第六章 脱出
「ハァ、ハァ…」
廃れた路地に響くのは、自分の発する呼吸音のみ。視界がかすれてきた。ずっと走り続けているために酸素が足らなくなっているのだということは、私自身が一番良くわかっていたけれど、立ち止まろうという考えには至らなかった。止まったが最後、もう二度とこんなチャンスはめぐってこないであろうという思いが、私を走らせ続けていた。
富裕層用の踊り子として連れてこられた私は、毎日毎日休む暇なく踊った。他にも踊り子なんていくらでもいたけれど、私は特別な存在らしかった。私はロゼットという一族の血を受け継いでいる。白い肌、ピンクの髪とエメラルドの目という、ロゼットの特徴を濃く受け継いだ私は、幼いころから注目され、もてはやされてはいた。でも、その血がこんな運命を呼び寄せるのなら、せめて髪だけでもお父さんのような黒髪でありたかった。そうすれば、こうやって逃げるときだって、もう少し、いやかなり、目立たずに済んだのに。
毎日踊らされていたから、体力には多少の自信があった。だから、ほんの少しでも雇い主の隙をつけたら逃げ出そうと、心に決めていた。それなのに九年間も捕らわれていたのは、相手にまったく隙がなかったためである。目を離すときは鎖でつながれ、客の前でさえも足首にロープを巻かれて、その紐の端は雇い主が握り締めていた。もう一生、籠の中の鳥として生きるしかない―――そう諦めかけていた。だから今晩、食事を運んできた女が私の足の鎖の鍵を落としていったとき、これは幻か夢だと思った。頬をつねってみるとかなり痛くて、恐る恐る触れた鍵はひんやりと冷たかった。そこでようやく、これが現実なのだと理解した私は、静かに鍵を鍵穴に入れて回し、奴隷部屋を抜け出した。そこまでは良かったのだ。でも、この髪の色を見れば、誰でも怪しむ。
「お前、どこの家の女だ。名は」
案の定、屋敷を出てすぐに、見せ物小屋のおじさんに声をかけられてしまった。この男は私の雇い主とたまに酒を酌み交わす仲であることを思い出した。
「その髪、」
おじさんが伸ばしてきた手をくぐりぬけ、ひたすら走る。後ろでは、おじさんが何かを叫ぶ声が聞こえた。じきに雇い主にも私が逃げ出したことが知らされる。それまでにできるだけ遠くに行かなくては。走る、走る。とにかく走る。九年間待ち続けたチャンスを、無駄にするわけにはいかない。もし、再び捕まれば、今までよりも監視が厳しくなるに違いない。そうなれば、もう逃げることは不可能になる。そして…彼に会うことができる可能性はゼロになる。もう一度だけ、彼に会いたい。絶望に沈むあの日の私のそばで、ただ寄り添っていてくれた、一人の男の子に。
細い道を何度も曲がり、気づけば喧騒と私を追う足音は聞こえなくなっていた。逃げ延びた。緊張の糸が切れると、息苦しさが際立った。立っていることすら辛くなり、そばにあった階段に身を潜め腰掛ける。一息ついたとき、突然辺りが明るくなった。空を見上げると、大きな満月が浮かんでいる。月を眺めたのなんて、何年ぶりだろう。九年。その長さを改めて感じたとき、私の緑の瞳からは涙が溢れ、止まらなくなった。
どうしてこんなことになってしまったのだろう。私は月を見つめながら、今までのことを振り返っていた。
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