1話後に処女を失う男の子
「――胃が、痛い」
リビングの扉が開け放たれるのと同時に、そんな言葉が聞こえてきた。
聞いていても分かるぐらい本当に胃が痛そうな声で、聞いているこちら側も胃が痛くなってしまいそうな声色が、包丁を持っている自分の耳に入ってくる。
「何回も電話をしたし、チャイムをいくら鳴らしても反応がないから勝手に合鍵で入ったが……酷い有り様だな」
何だかとても偉そうな、尊厳と気品を感じさせるような男装の麗人を思わせるような声だった。
「本当に、胃が痛くなる悪臭だ」
それにしても本当に胃が痛そうな声を出すものだったから、それを聞いている私までもが胃がキリキリと痛みだしそうになってくるなと、気配と息を殺して包丁を握りしめながら思いさえした。
「あ。……………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………」
先ほどまで物凄い饒舌であった筈だというのに「あ」という一単語を発した瞬間、何だかとても不味そうな沈黙が訪れる。
「――うぉえ」
そして、いきなりそんな言葉にもならないような一種の悲鳴のようなものが聞こえてきて、自分の背筋が本能的に引き締まる。
何故だろうと考えるまでもなく、答えは勝手にやってきた。
「ぉうえええええええっっっ!!!」
「えっ、ちょ、えぇっ⁉ は、は、は……吐いたぁ⁉」
思わず反射的に包丁を投げ捨てて、近くにあったティッシュペーパーを大量に取り出して、滝のように流れ出るゲロを放出しているのであろう人間の傍に赴く。
男らしい口調で喋っていて、低い声だったから今まで断言できなかったけれど、私の目の前でゲロを吐いているのは同年代ぐらいの少女であった。
しかも、とんでもないレベルの美少女で、そんな人がとんでもないレベルのゲロを吐き出していた。
「おえっ、おえぇぇぇ……! く……! イギリスから直帰してすぐに来たから、久しぶりの日本食を機内で食べた所為で……うぷっ……おろろろろろろろ……! だってイギリスの食事って味気が無くて美味しくなくて……おっ、うっく……ぉうえええ……!」
女性の経験が疎い自分でも分かるぐらいに引き締まった体型はモデル顔負けという言葉が本当に相応しい。
そんな神々しいまでに均整の取れた美しい身体を有する彼女の唇はふんわりとした弾力のある桃色でとても魅力的なのだが、そこから物凄く汚いゲロが勢い良く吐き出されていた。
「だ、大丈夫ですか!? というか誰ですか貴女!?」
そして彼女は純粋な日本人でないからか、ついつい見惚れてしまう程の美しい金髪の持ち主だった。
一目見ただけでも彼女のロングストレートの髪はちゃんと毎日手入れをしているのが見て分かるレベルで輝いていたのだが、その美しい金髪に黄色いゲロが付着している。
黒い喪服のようなコートと、色白な肌に、金色の髪の光に、冷たく輝く蒼い瞳。
それらが相まって、まるで異国の姫のような雰囲気を醸し出している彼女から女の子特有の良い匂いとゲロ特有の酸っぱい臭いをぷんぷんさせてきて、近くにいる人の性欲と嘔吐感を誘惑させてくるかのような香りを放っている。
そんな彼女はゲロを吐いてさえいなければ、迷わずに一目惚れしてしまっていたのではないかと思うレベルの美人で。
そんな彼女は、汚い吐瀉物にまみれながらも、そんな汚物をかき消すぐらいに輝かしいほどに――全力で生きていた。
「あぁ大丈おろろろ……失敬。君があの
「無理して話さないでくださいっ! 吐瀉物が喉に詰まって窒息して死にますよ⁉」
「……おぇ……おぅ……あっ……息……できな……死……死んじゃう……た……す……けて……あ……和奏……わかねぇ……だぁ……さんずのかわで……てを……ふってる……ふふ……あいたかったぁ……そうしき……いけなくて……ごめん、ね……?」
「本当に喉に詰まって死にかけてるじゃありませんかこの人――ッ⁉」
━╋━━━━━━━━━━━━━━━━━╋━
「まさか人様の家で……世話になっていた
――話は数刻前まで遡る。
私は1週間前に交通事故で姉を失って、これからどう生きていけばいいのかと自暴自棄になっていた所に、この家に侵入してきた彼女がいきなり現れた矢先に吐瀉物を吐いて生死の境を彷徨っていたのだ。
そんな彼女に楽な姿勢になるように椅子に座るように勧めると、金髪碧眼の美少女は疲れが溜まっていたのか椅子に座った瞬間に爆睡。
当然ながら、家の中にゲロがあれば片付けをしないといけない訳で、そのついでに前々から腐らせていた食材の片付けを寝ている彼女を起こさないようにした訳なのだ。
「にしても、まさか数時間であの汚部屋がここまで清潔感溢れる空間に変化するとはな。ここまでの変わりようを目の当たりにさせられると、僕は夢を見ていたのではさえ思うよ」
感慨深げに周囲の様子を見渡す彼女だが、確かに彼女が目の当たりにしたあの部屋と今の部屋が同じ空間だなんて、普通の人間では到底考えられないような変貌を遂げていたから仕方ないかもしれない。
そんな彼女に私は彼女と姉の関係性について尋ねてみる事にしてみた。
「僕は彼女の主人だ。
挑発的な視線を向けてくる彼女はそんな事を口にするが、生憎と知人にそのような名前の人間はいない、が。
死んだ姉が利用していた施設の名前となれば話は違ってくる。
