に溺れ、明かされる過去

いきなり申し込まれた結婚。お母さんには、なんて説明をして良いのか分からず、数日経った今でも話せていない。

副社長が戻ってきたことで、社内は大忙し、千賀部長から厳しい人だと聞いてはいたけど、ここまでとは思わなかった。

昼休みになり、同じ部署の一つ年下の後輩である葉月ちゃんと、食堂に行くことに。混雑した食堂の中、なんとか席を確保し、葉月ちゃんと向かい合わせになり、私は持参していたお弁当を広げた。

「わあー先輩のお弁当、美味しそ〜」

「そうかな?」

「いつも手作りなんてすごいですよ。私なんて、毎回食堂かコンビニですもん」

 そうしたいのは山々だけど、少しでも貯金を多くしたい。削れるところは削らなければ。

「良い奥さんになりそうですね」

何気なく口にした葉月ちゃんの言葉に、思い浮かんだのは副社長だった。

「ねえ、葉月ちゃん、副社長ってどんな方なの?」

そう聞くと、葉月ちゃんは驚きと呆気にとられたように、目をぱちぱちとさせた。

「珍しい……先輩が男の人に興味を持つなんて」

(やばい、唐突すぎたかな。もっと自然な流れで聞くべきだったかも)

「い、いや。興味というか、上司のことなのに知らなすぎるなぁーと思って」

(言えない……結婚を申しこまれたなんて)

葉月ちゃんは腕を組み「うーん」っと思考を巡らせる。

「副社長といえば、御曹司であのルックス、無口で冷たいですけど、そんなところが逆に良いと、うちの女性社員にも人気なんです。願わくば、と、狙っている人もいると思いますよ」

(確かに冷たい印象は受けたけど、逆にそこが良いなんて、私には分からないな)

「でも、無理でしょうね」

「無理??」

「有名な女優やモデルと付き合ってたって噂があるんですよ。女癖も、相当悪かったみたいで、来る者拒まず、去るもの追わずです。それに……」

葉月ちゃんは前のめりになると、声を顰めながら言う。

「聞いた話ですけど、昔は結構、荒れてたらしいですよ」

(荒れてた? あの落ち着きのある副社長が??)

「まあ、全部噂なんで、本当のことは分かりませんが、危ない男だっていうのは間違いないですね」

(危ない男……)

仮に彼と結婚したとして、他に女性がいても目を瞑らなければならない。お金持ちの御曹司に、愛人の一人や二人がいても当然。

(でも、それって……私はすごく嫌だ)

別に自分一人を愛して欲しいとか、そんなことを言っているんじゃない。お母さんのように、傷つく人を見たくない。

「あれ、副社長じゃないですか?」

「えっ?」

葉月ちゃんの視線の先を追うとそこには確かに彼が立っていた。

「珍しいですね。食堂に来るなんて」

突然現れた副社長に、食堂にいた社員たちがざわめきだす。私に気づいた副社長は、迷うことなくこちらに歩みを進めてくる。

(えっ、嘘。こっちに来る……!!)

「ごめん葉月ちゃん、私、先に戻るね……!!」

「え、ちょ……先輩!?」

素早く広げていたお弁当を片付け、私は逃げるように席を立ち、食堂を出ようとしたが、力強い腕が私の手首を掴んだ。

「どこへ行く?」

その凛とした声に顔だけ振り向かせると、不服そうな顔をした副社長が立っていた。

「えっと……」

(やばい……なんの口実も思いつかない)

「……来い」

呆気のとられた葉月ちゃんと周りの社員をよそに、私はあっという間に食堂の外に連れて行かれる。

そのまま会議室に入ると、不機嫌そうな顔を向けられた。

「なぜ避けた?」

「別に、避けてなんていませんよ……」

「じゃあ、なんで俺を見て食堂を出て行こうとした? まだ食事の最中だったと見受けられたが?」

「か、仮眠をとりたかったので……」

「ふんっ、往生際の悪い女だな」

「なっ……! 心外です! 私がいつ往生際の悪いことなんて……!」

(何なの一体。いきなり現れたかと思うと、人を悪者扱いして。御曹司だからって、なんでもかんでも許されるわけじゃないんだから!)

