stage.14「おとなりさんだぁ~、やった~! あたし、あかね!」

 茜は慣れた手つきでブラのホックを外すと、青空の体に包帯を巻いていく。熱を帯びた瞳で親身に尽くしてくれることに青空は混乱していた。


「恩返し……? ただお喋りしただけだよ?」


「それが、とっても嬉しかったんです」


 茜は、くるくると繋ぎとめるように包帯を巻きつけていく。少し大袈裟なくらいの白い帯が背中の蛇の目をちょうど覆っていた。ただ、純朴な声音と手つきがよく知るものだと気づき、青空の胸はぽかぽかと温かくなる。


――そうだ。この子は、素直なだけなんだよね。


 茜が持ち上げたゆったりとした病衣びょういに腕を通しながら、青空は小さな溜息をついて彼女の顔を見つめた。


「わたしも心配してたんだよ……? 急に来なくなっちゃったから。もう一年くらい……」


 丁寧に服の紐を結んでいる茜を見ていた青空の目がはっと大きく見開かれる。「よく気付いたね」と言わんばかりに、リンドゥがふわふわと目の前に降り立ちとぐろを巻いた。


「そぉ~、亞獣が地球に現れた時期と同じだよぅ~」


 きゅっと綺麗なちょうちょ結びをした茜は、深呼吸をして青空の瞳をまっすぐに見つめる。


「聞いてくれますか。シンタローに……あたしたちに起こったことを」


 赤毛を揺らす少女は、ほんのりと影がかかった瞳を瞬かせると、胸に手を当て唇をゆっくりと開いた。







 焚貝ふんがい茜は元来、澄み切った海のように素直な少女だった。豪気な漁師の父とおおらかな母の愛を一身に受けて育てられたからだろう。しかしながら、その純粋無垢な振る舞いが周囲を困惑させることも少なくなかった。


「ほら、慎太郎しんたろう。ちゃんと挨拶しなさいっ」


「えぇ!? は……はじめまして……」


「わー! おとなりさんだぁ~、やった~! あたし、あかね! シンタローくんは貝すき?」


 10年前のことである、齢5つで引っ越してきたくれない慎太郎は初対面から呆気にとられる。引っ込み思案だった慎太郎にとって、距離感が限りなく0に近い茜は恐怖でしかなかったのだ。


「か、かい……? えと……アンモナイトって知ってる?」


「なにそれ!? おしえておしえてー!!」


 しかし、これほど踏み込んできてくれる人間はそうそういない。そんな彼女に、慎太郎は徐々に心を惹かれていくのだった。


「シンタロー、あーそーぼー!」

「みてみてシンタロー!」

「おふろいこー! おふろ!」


 一人でいることが多い慎太郎に、茜はいつもくっついて回る。二人は自然と仲が深まり、いつも一緒にいるので幼稚園の先生たちは温かい視線で見守っていた。


「シ・ン・タ・ロ~! 同じクラスだね!!」


 茜の屈託さは小学校に上がってからも変わらず慎太郎を照らし、彼はその天真爛漫な笑顔に胸がドキドキすることに気づき始める。そんな折、小3の校外学習で訪れた遊覧船で事件は起こった。


「ぅう……」

「シンタロー? だいじょう――」

「ぉえええぇぇえっ!!」

「ふぇ……?」


 茜の顔に、慎太郎のお昼ごはんだったものが飛び散る。たちまち充満するツンとした臭気に同級生は、にわかに騒ぎ立てた。


「うわ、慎太郎ゲロ吐いた!」

「茜ちゃん、大丈夫!?」

「ああ! 綺麗なワンピが、ひどい!」

「最低……ゲロ太郎」

「ぶはっ、ゲロ太郎だってよ」


 昨日まで楽しく話していたクラスメイトが、遠巻きに白い目を向ける。慎太郎は自分が取り返しのつかないことをしでかしたのだと、俯き震えていた。恐ろしくて、吐瀉物まみれの幼馴染を見ることができない。


