2話後に処女を失う男の子
「……なんでまだ生きてるんだろう、私……」
自分1人しかいない部屋を真っ暗にして、死ぬように昼まで寝ていた私はそんな言葉を吐き出す。
布団の中で無気力にもぞもぞと蠢いては寝る前に投げ捨てていたスマホを手にとり、今現在の時刻が平日の13時であるという事を知り、学校を寝過ごした事に気づいたが……どうでもいい。
今の季節が学校があまり忙しくない春の3月とはいえ……いや、もう、どうでもいいか。
自分1人の溜め息だけで満ちた空間というのは予想以上に気が滅入る。
他にもやらないといけない事がまだまだたくさんあるというのに、現実逃避をしたいが為に朝を寝過ごして、学校に行かないまま昼まで寝て、生を貪って、貴重で有限な寿命がどんどん消えていく。
「……後片付け、しないと。この家はもう私たちの家じゃないんだから……」
もう何日も食事をしていない所為で気怠げな身体を責任感だけで叩き起こし、部屋の電気をつけないまま、スマホの光を頼りに自室の机の上に散らばっている紙の資料に目を通す。
――死亡診断書。
――死体検案書。
――死体埋火葬許可証交付申請書。
唯一無二の肉親である姉である
目の前にある紙を破りたくなる衝動を抑え込もうとして、それを抑え込められなかった私は姉の死を否定するように紙を両手で引き裂いてしまった。
「……」
私の唯一無二の肉親である姉は交通事故に遭って即死した。
もうこの世界のどこにも、彼女はいない。
いる方が、おかしい。
姉は死んだのだから、生きていたらおかしい。
「……姉さんの誕生日が、姉さんの命日か……」
不幸中の幸いと言うべきか、姉の葬儀だとか色々な手続きのおかげで将来どうすればいいのかを考える事さえが出来ないぐらいに忙しくて、忙殺された私は自分の未来について深く考える暇が無かった。
だけど、姉さんの遺体が燃え尽きて、墓の中に入れ終わった時……自分の事を、これからの事を考えなくて良い期間が終わってしまった。
いざ考えられる時間を与えられてしまうと、自分の頭で落ち着いて考え事が出来るようになってしまわされると、今度は自分が迷子になってしまったかのようなどうしようもない不安が胸から湧いては襲ってくる。
これからどう生きていくのかいう直視せざるを得ない不安がじわりじわりと、首を真綿で絞めるように、落ち込む私の心情を無視して一方的に、姉と同じように死にたいという思考に誘導させていく。
「
両親は私が3歳の時……12年も前に事故で死んだ。
頼れる親戚なんてこの世のどこにも存在しない。
お世話になっていた孤児院の先生も天寿を迎えて死んで消えていなくなった。
だから、私は姉と一緒に生きてきた。
だけど、もう姉はこの世界にいない。
この3月を過ごし終えれば私は晴れて高校2年生。
その気になれば高校を辞めて1人で生きていくことだって出来なくはない年齢ではある。
「……早く退学届を書いて、働かないと……」
――働くと言っても、どこで?
高卒どころか中卒の自分を拾ってくれるような職場なんてこの現代日本に果たしてあるだろうか。
いや、探せばいくつかあるかもしれないけれど、傲慢にも中卒になる訳がないと慢心し、未来の見通しが甘かった私には生憎とそういう知識に欠けていた。
――そもそも、どうして働くの?
生きる気力もない癖に、死にたがっている癖に、どうして生きる為にやる行いである労働を?
