1-3


 翌日、昼。

 昨日言ったことを曲げる気はないようで、朝から乗り込んだ自動車の中の空気は非常に重かった。運転の交代は一時間程度で、と決めることはできたがそれ以外は必要最低限の「休憩取りますか?」「そうね」というやり取りしかしていない。途中で久家は耐え切れず自動車の窓をわずかに開けたが、それで軽くなる空気ではない。

「あの、訊いてもいいですか?」

「答えるかは内容によるけど」

 久家の仕掛けた雑談を完全に無視することはない。それが唯一の救いだなあ、と思いながら久家は話を続けた。

「徳永先輩はどうして〈アンダーライン〉に入ったんですか?」

「答えたくないから言わない」

 それにそういう質問は入隊試験受ける前に訊くものでしょ、と徳永は一刀両断した。これにも答えてはくれないか、と久家は内心がっかりしながら、自動車の車線を変更した。その瞬間、車内の無線がザザッと音をたてた。

『――本部より〈イータ〉巡回チームへ。南五西六にて刃物による傷害事件が発生。被疑者はその場から逃走した。至急現場に向かってほしい』

「了解です。徳永、久家向かいます」

 久家は現場をナビの画面で確認し、次の信号で左、とつぶやきながら変更した車線を元に戻した。

 

 【住】地区七番街〈イータ〉は商業施設が建ち並ぶ地区だ。人手が多い場所のため、軽微なものから重大なものまで日常的に事件が起きやすい場所である。揉め事の延長線で刃物が出たのだろうと予想をしたが、通りすがりにバッグと手などを切りつけられた、という通り魔的犯行だった。被害にあったのは女性ばかりであり、大人しそうな見た目と服装をしていた。反撃をしなさそうな見た目の人間をきちんと選んでいるところに徳永は怒りを覚えた。

「救急が来るまでに応急処置をします」

 犯人は既に逃走しているため、優先すべきは彼女たちの手当だ。幸い切りつけられた箇所は急所ではなく、出血量も多くない。きちんと治療をすれば傷跡もキレイに消えるだろう、と予測された。しかし、突然理由なく誰かの暴力を受けたことによる恐怖はこれからずっと彼女たちを蝕む。

「……」

「何、言いたいことがあるならちゃんと言いなさい」

 徳永は自動車に積んである救急箱から消毒液と包帯を出しながら言った。

「意外と優しいんだな、と思いまして……いや、怖いですよ睨まないでください」

「命に関わらないならかすり傷、とか思っているかもしれないけど、放置するとばかにならないのよ」

 テキパキと応急処置を済ませ、徳永はしゃがんだまま女性たちに向き直った。

「救急が来るまでに簡単に被害状況の確認をさせてください」

「突然でしたし一瞬だったから、よく覚えてないんですけど……」

 そう言って話し始めた女性に徳永は「大丈夫ですよ、わかる範囲でいいですから」と優しく声をかけ、イエスノーで答えられる質問に切り替えた。

「男でしたか」

「それは、うん、そうですね。男の人だったと思います」

「私もそう思います」

 自分たちより背が高い男性で体格がよく見えた、と口々に女性たちは言った。

「若かったですか? それとも中年? もっと年上?」

「うーん、そこまではちょっと。黒いマスクで顔はよく見えませんでした。逃げるときの足も速かったと思うから、若い方だと思います」

 女性の一人はハイヒールまで入れて一七〇㎝くらいあったが、それでも男の背が高い、と言った。そこから推測するに、加害者一八〇~一九〇㎝くらいの長身で体格もいい男性ということになる。

 そこまで聞いたところで救急の到着を知らせるサイレンが聞こえてきた。徳永は立ち上がって地面についていた膝を軽く手で払った。

「ありがとうございます。あとはこちらで引き受けますが、連絡先とお名前をうかがってもよろしいですか? 被疑者確保の際にはご連絡いたします」

 加害者本人であるかを被害者である彼女たちに確認してもらう必要がある。被害者の時間と手間ばかり増やして申し訳ない、と徳永は思うが徳永自身にはどうしようもないことだった。今日これ以上彼女たちから情報は出ないだろう、と判断した徳永は女性から連絡先を聞き出して、後を救急に引き継いだ。


 救急に女性たちを引き渡し、久家と徳永は付近の商業ビルに設置された監視カメラ映像の確認をしていた。幸いにも死角になっておらず、犯行の瞬間はしっかり映っていた。最初の一人をきっかけに周囲の女性二人が巻き込まれた、という時系列だった。

「顔も映ってます」

 不鮮明ではあるが、監視カメラに顔を向けている瞬間があった。静止画を切り出して鮮明化すればすぐにでも顔はわかるだろう。そして、逃走の方向も判明していたため、付近一帯の監視カメラ映像も集めてきた。職務質問をかけられるように増員を本部へ依頼したため、捕まるのは時間の問題だった。

