第2話 クールな上司の提案
あの衝撃的な雨の日から、十年が経った。私、伊藤椿(いとう つばき)は、地元の大学を卒業後、大手貿易商会社であるここ、宝月貿易で営業事務として働き始め、今年で二年目になる。営業事務の主な業務は、お客様からの電話対応。他にも発注作業、受注管理などと、表立って働く営業の人に比べれば、地味なことが多いけど、賑やかな場所が苦手は私には向いていると思う。
「伊藤さん」
名前を呼ばれて振り向くと、千賀部長がいた。今日も奥さんからプレゼントされたという、動物のネクタイピンをつけている。
「千賀部長、お疲れ様です」
「お疲れ様です。頼んでいた見積書、出来ていますか?」
「はい、こちらです」
千賀部長は見積書に目を通すと「はい」っと頷いた。
「いつもながら早くて助かります。急なお願いだったのにありがとね」
「いえ」
千賀部長は、物腰が柔らかい穏やかな人。私たち部下がミスをしても、頭ごなしに怒るような人ではない。営業課が和気藹々としているのは、千賀部長のような人がいるからだ。
「そういえば、聞いたかい? 明日ついに、うちの御曹司様がアメリカから帰国するらしい」
(副社長が……)
宝月隼人(ほうづきはやと)金融業や飲食業、ホテル業など幅広く事業を行う、日本企業三本の指に入る大企業、宝月ホールディングスの次期総帥。グループ会社である宝月貿易は、彼が副社長を務める会社でもある。
「伊藤さん、副社長に会ったことは?」
「入社した頃、一度だけご挨拶をした程度です」
私が入社してすぐに、副社長はアメリカへ渡った。日本に帰ってくるのは二年ぶりだ。
「そうだったか。厳しいところもあるけど、根は優しい方だから、きっと伊藤さんもすぐに打ち解けられるよ」
「そうですね」
千賀部長にはそう言ったけど、私は彼が苦手だった。初めて会った時、なぜか彼は私を怪訝そうに私を見てきた。最初は何か粗相をしてしまったのかと思ったけど、考えれば考えるほどに、彼に嫌われるような理由は思い当たらなかった。
(会社では、なるべく会わないよう気をつけよう。私はこの仕事を失うわけにはいかないんだから)
営業組が帰ってくる前に、ミーティングで使う資料を印刷しておかなければならない。デスクを離れ、印刷機の前に立つ。
「ねえ、あのニュース見た?」
「見た見た。びっくりだよね。まさか、愛人の子だったなんて」
どこからともなく聞こえてきた同僚の話に手を止めてしまう。
「私、あの俳優、好きだったんだけどなー。なんか愛人の子ってだけで、見る目変わるわー」
「確かに。なんか不純?って感じするよね」
(不純、か……世の中でも、そんな風に思われるんだな)
『__汚れた血よ』
(ああ……嫌なこと思い出しちゃった)
頭から振り払うようにして、止めていた手を動かした。
♧♧♧
就業時間を告げるチャイムが鳴ると、椅子から立ち上がり、早々に退社する。地下鉄に乗り三つ目の駅で下車。そこから徒歩で五分ほど歩くと、その建物は見える。
病室に行くと、お母さんはベッドの上で上体を起こし、静かに窓の外の景色を眺めていた。
「お母さん」
声をかけると、振り向いたお母さんの表情はパッと華やかになる。
「椿!」
私はベッドの端にあった椅子に腰掛けた。
「毎日、来てくれなくてもいいのに」
「私がお母さんに会いたいから来てるんだよ」
「あら、嬉しいこと言ってくれるじゃない」
「はい」っと、来る前に駅前で買ってきた、お母さんの大好物の水羊羹を渡すと。お母さんは「あら」っと、嬉しそうに紙袋から箱を取り出す。
(また少し、痩せたな……)
病院着を着てベッドの上にいるお母さんは、日に日に衰弱しているような気がした。
(お母さんは明るくて思いやりのある人。それなのに、どうしてお母さんだけが、こんな思いをしないといけないんだろう)
二年前、お母さんの体に悪性の腫瘍が見つかった。手術をしようにも、できた場所が悪く、完全に取り除くのは難しいと言われた。抗がん剤治療を続けるも、大きな回復は見られない。もしかしたら、お母さんはこのまま死んでしまうのではないかと、私は怖くて仕方がなかった。