「俺が来た理由が分かるな」

「……はい」

「答えを聞かせてもらおうか」

「今ですか……」

「ああ。言っただろ、あまり待たすなと」

(自分勝手。私の気持ちは無視なわけ?)

苛立つ気持ちを抑えながら、冷静に頭を働かせる。

(彼と結婚すれば、安斎家の縛りから解放され、生活にもゆとりができる。それに、政略結婚だったとしても、お母さんに花嫁姿を見せてあげることはできるし、孫だって抱かせてあげられるかもしれない。何より、お母さんを病気から助けられるかもしれない。私の願望は叶わなくとも、お母さんにとっては、この結婚は良いことしかない)

彼を一瞥すると、真剣な顔をして私を見ていた。

(ちょっと強引なところはあるけど、そこまで悪い人には見えないし……)

どういう理由でも、救ってくれるというのなら、その手を掴むべきなのかもしれない。

頭一つ分以上ある、背の高い彼を見上げる。

「結婚します。あなたの妻になります」

私は覚悟を決めた。

返事を聞いた彼は、満足そうな笑みを浮かべた。

そして、

「え、ちょ……!」

壁に押しやられ、私は完全に行き場を失った。指先でクイっと顎を持ち上げられ、彼の美しい顔が迫ってくる。

「えっ……や、ちょ……ス、ストーップ……!!」

咄嗟に彼の胸元を押し返す。

「キスくらいで騒ぐなよ」

くすくすとおかしそうに笑う彼。私の反応を楽しんでいるみたいだった。手首を掴まれたかと思うと、手の平にちゅっと音を立て、キスされる。

「っ……」

それだけで、体が痺れるようにゾクゾクする。

「今はこのくらいで勘弁してやるが、夜もそうだと思うなよ」

(よ、夜って……一体何をしようと……)

「仕事が終わったら迎えに行く」

耳元で感じる彼の吐息。もう、心臓がどうにかなりそうだった。

「逃げるなよ」

低く凛とした声にそう言われ、耳が真っ赤に染まる。

速まる鼓動の中、私はとんでもない人との結婚を承諾してしまったのだと思ったが、そう思っても、もう遅い。この言葉通り、私はこの高貴な男から、逃げることはできないのだから。


♧♧♧


就業までの時間、こんなに胸がざわついたことはなかった。きてほしいような、きてほしくないような。時計の針はまだ午後三時を指していた。就業時間まであと三時間もある。午後もお客様対応で忙しい。気を引き締めないと。

「先輩」っと、隣のデスクで仕事をしていた葉月ちゃんに呼ばれる。周りをキョロキョロと見渡し、声を顰める葉月ちゃん。

「さっき、大丈夫でしたか?」

「さっき?……ああ、うん、大丈夫」

「みんな、先輩と副社長が何かあるんじゃないかって、怪しんでますよ」

そういえば、ここに戻ってきてからというもの、やたらと視線を感じる。特に女性社員の視線が。

「ちょっと、仕事のことで聞きたいことがあったみたいで」

「そうなんですか?」

「うん……」

結婚することになったから、葉月ちゃんにも言わないといけないんだろうけど、今はまだ言えない。話がまとまって、ちゃんと説明できるようになったら話そう。

「あっ……雨だ」

ぽつりと呟かれた葉月ちゃんの言葉に、つられるように窓の外を見る。今日の天気予報は晴れだったというのに、予報外れの雨が降る。青かった空を、どんよりとした厚い雲が覆い、ビルの窓を濡らしていく。

(折り畳み傘、持ってきといてよかった)