「そうだね。戻って映像解析室使うよ」

 徳永はカメラの映像のコピーをもらうと久家に声をかけた。

「映像解析室?」

「そう。こういうのもらって解析するための部屋。よく使うことになるだろうから使い方も教える」

「ありがとうございます」

 戻るよ、と徳永に声をかけられて二人は自動車を停めている場所に向けてビルを出て歩き出した。

「ん?」

 すぐ近くの店のショーウインドウの前に先ほど監視カメラで見たばかりの男がいた。久家は少し目を細めつつ、指をさす。

「徳永さん、あれ見てください、あそこの人、さっき見た人に似てませんか」

「似てる……けど、確証は持てない。早期解決のためにも一回戻るよ。逃走経路の割り出しと画像の鮮明化が先」

 職務質問をかけるだけならロスにならないだろう、と久家は言ったが、徳永は首を縦に振らなかった。久家もそれなら、と対応を切り替える。

「質問するだけですって。ちょっと行ってきます」

「あ、ちょっと!」

 徳永の制止を振り切って、久家は青信号が点灯している横断歩道をひょいひょいと歩いて道路の反対へ渡った。しかし、店の正面入り口に久家がたどり着くよりも早く、中の男が久家――というよりは彼の腕章に気がついたようで慌てて走り出した。

「あ、お兄さんちょっと止まって!」

 男は久家の言葉を聞き入れず、猛然と久家に向かって走ってきた。手には刃渡り一〇㎝ほどの刃物が握られている。

「え⁈」

 久家も男が逃走ではなく抵抗の姿勢を見せてくるとは思わず動揺する。予想外の動きに咄嗟の判断ができず、久家は男の全力のタックルをくらった。体格のいい男の助走付きのタックルを比較的小柄で細身の久家が受け止めきれるはずもなく、あっけなくその場に尻もちをついた。

「いってえ……!」

 久家が尻の痛みに悶えていたが、男が逃走するわけでもなく再び久家に向かってきた。慌てて立ち上がるが男は既に久家を傷つけられる間合いに入っており、顔をかばって上げた右腕に痛みが走った。

「久家、伏せて!」

 徳永の鋭い声がして、久家は素直にその場にしゃがみこんだ。久家の上をひらり、と徳永が超えていき、男に強烈な蹴りが入ったのが見えた。徳永はそのまま男を地面に倒すと、右手から刃物を叩き落して手錠をかけた。

「すげー……」

 〈アンダーライン〉で働いているとはいえ性別差も体格差もある男を華麗な一発で逮捕できるなんて、と久家は徳永の能力の高さに素直に感動していた。自分が男にパワーで押し負けてしまったことも感動の後押しをしている。

 徳永は久家が軽傷であることを目視で確認すると端末を使って本部に連絡をした。

「〈イータ〉巡回チームから本部へ。被疑者と思われる男を確保しました。応援部隊に南五西六へ直行するよう指示してください。それと久家隊員が確保の際に負傷しましたので、治療をしてから戻ります」

 徳永は増員要請によって近くまで来ていた応援部隊に男を引き渡すと、久家の前に仁王立ちした。

「私は規律を守らないバカが嫌いって昨日言ったばかりだと思ったけど?」

「……心配はないんですか、心配は」

 犯人確保を第一に考えた結果だったが、なぜ怒られているのだろう、と久家は不満に思った。しかし、そのまま口に出せば徳永の怒りの火に油を注ぐことはわかっていたので黙っていた。

「規律破ったバカの心配なんかするわけない……と言いたいところだけど、頭打ってない?」

「もう言ってるじゃないですか。頭は打ってません」

「頭打ってないなら救急搬送しなくても大丈夫か」

 徳永は独り言のように言うと、久家の左手を引っ張って立たせた。

「本部に戻るよ。戻ったら医務室に行くこと。医務室までは救急箱のガーゼでちゃんと傷口を圧迫しておくように」

 しっかり隊長に叱ってもらうつもりだから覚悟しておきなさい、と徳永は久家にきつい口調で言った。


 同日、某時刻。

 本部に戻って医務室で治療を受けた久家を待ち受けていたのは松本と浦志と徳永だった。

「状況は大体徳永から聞いた。怪我の具合は?」

 松本に静かに訊ねられ、久家はおとなしく答えた。

「……右前腕部の切創です。きれいな切り口だけど範囲が広いので縫われました」

「重傷でなくて何よりだ。で、何か言い訳はあるか?」

「いえ」

 言い訳のしようはなかった。単独で動くなと言った松本の言葉を破ったのは久家自身であり、徳永の責任である部分は一つもない。

「徳永は自分の監督不行き届きだと俺に言った。そこについては?」

「……徳永先輩は悪くありません。オレが勝手に動きました」

 久家の答えに松本は苦笑した。相性が悪いかと危惧していたが、互いに不器用なだけだろう。

「なんだかんだ似た者同士だな、二人とも。組んで日も浅いとコミュニケーションのすれ違いもあるだろうから、犯人確保よりも今は二人の意向をそろえることを優先してくれ。今日みたいなことがあると俺たちも肝が冷える」

「……はい」

「たまたま今回は軽傷で済んだが、久家が突き飛ばされた先に尖ったものがあったり、自動車がきたり、人がいたり……なんて状況があり得ないとも言い切れない。初動から刺される可能性だってある。捜査も確保も身体と命がないとできないんだから、大事にしてくれ」