「関係あるかどうかは知りませんけれど、確か都内に百合園女学園という女子校があったような」
「ほぅ。よく知っているな」
「死んだ姉が高校生の時に学費免除の特待生として通っていましたので」
百合園女学園。
日本の近代化に合わせて、女性にも男性相応の教養を学ぶ必要があるという理念に基づかれて、大正時代に創立された歴史のある私立の女子校であり、世間で言うところのお嬢様学校。
具体的にどのように運営しているかは詳しくは知らないのだけれども、明治時代から続く大金持ちにして名家である百合園家によって運営されて――。
「――百合園?」
「そうかそうか、君は人の苗字を呼び捨てにするのか」
「――百合園、さん?」
「うん、
なるほど、だからこの部屋の合鍵を持っていた訳なんですか、オーナーさん。
にっこりと花咲くような……人生では絶対に関わらないであろうほどの高嶺の花の正体を知ってしまった私は尚更、どうしてそんな人がこんな場所にやってきたのかが分からずに困惑する他なかった。
「というか、君は和奏の身内だろう。身内が何の仕事をしているのかだなんて知っていて当然だと思っていたのだが」
「恥ずかしながら姉が何の仕事をしているのか教えてくれなくて……もちろん姉が何かしらのバイトをしていたのは知ってはいます。実際、バイトに行く姉の為に毎日弁当を作ってましたし」
「え⁉ あの滅茶苦茶美味しい和奏の弁当を作ってたのキミなの⁉ ……あ、ヤバっ、喋り方間違えた。えっと……こほん。ほぅ、あの美味な弁当は全て君が作っていたのか」
「美味って、もしかしなくても食べました?」
「食べた食べた! 和奏と弁当のおかずの交換は昔からよくしてた! 特にトンカツ好き! あ、でもやっぱ唐揚げかな、うん。というか私、全てのおかずが好き。だけど野菜多くない? おかず全部お肉にしようよお肉」
「…………」
「? どうしたの? そんなきょとんとした顔しちゃって。私なんか変な事しちゃってた?」
「いや、その、喋り方が急に変わった所為で戸惑ってしまって。何なら1人称も僕から私になっているのはどうしてなのかな、って」
「……あっ」
まるでまだ幼い子供のように豹変して美味しいと言葉にしてみせた彼女を前にしてしまった所為で、今までに抱いていた彼女のイメージが急に崩されてしまった私は唖然とした表情を浮かべたまま、その事を指摘すると彼女は恥ずかしそうに赤面をしては、両手で口を覆い隠しては、わざとらしい咳払いをしてみせる。
けれども、両手で咳払いをするのがおかしいという事に気が付いたのであろう彼女はすぐさま両手を離しては、わざとらしい咳払いをしては仕切り直してみせた。
「君の聞き間違いだな。うん。良ければ僕が贔屓にしている耳鼻科を紹介してあげよう。無論、医療費は全額免除にしてあげるから感謝するように」
もしかして、男言葉を話している彼女は演技か何かであって、先ほど見せた子供のようなリアクションをとってみせたのが素の彼女なのだろうか……まぁ、本人が恥ずかしそうだから言及しないでおくけど。
とはいえ、私は知らず知らずのうちに大金持ちで有名な百合園一族の人間を餌付けするのに成功していたようであるらしかった。
まさか姉の為に作った弁当でこんな事になっているだなんて知らなかったし、それに対してどう対応すればいいか分からなかったので、何度目かになるか分からない苦笑を再び彼女に投げかける事にした。
「うん。ともあれ、だ。僕は君が気に入った。あんなに美味しい料理を作れる人間で、顔も僕好み。うん、気に入る要素しかないな」
「はぁ、お気に召したようで何よりです。ところで姉の葬式の時に百合園さんを見た記憶はないのですけれど……?」
間違いなく、彼女は記憶に残る程の美人だ。
しかも、ここは日本なので葬式に参列してくれた人の髪色は基本的に黒色であり、そんな中で参列しようものならば、間違いなく私の記憶に残っている筈だ。
確かに葬式の参列者に金髪の人間はいたが、私の記憶さえ正しければそれは男性だった気がするが……当時の私は色々と忙しすぎて、葬式の記憶なんてあってないようなものでしかないのだが。
「あの日、葬式に参列したのは僕の兄だ。僕も参加したかったのだが、百合園女学園の姉妹校に赴く為にイギリスに行っていた所為で参加が出来なかった。……本当に、葬式に行けなくて申し訳ない」
そう口にした彼女は重々しく頭を下げてみせたので、私は慌てて彼女に頭を上げるように促した。
「葬式に行けなかった詫びという訳ではないのだが、今までの間、君の面倒を見る為に色々と準備をしていたんだ。君に行く宛てがないのなら……まぁ、先約があるようなら別に無理してとは言わないが……どうだろう、君の姉がやっていた仕事を引き継いでみないか?」
「姉の仕事をですか? あの、そもそも私の姉がどういった仕事をしていたかも知らないのですが……教えてください。姉はいったい何の仕事を?」
「メイドだ。君の姉は僕の専属メイドをしてくれていたんだ。君の性分から考えて実に天職だと思うのだが……どうだろう? 君、僕の専属メイドになってはくれないか?」
「――メ、メイドっ⁉ わ、私をですか⁉」
「うん。だって君はとんでもないレベルの美少女だからな。メイド服とか凄く似合うと思うぞ?」
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