「りんご、好きでしょ?」
「うん」
隣の方からもらったりんごがあると、お母さんは看護師さんから借りた果物ナイフで、器用にりんごの皮を剥き始めた。
真っ白なお皿に、みずみずしいりんごが並べられていく。
「ねえ、お母さん」
「なに?」
「どうして、お父さんのこと好きになったの?」
「どうしたの急に」
「ちょっと……ふと気になって」
お母さんとは極力、家の話をしないようにしてきた。お母さんにとって、良い気分になることではないから。
お母さんは果物ナイフを置くと、静かに言った。
「寂しそうに見えたから、かな」
「寂しそう……? お父さんが?」
私の問いに「うん」っと、頷くお母さん。
「あなたのお父さんは、名家の跡継ぎとして生まれ、自由に生きることが許されなかった」
旧華族。明治時代から戦後まであった日本の貴族制度。私の実のお父さんは、その旧華族である安斎家の当主。そして、私はお父さんと、その愛人であったお母さんの間に生まれた。
「地位と引き換えにあったのは孤独。そんな彼を、私は一人にできなかった……でも、同情なんかじゃないわよ。彼の隣は、いつも居心地が良かったの」
お父さんは、本妻との間に子供ができなかったことから、私を正式な子として安斎家に迎え入れた。だけど、使用人を含めた一族の人間は、良い顔をしなかった。純潔ではない私は、周りから汚れた血だと罵られ、愛人であるお母さんは、安斎の屋敷に足を踏み入れることも許されず、私と会えるのも月に一度だけ。成長するにつれて、私はそんな生活に嫌気が差して、高校を卒業した後は安斎の家を出て、バイトで貯めたお金で一人暮らしを始めた。
「一緒にいたかった。だけど、お母さんは一般家庭の出だったし、身分違いだったのよ。お父さんもおじいちゃんに逆らえなくてね。せめてもと思って、お母さんを愛人とした」
「でも、そんなのお父さんの勝手だよ」
私はお父さんが憎い。治療費は払ったとしても、お見舞いにすら一度も来たことがない。お母さんの気持ちなんて、全然考えてない。
「お母さんはいいのよ。どんな関係でも、お父さんと繋がっていたかったから。でも……あなたには苦労をかけてしまったわね」
お母さんは、絶対にお父さんのことを悪く言わない。どんな思いをしようとも、愛する人の傍にいられたのなら、それは幸せなことだと思っている。そんなお母さんに、娘の私がしてあげられること。せめて、この先は少しでも、温かな日々を過ごしてほしい。
すっかり細くなってしまったお母さんの手を取り握る。
「お母さん、もう少しだけ待ってね。もう少ししたら、一緒に暮らせる。安斎の家からの援助なんて受けずに、二人で生きていこう」
「うん……ありがとう椿」
お母さんが心から笑える日々を、私が作ってみせるんだ。
売店から戻ると、何やら病室の前に人だかりができていた。一瞬、お母さんの容体が急変したのかと焦ったけど、どうやらそういうことではないらしい。なぜなら、女性たちが色めき立っていた。
「どうかしたんですか?」
近くにいた看護師に話しかけると、ぐいっと腕を掴まれた。
「あなた、あの方とどういうご関係??」
「え? 誰のことですか?」
「ほら、あそこ!」
そう言われ、彼女の視線の先を追うと、そこには端正な顔立ちをした、一人の男性がいた。お母さんは、男性と楽しそうに談笑している。品のある佇まいに、見るからに高そうなスーツをスタイルよく着こなしている。言われなくとも、彼が上流階級の人間であることは明白だった。
(あの横顔、どこかで見た気が……)
「椿!」
名前を呼ばれ体をビクつかせる。私に気づいたお母さんが、病室の中に入るように言ってきた。女性たちの鋭い視線を受けながら、私は顔を俯かせ、渋々、病室の中に入り、男性がいる正面の位置に立った。
「こちら、宝月隼人さんよ」
「えっ……」
その名前に、思わず顔を上げた。
(嘘……!)