あの日から、傘は必需品になっていた。もしかしたら、また彼がどこかに。そんなことを思うと、天気予報がどうであっても、傘をバッグに入れてしまっていた。

(……どうしてだろう。もう会うこともないのにな……)


時刻は午後十八時を迎え、みんなが退社していく中、私は何もすることがないのに、パソコンを前に座っていた。

(迎えに来るって言っていたけど、まさか、ここに来るわけじゃないよね……)

そんなことされたら、明日からのみんなの視線が痛い。そう思うと、パソコンの電源を切り、鞄を持って早々にデスクを後にしていた。

役員である副社長が、自分たちと同じ出入り口を使っていないことは知っていたけど、どこにいたらいいのか分からず、エントランスで右往左往する。

(ここにいても人の目につく。人気のないところと言えば、地上の駐車場かな)

うちの社員は交通機関を使っている人がほとんどだから、地上の駐車場には人がいなはず。

移動したところで、携帯電話が鳴った。

(誰だろう……)

画面に名前は表示されていなかったけど、携帯電話からの発信のようだった。

[……もしもし]

[今どこにいる?]

低く凛とした声が、電話越しから聞こえた。

「えっ……」

(副社長……!?)

「えっと、地上の駐車場にいます」

[地上の駐車場?……]

いかにも、なんでそんなところにいるのだと言いたげな声だった。

[分かった。すぐに行くから、そこを動くなよ]

「はい」

[あと、俺の携帯番号登録しとけ。どうせまだしてないんだろ]

「あ、はい……って、副社長、なんで私の番号」

[俺はこの会社の役員だ。知れないわけないだろ]

言われてみればそうだ。というか、あの時、携帯番号が書かれた名刺をもらっていたんだった。始めから電話をかければよかったんだと思う。

(……副社長、電話の声もかっこいいかも……って何を思っているんだ私は!)

それから、すぐに副社長がやって来た。走ってきてくれたのか、肩で息をしていた。

「営業課に行ったら、君の姿がなかったから、どこに行ったのかと思った」

やっぱり、あそこまで来るつもりだったんだ。外に来て正解だった。

「すいません、あまり人目につかない方がいいと思いまして」

「なぜだ?」

眉間に皺を寄せ、言ってる意味が分からないという顔をする副社長。

「なぜって……噂を立てられてもですし」

「結婚するのにか?」

「そうですけど、あまり騒がれたくないので」

副社長とのことがバレたら、私まで注目されることになる。それは避けたい。

(副社長だって、私とのこと、騒がれたくないだろうし……)

「俺は別にいいけどな」

「……えっ?」

「なんでもない……地下駐車上に車を停めてある。行くぞ」

「あっ、待って下さいよ……!」

歩き出す彼に続いて行こうとすると、ポツンと、頬に何かが触れた。

(あっ……また降ってきた)

先程まで止んでいた雨が、また降ってきた。

「私、折り畳み傘持ってます」

「今日の予報は晴れだっただろ」

「そうなんですけど、傘はいつも鞄の中に入れてあるんです」

傘を取り出し、広げる。

「貸せ。俺が持った方がいいだろ」

「ありがとうございます」

身長が高い彼が持った傘は、私から見れば、空に届いてしまいそうだった。

「聞いてもいいか」

「はい?」

「毎日、傘を持ち歩く理由はなんだ」

「それは……」

この話を誰かにするのは、初めてだった。

「昔、雨の中、繁華街の路地裏で座り込んでいる男性に、傘を差し出したことがあるんです」

あの日、見た彼には、目には見えない傷が存在しているように思えた。それはとても深い傷で、少しでも触れ方を間違ってしまえば、ガラスのように粉々に壊れてしまいそうだった。だから、思わず声をかけてしまったんだ。

