第四章 森を抜ける間だけ 第6話

「あ、あのさ」

 森に踏み込む直前に上ずった声で話しかけると、ピエロは立ち止まって振り返ってくれた。

「私は、ピエロが好きなのだと思う」

 彼の長いまつげが、上下に揺れた。それでもやはり表情は変わらない。きっと彼にとって私は、同じ一座の者というだけの関係でしかなく、その中でも別段特殊能力がなく踊り子くらいしかできない私は、特に気にするまでもない、はっきり言って取るに足らないどうでもいい存在であろう。それでいいのだ。何かを期待して言ったわけではないのだから。ただ。

「気持ちって、思ったときに言わなきゃ、伝えられなくなってしまうものだから」

 そのとき、一度も変化しなかったピエロの表情が、ほんのわずかに変わった。それは両の瞳がわずかに見開かれるという、本当に些細なことだったけれど、ピエロがしたそれは大きなことのように感じた。彼はなぜか慌てたようにポケットをまさぐり、筆記具を出した。そんな彼の姿もとても珍しい。

『僕は言葉がないから、言いたいことをそのとき言うことができない。だから、伝えられなかった』

 一瞬だけ、私に対してのことかと思ったけれど、すぐにそうではないとわかった。だって、彼の目は私ではない誰かを追いかけているようだったから。

『僕はこんなだから、誰かに好きになってもらうなんて事、絶対にないって思っていた。だから君に好きって言われたとき、実感がわかなかった。でも、すごく、嬉しい』

 落ち着きを取り戻した無表情な顔だったけれど、彼の文字が素直に嬉しかった。

「ありがとう。それだけで十分」

 ピエロはそれ以上、書くことをしなかった。代わりにいつも芸の最後にやるような綺麗なお辞儀をして、私の手をとった。そこに愛情なんて欠片もないことはわかってはいたけれど、その手を振りほどく気は不思議と起こらなかった。どうせこの森を抜けたら、いつも通りの朝が来て、いつも通りの旅が続いて、いつも通りの私たちに戻るのだ。

 悲しいけれど、切なくはない。だってちゃんと、気持ちを伝えることができたのだから。

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