「こら!! そんなこと言っちゃだめでしょ!!」


 担任教師が注意するも焼け石に水。小さな少年を取り囲む非難の暴風雨は収まることはなかった。


「ご……ごめん、なさい…………」


 しかし、ただ一人だけ……


「みんな、何さわいでるの? こんなの平気だよ?」


 茜だけが、きょとんと小首を傾げて笑う。父に連れられて海によく出る彼女にとって、嘔吐は見慣れた当たり前の光景になってしまっていたのだ。


「な……なんで笑って?」


 純粋さゆえの微笑みだったのだが、慎太郎にとっては些か不気味に映るのも無理はなかったのであろう。そして、思わず引きつった慎太郎の顔を見て……


「うっわぁ……茜ちゃんかわいそー」

「気なんか使わなくていいよ」

「ゲロ太郎、まじさいてー」


 生徒たちの勘違いは、最悪な方向へと加速する。


「なんで? シンタローはわるくないよ!」


 当の茜がいくら庇っても、幼いナイフはもう収まることはなかった。ちっぽけな心はズタズタに引き裂かれていく。


「あ……ああぁ……」


「し、シンタロー?」


 その日から慎太郎の地獄が始まった。噂は「ゲロ太郎」というあだ名と共に学校中に知れ渡り、年下からも年上からも奇異の目で見られる毎日。靴がなくなるのはまだ優しかった。聞くのも憚られるようなイジメを耐える日々。


「ねえ、聞いて! 違うの!!」


 当然、茜は必死で説明して回った。しかし、多感な子どもたちにとって事実などどうでもよく、欲しかったのは発散のための口実だったのである。


「もういいよ……ほっといて」

「あっ……シンタロー」


 事態は好転することはなく、二人の心はどんどん離れていった。


「な……なんでぇ……っっ」

「茜は、正直すぎるからかなぁ」


 家に帰り泣きじゃくる娘の頭を撫でて母はそう言う。何もかもが分からなくなっていった茜は、その言葉で正直であることが間違いだと結論付けた。そして、喋り方が挑発的に変貌していく。


「ねぇ~、そういうのダっサ~い! やめたら~?」


 その口調は、いつしか少女の心を守る仮面ペルソナになっていた。だが、そんな話し方では余計に理解を得られるわけもない。事態は悪化する一方だった。


 だが小学5年生になり、慎太郎へのイジメは少なくなる。大人になった、というより大半が飽きただけで、中身が陰湿に変質して続けられていた。茜との関係もヒビが入り崩壊寸前。絶望に打ちひしがれていた、そんなとき……


「ねぇ、知ってる? 宇宙蛇そらへびさまの噂」


 茜は争いを止めた宇宙蛇様の言い伝えを知るのだった。


「宇宙蛇さまなら、もしかしたら!!」


 まさに藁にも縋る思いである。茜は気付くと土砂降りの中を宇宙蛇神社に向かって走っていた。そして……


「んー、こんな雨の日に参拝客~……って、わわっ!? びしょ濡れじゃん!?」


 社務所で巫女の手伝いをしていた青空は、涙で目を腫らして境内にかけ込む少女を見かけて思わず駆け寄る。


「どうしたの!? ええっと……お風呂! とりあえずお風呂入ろ!」


 なぜか青空は、見ず知らずの女の子を抱えて浴室に連れていき一緒に湯船に浸かるのだった。詳しいことは聞かず、ただ一緒に……。先に沈黙に耐えかねたのは茜だった。


「背中の~、かっこいいですね~♡」


「えっ!? ああ……この蛇、本当は見られたくないんだぁ」


「なんでですかぁ~?」


「苛められてたから……かな」


 お湯に顔を半分沈めてぶくぶく苦笑いを浮かべる青空に、茜は目を見開き後悔した。


「あ、ごめんなさ――」

「でもね、幼馴染の男の子が助けてくれたんだ~」


――え?


「すっごく! 嬉しかったなぁ~」


 たったそれだけ、頬に手を当てて首を振る青空の笑顔が、壊れかけていた少女をのである。


――同じだ……なら、あたしと慎太郎も……。


「あ、あの……」

「ふぇ?」

「また来ても……いいですか」


 顔を赤らめて、もじもじと聞く茜に青空は満面の笑みで答える。


「もちろんっ!」


 それから、茜は青空に会いに神社に参拝に来るようになったのだ。慎太郎のことは話さずに、青空と大地の話をひたすらに聞いて心を保っていた。だが、その頃には慎太郎との関係はこじれにこじれ、もはや修復不可能になっていたのである。


 そして1年前、中学2年生の夏、放課後の教室で一人残っていた慎太郎に、茜は意を決して話しかけた。


「シンタロ~? ま~た勉強してるのぉ~?」


「うるさいな……」


「はぁ~? せっかくあたしが……」


「余計なお世話なんだよ!!」


 きっかけなどない。幾重にも積み重なった負の感情が決壊してしまっただけだった。

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