第三章 己の価値 第4話

 ピエロはしばらく何かを書いていた。そして、書き終わった紙を私に渡した。

『僕は旅芸人ゆえに、いろんな場所に行きます。数年前、とても貧しい、ひたすら荒れた大地の広がる村を通り、そこで一晩を明かすことになりました。泊まるところがない場合、僕ら芸奴隷の乗せられる大馬車は長一家の寝床となり、追い出された形の僕らは、一家用の小馬車に押し込められます。ただ、僕は例外です。僕は一番の稼ぎ頭であり、ある程度の我儘は許してもらえます。あまり来たことのない場所でしたから、見てまわることにしました。理由は多分わかっていただけていると思うので、書きません』

 確かに、理由は大体想像することができた。つまりは、♥Qの願いを叶えるため、だろう。

『しばらく歩いていると、大きな畑がありました。この土地では珍しく感じたので、立ち止まって眺めていると、見張り番をしていた男の子に声をかけられました。恐らく、僕が野菜を盗むと思ったのでしょう。僕は彼に尋ねました。何故ここまで畑を大きくすることができたのか、と。彼の答えはこうでした。昔この家の長女が自ら身を売って、多額の貨幣をもたらしてくれたからだ。僕らはまだ幼くて、お姉ちゃんを止めなきゃいけないとわからずに行かせてしまったけれど、そのことをすごく後悔している。あの後、娘を失ったと知った母さんと父さんは、とても悲しみ、僕らを怒った。お姉ちゃんを取り返すことは、今はできないけど、一生懸命お金を貯めて、いつか必ず見つけ出して、また家族全員で暮らす。それが家族全員の願いだ。…この男の子のことを、ご存知ですよね。ちなみにその村の名は、チチカ、だそうです』

 夜風が私の頬をなでると、ひんやりとした冷気に変わった。ピエロの皮肉なほどに綺麗な文字が、ぐにゃりと曲がる。慌てて目をこすると、手にはいくつもの雫がついていた。

「何で暑くのないのに、こんな汗なんか」

『涙、です』

 ……この私が、泣いている?

 最後に泣いたのはいつだったろう。この土地に連れてこられてからは感情を表に出さず、可憐な女を演じ続けてきたし、あの日ですら涙は堪え切った。泣いたって無駄だと気づいたきっかけは、何だったろう。…思い出した。あれは、廃れきったチチカ村に商人が来た日だ。私は妹を背負い、弟たちの手を引いて、栄養などかけらも無い土地を耕していた。彼らは私に声をかけた。私は自らの意思で、彼らの提案に乗った。兄弟たちに背を向け、彼らの元へ一歩を踏み出したとたん、大きな泣き声が私の背中を刺した。

「お姉ちゃん!」

「ねぇーちゃん!」

 口々に私を呼ぶ、兄弟たち。商人の男が、私の腕を強く引っ張った。この無力な兄弟たちが、少しでも楽な暮らしが送れるように。これからは、あんたたちだけでやっていくのだから、そんなめそめそしちゃ、いけないの。しかし、その思いは声にならず、代わりに涙へと変わった。もう、この子達に会うことはない。他人になる。そんな他人のために、自分を…。頭の中では今自分のしていることの残酷さを呪ってみたけれど、やはり足を止める気にならなかった。そのまま馬車に乗り込む。涙なんか、何の意味も無い。泣いたって、生活が楽になるわけじゃないの。だからあんたたちも、泣くのは止めなさい。私はもう、泣かない。

「涙なんか」

 どうして、止まらない。兄弟が、私を待っていてくれたから、それがなんだ。たかが、そんなことで。

『嬉しいときや悲しいときは、泣けばいいのです。泣けるうちに、泣けばいいのです。本当に、涙が出なくなってしまう前に』

 その文字は、何故かすっと、胸の奥のほうに染み込んだ。本当に涙が出なくなったとき、それはどんなときだろう。こんな私でさえ、まだ涙は残っていた。

「貴方は、どうなの」

 小首を傾げてみせるピエロに、もう一度問おうとして、止めた。その問いには、きっと答えることはできないのだ。私だって、ほんの数分前に問われたとすれば、自信を持って涙など出ないと言えたことだろう。この問いに、意味など無いのだ。

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