第三章 己の価値 第2話

 そのとき、子供の逃げた建物の影から、一人の人間が出てきた。あえて人間といったのは、そいつの性別が区別しかねたためだ。大きすぎる服はその体型を隠し、白塗りされた顔は、一切の感情を消していた。そいつの目的は明らかに私で、寸分の狂いなくこちらに近づいてくる。

「何者」

 近くに寄られ、ようやくそいつが男であるとわかったとき、彼はポケットから何かを取り出した。紙と、ペン。

『あなたはシェリーシカ、ですか』

 一瞬、息が詰まりそうになるのを感じた。何でこいつが、私の真名を知っている…。

「私の問いに答えなさい。貴方、何者」

『♦Q、と呼べば、思い出していただけますか。あなたはこの呼び名を嫌っていたけれど』

 一気に、七年ほども前の一夜がフラッシュバックした。薄暗い部屋、まとわされたボロ。泣きじゃくる♣Qに苛立ちを覚えた私は、既に子供が嫌いだった。そんな私は、あの八人の中で一番年上であったはずだけれど、それでもまだ十五かそこらだった。何で私がこんなガキの中に。そう思って端から順に眺めた奴らの中で、たった一人だけ、私と同じ眼をしていた。…この世に信用できるものなど無いと知ってしまった眼。そいつは、結局一度も言葉を発しなかった。

「貴方、だんまりの男ね。未だにしゃべらないわけ」

 そいつは恭しく礼をし『ピエロなもので』と書いた。何がピエロだ。どこの世界に、そんな無表情の道化師がいる。私は、彼が私と同じだということを悟った。

「あなた、無駄だと気づいた感情を捨てたでしょう」

 ピエロはペンを動かそうとはしない。

「ひとつ、ひとつ。そうやって捨てていくうちに、気づくの。感情なんて、無いほうが良いってね」

 まったく表情を変えないピエロに対し、久しぶりに本気の怒りが募った。

「じゃあ、はっきり書けばどうなの!私のことを、恨んでいると!」

 そうだ。こいつは私を恨んでいるはずだ。ずっと封じていた黒い気持ちがせりあがる。あの日、私はこいつの希望をひとつ、奪ったのだ。本当は知ることができたはずの、彼女の名を聞けなくした。何で、あんなことをしたのだろう。とにかく、私はあの女が気に食わなかった。全てを手にし、この世の闇など何も知らない。私と正反対の女が、気に食わなかった。私と同じ眼をしていたはずの男が、光に気づく様が、気に食わなかった。

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