 松本はそこで一度言葉を切ると、徳永も自分の前に立たせて言葉を続けた。

「久家はしばらく徳永の判断と指示に従うこと。徳永は久家の意見に納得できることがあればくんでやること。いいか?」

「はい」

 二人で揃って返事をすると松本は「よし」と満足げに目を細めた。

「だが被疑者確保までできたのはよかった。徳永は持って帰ってきた映像を解析にかけて被疑者と一致するか確認してくれ。久家はここで残って災害手当申請の記入」

「え!」

 自分も捜査に戻れると思い込んでいた久家は声を上げる。

「『え!』じゃないわよ。職務中の怪我は災害。もう、初日から災害手当申請する新人隊員は初めてよ! アタシが教えるからちゃんと記入してね」

「わかりました」

 しょんぼりとしながら久家は浦志に連れられて、作業机へと移動する。その背中に徳永は声をかける。

「終わったら映像解析室に来て。さっき言った解析装置の使い方を教えるからね」

「すみません」

「謝罪はいらないからさっさ書いてきて」

 ほら行った行った、と手を振って徳永はもらってきたデータとともに映像解析室へと移動していった。


 久家が書類を書き終えて映像解析室に顔を出すと、端末を使っていた徳永が「ここだよ」と手を挙げた。

「隊長と副隊長にはちゃんと謝った?」

「はい」

 久家が素直に返事をすると徳永は「よし」とつぶやいた。そしてそのまま表情を変えずに言葉を続ける。

「久家は知らないだろうから簡単に教えておく。隊長がどうしてバディを崩すなって言うか」

「入隊のときに言われたこと以外になんかあるんですか」

 言葉の裏を読むのが苦手な久家は、言われたことをそのままストレートに受け取りがちだ。今のは皮肉なんだよ! と怒っている相手に言われることもままあった。

「こういう組織だからああいう言葉は実体験に裏打ちされてることが多いの。特に松本隊長の場合、それが隊長昇進にも絡んでいるから」

「?」

 不思議そうな顔をした久家に「そりゃわかんないよね」と徳永は苦笑した。

「隊長が隊長になったのは去年の初めからで、就任からまだ一年ちょっとしか経ってない」

「そうなんですか?」

 徳永はただ黙ってうなずき、話を続けた。

「前の第三部隊長は、単独で職務に当たっていたときの負傷がもとで隊長から外れた。だから、隊長はずっと、前の隊長に単独行動をさせたことを悔いている」

 単に危険が伴う組織で仕事をする部下を案じてというだけでない、ということは久家も理解した。しかし、これはこれで松本のエゴではないか、という気持ちがわき上がってきた。

「……隊長のエゴってことですか?」

「もちろんそれもあるよ。ただ、前の隊長は復帰どころか普通の生活を送るのも難しいって言われているらしい。……おそらくパートナーシップ契約を結んだ相手がこんなこと言われるのは、大多数の人が嫌がるって考えたんだと思う」

「パートナーシップ?」

 目を丸くする久家に徳永はうなずいた。

「どういう事情があったのか他の隊だった私は知らないけど、あの二人は法的にパートナーシップ契約を結んでいて、今もその関係は続いてるって聞いた。法的にちゃんと家族なの。だから、松本隊長はなるべく毎日早く帰って、その人に会っている。会える時間が限られているみたいだから」

 まだ誰かと家族になる、という未来を具体的に思い描けない久家はじっと黙って徳永の話を聞くことしかできなかった。

「正直、松本隊長は前の隊長がいたときの方がずっと大らかで優しく見えた。人が一人欠けるってそれくらい影響は大きいんだよ」

 だが、松本の場合はまだ相手が生きている。どんな形であれ、生きていてくれさえすれば心の支えになる。それが徳永にとってはまぶしいくらいに羨ましかったが、その感情をここで吐露することはなかった。

「……いつか、俺にもそれがわかる日が来ちゃうんですかね」

 多かれ少なかれ怪我が避けられない職場だ、というのは久家も入団する前に理解していたつもりだった。しかし、いざ話を聞いてみれば、直接自分の身に起きたことでもないのに寒気がした。氷嚢を固定された右手首が先ほどよりも重たくなったような気もする。久家のつぶやきに徳永は答えた。

「いやでも来る。ただ、それが少しでも先になるように、って隊長が考えていることは理解しておいて」

 ぎゅっとくちびるをかみしめる徳永に、久家は訊ねた。

「――徳永先輩もわかったときがあったんですか」

「……言わない」

「ケチ」

「ケチじゃない。小学生か」

「いいじゃないですか、教えてくれても」

「言わない。いい? あんたも〈アンダーライン〉の一員なら覚えておいて。直截に訊ねて答えてもらえる確率なんて一%以下だから」

 わかった? と念を押されて久家は「はい」と返事をした。徳永は久家を隣に座らせると改めて映像解析室の装置の使い方の説明を始めた。教え方に愛想はなかったが、説明は的確でわかりやすい、と久家は思った。

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