走らない冬

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走らない冬

 午後四時、銭湯の脱衣所で頭を拭きながら、そういえば瀬名ってどうしてるかな、と思った。首のすわらない扇風機のスイッチを切り、頭にのせていたタオルを肩にかける。モーターの回るような音だけが残った。東京にでてきてから三度目の年の瀬だった。



 ひとけのない商店街を抜けて、駅の反対側にある瀬名のアパートを目指す。電話の一本くらい入れようかと思ったが、携帯を家に置きっぱなしにしてきたことに気づいてやめた。


 街路灯のスピーカーから気の早い正月のBGMが流れている。ぼんやりしていると自分だけが今年に取り残されてしまうような気がした。


 湯冷めしかけた体をダウンジャケットの内側でこすり合わせていると、アパートの戸が開いた。


 二週間ぶりに見る瀬名の頬には、さっきまで居眠りをしていたらしい痕があった。


「どうしたんですか、顔白いですよ」

「とりあえずあがっていい?」


 そう言って戸の隙間に体を割り入れると、瀬名は察したように呆れた目になった。おれの髪が濡れているのに気づいたらしい。


「こんな寒い日に銭湯なんて行くもんじゃないですよ」

「ほっとけ」


 床に足をつけると、さっきまで湯船に浸かっていたとは思えないほどつま先が冷えていた。戸を閉め切ってもどこからか冷気が入りこんでくるのは、おれの家と変わらない。築年数のいった安アパートの宿命である。それにくわえて、この部屋にはエアコンがついていない。



「あもうさんは、今年はこっちにいないものだと思ってました」

「どうして?」鍋を火にかけている瀬名の背中に問う。

「クリスマスの次の日に三船たちと飲もうってなって、僕、あもうさんに電話したんですよ。でも出なかったから。ちがうな、クリスマスの次の次の日だったかな」

「その日は夜勤だったんだ」


 週に三回、新宿のビルの中央管理室でモニターを監視する日雇いのアルバイトをしている。監視といっても、ただぼうっと画質の粗いモニターを眺めているだけだ。もうひとりの当番が見回りから戻ったら、今度はおれが別の棟を巡回する。それをひたすら繰り返し、日の出とともにタイムカードを切る。なにも起きない日がほとんどで、というか実際なにも起きなくて、だけど多分いること自体に意味があるんだろう。求人サイトを見るといつでも新規の募集ページがでてくるから。


「三船たちも、昨日あたり実家に帰っていきました。こっちに残っているのは僕たちくらいじゃないかな。あもうさん、うどんいけます?」

「悪いね。起きてからまだなにも胃に入れてないんだ」

「悪いだなんて思ってないでしょ。みんなして僕のことを炊事係かなんかだと思ってるんだから」


『これまでにない、極上の睡眠体験を提供します・・・・・・』


 テレビ画面に映る敷布団のくすんだ緑の花柄を眺めながら、ひとり暮らしの部屋のお粗末な寝床のことを思う。


 瀬名はマメな男で、だれかの自宅で飲み会があると、きまって台所に立った。年上から可愛がられるタイプだが、気をつかっているのとは微妙にちがって、盛り上がっているときでも平気で帰ったりした。つまらないことでは笑わないし、流されない雰囲気があった。そこが付き合いやすかった。


 瀬名は床に放り投げてある通販カタログをテーブルに移し、そのうえに鍋を置いた。慣れた手つきで味噌汁のお椀に卵とじうどんを分けていく。


「僕の実家はつい最近、父親が再婚したんです。どうやら相手の女性は子連れの人らしいんですけど、妹からは帰ってこなくていいって言われました。本当は顔見せたほうがいいんだろうけど、まあ四月から妹も上京してこっちにでてくるんで。でもそうなると僕、実家という実家がなくなっちゃいますよね」


 瀬名は鍋から視線をそらさず、早口でそう言った。菜箸からおたまに持ち替え、つゆをよそい、おれのまえに置く。彼の口から家族の話を聞くのははじめてだった。鍋から立ち上る湯気で顔が火照るが、背中はうすら寒い。モザイク調の窓に木の影が映っている。からっ風が吹いていた。


「それで、あもうさんは留年回避できそうですか」

「いいや、むしろ危機が迫っていると言っていい」

「ということは、来年ついに僕と学年が並ぶわけですね」

「まだ決まったわけじゃない」すかさずおれがそう言うと、瀬名は「去年の今頃もそんなこと言ってましたよね」と伏し目がちに笑った。


 瀬名はあまりこちらへ視線をよこさない。癖なんだろうが、それをやるときはどこか寂しそうに見える。


「明日、大晦日だし、あもうさんの家で年越し蕎麦でも食います?」

「いやだね」


 一蹴して割り箸を割ると、ちょうど始まったお笑い番組の拍手に瀬名の気の抜けた笑い声が重なった。

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走らない冬 mid @grape_ec

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