お先真っ暗な未来の身の振り方とどうしようもない矛盾に頭を悩ませると、私の腹の虫が盛大にお腹が空いたと自己主張してくる。
まるでこれから先の未来を考えるなと言わんばかりのこの飢えを、私がまだ生きているという証明を無視して何も食べないで餓死してしまえば楽になれるのではないかと思い至るものの、弱々しく頭を振った。振るしかなかった。
「……元気でいてくれ、ってお願いされたしね……」
姉が自分に対していつも言ってくれた言葉を、もう二度と聞けない言葉を、本人も意図せずに最後に遺したであろう言葉に呪われてしまった私は自分の部屋から出て、キッチンに向かう。
「……くさい……」
まな板の上には、切りかけの食材と包丁が散らばっていた。
姉が交通事故に遭ってしまったという連絡を受けた時のあの日の状態のまま放置されていて、まな板の上にある食材に至っては死体に群がるような虫たちで溢れかえっており、食欲をかき消してしまうほどの汚臭を放っている。
「……1週間近く放置していたら、そうなるか……」
たった1人の家族である姉の誕生日を祝う為だけに料理を作っていた矢先に、大切な姉は交通事故に遭ってしまって死んでしまったという連絡を受けた私は調理の途中だっていうのに、鍵をかける事さえも忘れて姉が搬送されたという病院に一直線に向かった。
「……馬鹿だよね。即死なんだから、急いだところで姉さんの生死が変わる訳ないのに……本当、馬鹿だ」
思えば、姉が死んだ日からまともな食事を採った記憶がない。
冷蔵庫の中にはまだまだ食材はあるのだろうけれど、それらを使って料理をしようだなんて気になれる筈もなく、誰にでも簡単に作れるカップラーメンを作ろうという気概すらも湧いてこない。
「……取り敢えず、冷蔵庫の中から使えそうな食材でも……」
姉が死んでからずっと閉めっぱなしだった冷蔵庫の戸を開けて――無意識的に記憶から消していた爆弾を発見してしまう。
「――ぁ」
賞味期限が1日程度のケーキ。
姉が大好きだった生クリームをふんだんに使用した苺のショートケーキ。
サプライズという名目で自分が勝手に作って、誰も食べなかった誕生日ケーキが、誰にも食べられなかった状態のままでそこにあって、どうしようもない吐き気が襲ってきて、反射的に口を掌で覆い隠す。
「……さい、あく……」
姉がもうどこにもいないという現実を直視するのが
このまま放置していたら誰かがこのケーキを食べてくれるのではないのか、と淡い希望のようなものを抱いていたのだが、そんな事が起こる筈もない。
人間が死んでいくように、ケーキも当たり前のように腐っていく。
作った当初は綺麗であったはずの姉の好物たちも、腐敗が進んだ所為で見る影もない。
姉に食べてもらう為だけに用意した料理が全て無駄になってしまって、このままでは姉に食べ物は大切にしなさいと怒られてしまいそうで。
「……怒られるよなぁ、怒られたいなぁ、もう怒られないんだなぁ……」
厳しくも優しかった姉に怒られる事は二度とない。
「……なんで、死んだの……?」
そんな当たり前の事を思うと、目元がどうしようもないほどに熱くなって、口からは勝手に乾いた笑みがこぼれ出て、次第にその笑みが嗚咽にへと変わっていく。
「……私、これからずっと1人なんだ……ずっと……ずっと……1人……」
姉が生きて帰ってくる筈がないって厭になるほどに自覚しているのに、私は心のどこかで大好きな姉が帰ってくると愚かにも信じている。
死んだ人間が蘇る筈がないという事を両親で知った癖に、今まで親しい人間が何人も死んでいった癖に、私は現実を見れていない。
「……もしも、あの日」
姉が交通事故に遭っていなくて。
姉が帰ってくる瞬間を玄関先で今か今かと待って、姉が家の扉を開けた瞬間に大量に買っておいたクラッカーを鳴らせていたら。
唯一無二の家族と一緒に食事が出来ていたのなら。
来年以降も祝える筈の姉の誕生日を祝えていたら。
「……?」
――そんな、絶対に起こりもしないであろう『もしも』を夢見た瞬間だった。
がちゃり、と。
鍵を持っていない人間でしか開けない筈であろう音が、待ち望んでいた音が、玄関の方角から聞こえてきた。
「ねえ、さん? 和奏姉さん⁉ おかえ――」
反射的に姉の名前を口にして、私は正気に戻る。
死んだ人間が蘇る筈がない。
であれば、先ほど聞こえてしまった物音の正体は一体何なのか。
「……不審者?」
そんな可能性を口にした瞬間、全身がとんでもないほどの寒気に包まれる。
死んだ人間の名前を葬儀場で確認して、死んだ人間の情報を集めるだけ集めて、死んだ人間の住居に忍び込むという一種の火事場泥棒?
そんな起こって欲しくない『もしも』を想像した瞬間、扉が開かれる音が私の耳に否応なしに入ってくる。
当たり前の話になるけれど、この現代社会において扉が勝手に開かれるだなんていう怪奇現象は起こらないし、ここの賃貸住宅の扉は自動で開け閉めされるようにも出来てもいないし、合鍵を渡せるぐらいに親しい人物なんてもうこの世には何処にもいない。
自分の知らない誰かがこの一室に無断で侵入してきたのは、明白だった。
「ひっ……⁉」
恐怖の感情を一方的に叩きつけられて頭の中が真っ白になっていた矢先、その誰かが玄関の扉が閉めた音で皮肉にも我を取り戻す。
私は若干戸惑いながらも、腐った食材が乗っているまな板の近くで放り捨てられていた包丁をお守りのように胸の中で抱えて、自分の存在を不審者に感知されないように息を殺して、部屋の隅に隠れる。
いくら人を傷つけられる包丁を持っていたとしても、それを人に向けるのは当然怖いし、人を傷つけようとして人に傷つけられるのも当然ながら嫌だ。
だから、何も起こってほしくないと願うしかなかった。
だけど、リビングの扉は開かれた。
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