駅員と女(2)

「ところで貴方こそ、その血は大丈夫ですか?」

 女は指さされた場所を見た。確かに右手人差し指の爪の内側に血が付いていた。しかしそれは極々小さなもので、普通の人間であれば気づくはずはない。冬の木枯らしのように冷たい空気が辺りを包む。女も駅員も一歩も動かなかった。だがその緊張の糸は、駅員の言葉でふっと解けた。

「幽霊ですから」

 駅員の足は消えて、女の体をすり抜けた。駅員は女の周囲を飛んだ。説明にもなっていないそれに、追求を諦めた女も冷たい気を発するのを辞める。そして自ら視線を外した。

 女は自分の指先に目を向けて、駅員のことは我関せずという風を装った。それに、構えとでも言うように、駅員は女の二の腕を揉んだ。

 女は口を開きかけて、噤んだ。そして鞄からハンカチを出して、爪の間を擦って拭いた。赤よりも黒に近づいた血がこびり付いた爪の内側を広げるようにハンカチを差し込む。すでに深爪だったものが、より広がっていく。

「辞めた方が良いですよ。それ」

「じゃあ言わせてもらうけど、初対面の女の二の腕を揉むのは辞めた方が良いよ。貴方の方がよっぽど悪質」

 それは確かに、と駅員が胡散臭い笑みを浮かべた。女は駅員に手を伸ばして、それは身体をすり抜ける。自由に自らの身体を決められる。実態も、存在も、行動も。

「良いわね。自由で」

「ここからは出られないですし。生きた人間と話すのは久しぶりですけどね」

 二人の視線が合った。幽霊の温度も実態もない手に、女は手を重ねた。少しだけ瞳が揺れて、目を伏せる。下を向いた睫毛が、僅かな電灯に照らされて光を散らした。

 駅員は動けないでいた。手を実体化することも出来ず、ただ何もせずに黙っていた。霊体となった身体の輪郭は揺れて、足は緑色の外炎のように朧気だった。

「じゃあ、私はタクシーでも捕まえて帰るから」

 女は視線を合わせず踵を返した。駅員はその背中に手を伸ばしかけて、下げた。何を言えば良いのか、ほとほと分からない顔をして。駅員の目から零れた雫は、地面に落ちた。そして吸い込まれることなく消滅していく。緑色の小さな光の玉になって、駅員の外炎から戻っていく。幽霊の身体は、自分自身で完結していて他所に漏れることはない。だから、女が舐めた血が粒子となって戻ってこないことは特大のイレギュラーだった。

 駅員はそれに気づいて、口元を緩めた。人間である女に、似通ったを感じて。

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