それは紛れもなく、あの宝月隼人だった。
(どうして、副社長がここに? なんでお母さんの病室にいるの?? というか、帰国は明日のはずじゃ……)
私は何が何だか分からず、混乱した。
「あなたが勤める会社の副社長をされている方なんですってね。入院しているのを知って、わざわざお見舞いに来てくださったのよ」
ご丁寧に花束まで持ってきてくれたようで、お母さんは嬉しそうに胸に花束を抱えていた。
(一体、何がどうなって……)
「あ、あの……」
「お母様」
低く、凛とした声に遮られる。
「少し、椿さんと二人でお話してもよろしいでしょうか?」
「ええ、もちろんよ」
彼の問いに、お母さんはにっこりと笑って答える。
何を考えているのか読み取れない視線が、私に向けられる。
「……」
「……」
そして、彼はそのまま病室を出ていった。
(……付いて来いってことだよね)
彼の後を追い、私は一階のカフェテリアへ移動した。
「コーヒーは飲めるか?」
「あ、はい……」
改めて目にした彼は、この世のものとは思えないほどに美しかった。
(特にこの瞳……)
色素の薄い金色ぽい瞳は、鷹のように鋭くも気高かった。
じっと見入ってしまっていると、ふとこちらを向いた彼と目が合った。
「きょ、今日は、わざわざすいません……ありがとうございます」
(どうしよう……まともに見れない)
運ばれてきたコーヒーに口をつける彼。カチャッっと、カップをシーサーの上に置いただけの小さな音が、胸に響く。
「今日、ここに来たのは。もう一つ理由がある」
「……?」
(何を言われるんだろう。まさか、会社を辞めさせられたり……)
膝の上に置いていた両手をギュッと握り、ゴクリと唾を飲み込む。
そして、彼は信じられないことを口にした。
「俺の妻になってくれないか」
「……はい?」
(今、なんて言ったの……?)
「聞こえなかったのか? 妻になってほしいと言ったんだ」
(妻……? この人は、いきなり何を言っているの?)
私の戸惑いなどに気づきもせずに、彼は話を進めていく。
「この歳になると、結婚はまだかと、孫の顔が見たいだとか色々とうるさく言われる。一人息子であることから、父も心配していて、迷惑をかけてきた分、安心させたいと思っている」
「……失礼ですが、副社長はおいくつですか?」
「今年で二十八になる」
「えっ!」
思わず出てしまった声に、慌てて口を塞ぐ。
「なんだ? もっと老けて見えたか?」
「い、いえ……」
(大人びている雰囲気があったから、てっきり三十にはなっているかと……)
「でも、だからと言って、どうして私なんですか……?」
副社長のような人だったら選び放題なのに、綺麗なわけでもスタイルがいいわけでもない、いかにも普通という言葉が似合う私を選ぶなんて。
「君は、旧華族、安斎家の令嬢だろ?」
「えっ……」
(なんで、それを……)
私が安斎の娘であることは会社には言っていないし、誰にも話していない。面倒事を避けたくて、わざわざ母方の姓である伊藤を名乗っているのに、どうして彼がそれを知っているのか。
「どうして、副社長がそのことをご存知なんですか?」
「調べたからだ」
(調べた?……なんでそんな必要が)
すると、副社長は苦しそうに顔を歪めた。それは、彼の印象からは想像つかないように、苦渋に満ちた表情だった。
「お母さんに聞いたよ。……あまり、体調が良くないって」
(お母さん、病気のこと副社長に話したの……? というか、なんで副社長がそんな心配を……他人事のはずでしょ?)
「君が俺と結婚してくれたら、お母さんの医療費は工面する。無論、安斎からの援助を受けなくて済む」
(__ああ……そういうことね。これは、互いの利益のためのもの)
つまり、政略結婚。この人は、旧華族の血を引く私をお飾りの妻にして、後継ぎとなる子供がほしいだけ。
(私ってば、馬鹿だな)
彼が、お母さんのことを、まるで自分のことのように苦しそうにするものだから、私は淡い期待をしてしまった。もしかしたら彼が、自分を大切に思ってくれえているかもなどと。冷静に考えてみれば、彼のような高貴な存在が、私自身などを好きになるはずがない。汚れた血も持つと言われたを。
「少し、考えさせてくれませんか」
「分かった。だが、あまり待たせてくれるなよ? それはもう十分だ」
(……どう言う意味?)
テーブルの上に携帯番号が書かれた名刺を置き「連絡をくれ」と言い、彼はカフェテリアを出て行こうとする。遠ざかってゆくその背中を見て、なぜか、あの雨の日の光景がフラッシュバックした。
(……まさか、ね……)
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