第一章 私は今 第2話

「私は生憎お金に困ってはいないので、あなたに賠償金を支払えとは申しませんわ」

 お嬢様はそう言ってにっこりと微笑む。笑っているはずなのに、私の居る後ろ側まで負のオーラが漂ってきている気がするのは何故だろう。

「ハァ?俺はきちんと真っ直ぐ歩いていたね。ぶつかってきたのは、そっちの女の方さ。グダグダ言わずに早く金を出しな」

「分かって頂けてないようですわね。このままここで話していても埒が明なそうですので、裁判にしませんか」

「裁判!?」

 大男が驚愕する。私だってびっくりだ。

「きちんと法の裁きに従うべきですもの。私は優秀な弁護人と共に、お相手させて頂きますわ。判決がどちらに下るか、楽しみですわね」

 大男がたじろぐ。この国で正当な裁判をしてもらえるのは、一部の限られた人間―――王族や貴族、ゼルドナお嬢様のような大富豪など―――に限る。その他の者は、裁判を受け付けてももらえず、仮にしたとしてもろくに話を聞いてはもらえない。つまり、この場合裁判を起こす以前から大男の負けが決まっているも同然なのだ。

「では、裁判の手続きをしますから、お名前をうかがってもよろしいですか。サロア、紙とペンをお出しして」

 私は慌てて、ポシェットから紙とペンを出そうとした。

「待ってくれ。今よく思い返したら、俺からぶつかったのを思い出した。悪かった、だから裁判は必要ない!」

 顔を上げてみると、真っ青になった大男の姿が目に入った。この国で平民が裁判に負けることは、すなわち死刑を意味している。この大男とて、命が惜しくないわけではないだろう。

 満足げに頷くお嬢様の後ろで、私は複雑な気持ちを抱えたまま、再び俯いた。卑劣な手を使ってでも益を得ようとする行為は勿論褒められたことではない。それでも命を軽く扱われるこの仕打ちを手放しに喜ぶ気にはなれなかった。これがこの国の現状だ。弱いものが虐げられ、強いものが全ての甘い蜜を吸う。そうしてさらなる格差が広がる。

 私も大男と同じ立場だった。あの日までは。だからこそ、大男の気持ちが痛いほどわかってしまった。

「わかっていただければ、それで十分ですわ。それでは、お引取りを」

 大男はお嬢様の一言で、そそくさと帰っていく。帰る場所があるかは、あえて考えない。お嬢様はくるりと、私のほうを振り返った。

「サロア」

「はい、お嬢様」

 怒っている。というか、ものすごい剣幕。

「今回は相手が下人で、しかも簡単に言いくるめられるような馬鹿だったから良かったものを、これが王族の方だったりしたらどうするつもりなの!」

「も、申し訳ありません」

 深々と頭を下げる。

「まったく。次はないからね」

「はい。気をつけます…」

 しかし私は知っている。お嬢様が私を手放すつもりはないということを。実は私が「次はない」とお嬢様に宣言されたのは、これが初めてではないのだ。残念ながら、私は決して良い召使とは言えない。それでもお嬢様が私を置いていてくださるのは、解雇したが最後、私が飢え死にするのが目に見えているからだ。結局、お嬢様は優しいということで話は落ち着く。

「あー。もうショッピングする気が起きなくなっちゃった。帰るわよ」

「かしこまりました」

 再び大荷物を持って歩き出す。数歩歩いて、お嬢様が振り返り手を差し出した。

「荷物、分けなさい。また誰かにぶつかられても私が迷惑だから」

「ありがとうございます」

 やっぱりゼルドナお嬢様は優しい…とか思っていると、「但し、軽いのね、軽いの」と忠告が入った。

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