「その男性が、またどこかで座り込んでいないかな、なんてこと思ってしまって」

自分でも可笑しくて、笑ってしまう。

「変ですよね。もう十年も前のことなのに、忘れられないんです……」

「……その男に、キスをされたからとか?」

「え……」

その言葉に、足が止まった__。

「なんで、それを……」

「本当に俺が誰か分からないのか」

鷹の瞳が、鋭く光った。

「何言って……」

「じゃあ、思い出させるまでだ」

傘が地面に落ちたかと思うと、少し乱暴に両手で頬を包まれる。

「んっ……!」

唇を塞ぐように深いキスをされる。角度を変え、何度も奪われる唇。無理やり口の中をこじ開けられたかと思うと、舌を絡められる。

「んあっ……」

息をすることもままならず、苦しくて思わず彼の腕を掴むも、キスはどんどん濃厚になっていく。立っていることができなくなり、膝から崩れ落ちそうになった私の腰に、彼の力強い腕が回る。

「これで分かっただろ」

「……副社長が、あの時の……?」

「そうだ。俺はあの日から、ずっと君を愛していた__」


握られた手を振り払うことも出来ず、連れて行かれるがまま、彼の部屋を訪れた。玄関のドアが閉められれば、そこはもう二人きりの空間。

「……」

「……」

「……上がってくれ」

「は、はい……」

廊下を抜けた先にあったのは、ガラス張りになった、広すぎるリビングルームだった。引き寄せられるように窓辺に立ち、見えた景色に、思わず感歎嘆の息を漏らした。

「気に入ったか?」

「はい……すごいです」

こんな風に街を見下ろすことが出来るなんて、彼が手に入れられないものはないのだろう。

すぐ後ろから感じる気配に、静かに息を潜めた。私の頭上、窓に片腕をつけ、私を見下ろす彼。あと一歩でも近づいてしまえば、私は彼の胸の中だ。

タワーマンションの最上階から一望できる夜景に、意識を集中させようとするも、うるさく鳴り響く心臓がそうさせてくれない。再会しただけでも驚いているのに、あの時の男性が副社長だったなんて、もっと驚いた。

指先で自分の唇に触れ、思い返す。

(同じ感覚だった。あの雨の日のキスは、よく覚えているから間違いない)

キスが、彼だと教えてくれた。

ゆっくりと首だけ後ろに向け見上げると、熱帯びた彼の瞳と目が合った。スッと、彼のしなやかな長い人差し指が、私の唇をなぞった。近づく唇。感じる吐息。うるさいくらいに鳴り響く鼓動。私は目を瞑った。だけど__。

(あれ……)

重ならない唇に、不思議に思い目を開けると。

「……違うよな」

(……え?)

私から離れていく彼。

「副社長……」

(違うって、何が……)

もしかして、やっぱり私なんかじゃ、相手にならないって思ったのだろうか。

「はあ……」

そのため息が酷く胸にのしかかる。

「風呂……先に入った方がいい」

そう言うと、副社長はバスルームの説明を初め、着替えを渡してきた。言われるがまま、私は沈むようにお風呂に浸かった。

(帰されるわけじゃない)

あのまま、抱かれてしまうのかと思ったけど、どうも副社長の様子がおかしかった。

(本当に、どうしたんだろう……)

お風呂から上がると、着替えた彼がソファーに腰を下ろしていた。

「お風呂ありがとうございました」

「……ああ」

「副社長も、入られた方が」

「俺はいい。それより、話がしたいんだ」

隣にくるように促され、私は彼の隣に腰を下ろした。

「話、というのは?」

副社長は一呼吸置くと、伏せていた視線を私に向けた。

「俺の過去について__」


♧♧♧


自分が他者とは違う存在だと気づいたのは、まだ片手で年齢を数えられる頃だった。父に連れられてやって来たパーティーで、自分を見た大人達は「後継者」という言葉を口にした。

「父さん、後継者って何?」

そう問いかけた俺に、父は会場を見渡し、

「お前は将来、私の後を継ぎ、ここにいる人間全員のトップになるのだ」

そう言われ、最初は子供ながらに、責任感と似たような思いを持ったのだと思う。曽祖父の代から続く家業を継ぎ、企業のトップとして、一家の家長として父が見せる背中は勇ましく、憧れていた。

でも、ある時、気づいてしまった。

みんなが見ているのは俺ではなく、宝月家だということを。優しい大人も、親しい友人も、好きだと言う女も、みんな俺を見てなんてなかった。それから、父に期待されればされるほどに、周りの大人達に気を遣われるほどに、ただ息苦しいだけだった。恵まれた環境。約束された将来。地位も金も、全てがここにあるというのに、俺は幸せを感じられなかった。いつも孤独で、出口のない暗いトンネルを彷徨っている気分だった。

そんな俺を支えてくれたのが母だった。

大企業の娘だった母は、幼馴染であった父と政略的でもありながら、恋愛結婚をした。強く、優しく、美しい母は、いつだって俺の良き理解者で、一番の味方だった。二言目には、「後継者なんてやめてしまえ」一目も気にせず、大声でそう笑う母の姿は俺の支えであり、希望そのもの。

「あなたには、自分の道を歩く権利がある。それは、父さんにも、母さんにも、決めることはできないのよ」

生まれた時から約束された将来。背負う定め。だけど、母がいてくれたから、俺は自分を保っていられた。

__だけど、俺が十五の時だった。

「なんだよ、これ……」

目の前にある光景は全て嘘なんだ。きっと自分は今、悪い夢を見ている。俺はそう思わずにはいられなかった。

「……ねえ、母さん起きてよ。目を開けてよ……」

冷たくなった母を前に、俺は溢れ出す涙を止められなかった。母は交通事故に遭い、突然この世を去った。享年三十七歳。美しくも儚く、その温かな生涯を終えた。それからの日々は散々だった。高校には行かず、悪い仲間とつるんで昼夜問わず遊び歩いた。誘われれば気持ちがなくとも、拒むことなく女を抱いた。酒に煙草、クラブやバーに入り浸った。酷い時は警察沙汰になったこともあったが、父が不祥事をなかったことにした。父の権力を前に、俺は自分の無力さを知った。結局はただの坊ちゃん。そんな自分が嫌だったが、今更変われないと思っていた。

もう、どうやって生きたらいいのか分からなくなっていった。

一人、夜の街を彷徨った。酔っ払いに絡まれても、地元の不良集団に殴れても、何も感じなかった。

降り頻る雨の中、繁華街の路地裏で項垂れ、早く母の元に連れていってくれと願った。

そしたら、彼女が現れたんだ。

「大丈夫ですか?」

そう言い、俺に傘を差し出してきた制服姿の少女。見上げた先にいた彼女は、真っ直ぐに、俺を見ていた。体は俺よりも小さく、背だって低い。それなのに、なんて芯のある強い瞳をしているのだろうか。全てがモノクロに見えていた世界。だけど、

「……ごめん……ありがとう」

そう言った次には、彼女の腕を引き、その唇に口づけをしていた。驚いて硬直してしまった彼女に背を向けて歩き出した時には、止まっていた時間が動き出した気がした。数日経っても、俺の中から彼女が消えることはなかった。そのうち、こう思うようになった。

__彼女に会いたい。っと。

せめて、あの時の礼が言いたかった。分かっているのは、名家の令嬢がこぞって通うと言われている女子校の制服を着ていたということと、胸ポケットに書かれていた文字が【ANZAI】と言うことだけ。俺は彼女を探した。そして、彼女が安斎という、旧華族の令嬢だということが分かった。しかし、母親が愛人だということで、あまり良い扱いはされていないようだった。自分を救ってくれた彼女が幸せではないと知った時、俺は無性に苛立ちを覚えた。今思えば、この時からすでに彼女を愛していたのだと思う。令嬢である彼女に近づくことは簡単ではない。だが、腐っても俺は宝月の人間。彼女に会うため、父に頭を下げた。もう一度、後継者にしてほしいと。追い返されるのは覚悟の上だった。あれだけ好き勝手に生きてきたのだから。だが、引くつもりはなかった。父は少しの間を開けると、俺を見据えた。そして、こう問いかけてきた。

「覚悟はできたか」

俺は静かに頷いた。

そして、二年前、偶然にも彼女に再会した。

「副社長。こちら、今年入社した、営業事務の伊藤さんです」

「伊藤椿と申します」

大人になった彼女は、あの頃よりも美しく、強い信念を持った女性に成長していた。当時の営業部長を介して挨拶をしてきた彼女。その芯の強そうな真っ直ぐな瞳を見て、すぐにあの時の少女だと分かった。彼女は、俺があの時の男だということは気づいていなかったが、無理もないと思った。何せ今の俺とあの時の俺は、比べものにならないくらい異なるから。礼を言えればいいと思っていた。だが、いざ再会してしたら、彼女が欲しくなってしまった。すぐにでも彼女を手に入れたい。自分だけのものにしたい。知らなかった欲望が俺の中で渦巻く。そんな思いとは裏腹に、父から二年間、アメリカへ赴任をするように言われた。これからの宝月ホールディングスにとっては、避けては通れない道。彼女のことを考えれば気は進まなかったが、彼女に見合う男になるためにも、俺はアメリカへ行くことにした。二年。たったの二年だ。そう思っていたのに、まさかこの二年で、彼女の人生に大きな悲しみが降り注ぐことになるとは、この時は思いもしなかった。

帰国日だった前日、秘書から彼女の母親が入院していることを聞かされた。それもあまり体調がすぐれないという。すぐに仕事を終わらせ、一日早く帰国し、その足で病院に向かった。そして、再び彼女と会うこととなった。彼女はあの時、同様、俺をただの会社の上司としか認識していなかったが、病気の母親を想うその姿に胸を痛めた。どうにかしてあげたい。そうして思いついたのが、結婚だった。

「始めから、君を愛しているから結婚してほしいと、素直に言えば良かったのかもしれないが、今の状況で過去のことを話せば、余計に混乱させてしまうと思ったんだ。だから、半ば強引でもいいから、結婚しようとした。どんな形でも、どう思われようとも、君を守ることが出来るならそれでよかった……いや本当は違うな」

「……?」

「俺が、君なしじゃ生きられなかったんだ」

「副社長……」

「絶望した人生だった。だけど、あの日、君が傘を差し出してくれたから、俺はこうしていられるんだ……ありがとう」

真っ直ぐに見つめる副社長に、私は首を横に振った。

(この人は、すごく優しくて、誠実で、本当は、とても繊細な人だ」

気がつくと、私は副社長を抱きしめていた。

「私のほうこそ、ありがとうございます」

きっと、私があのキスを忘れられなかったのは、何度もあの日を思い出してしまったのは、副社長だったからだ。

一度そのキスを知ってしまえば、争うことなど出来ない。彼と同じように、私も彼を欲していたのだ。私は彼の熱い胸板に額をくっつけた。それが合図だったかのように、脇と膝裏に腕を差し込まれたかと思うと、ふわりと体が浮き、寝室に連れて行かれる。そっとベッドの上に下ろされると、四つん這いになった彼に見下ろされる。

私の視界が、彼で埋め尽くされる。

「一つだけ、言わせて下さい。あの時の男性が、副社長だと分かって嬉しいです」

「……」

「副社長??」

「お前、煽るのが上手いな」

「そんなつもりは……」

「フッ……」

(笑った……いつもクールな副社長が笑った)

その笑みは、冷徹という言葉からは程遠く、優しかった。

「今から俺のことは隼人と呼べ。いいな?」

「……隼人。…… 好き……」

(胸が、熱い……)

「椿……__好きだ」

彼の首に腕を回すと、甘いキスが落とされる。

この夜、私は感じたこともない幸福に満たされたのだった__。






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