第12話 理想の世界

 埼玉県にある秋ヶ瀬取水堰は、三つの洪水吐ゲートと普段使いの一つの調節ゲートからなる4連可動式ゲートを有し、その全長は127メートルにも及び、荒川を端から端まで跨ぐ巨大な堰だ。

 ここで取水される毎秒約65立方メートルの水は、都心へ水を提供する朝霞浄水場、埼玉県で利用される大久保浄水場、そして隅田川の浄化に使われる水として、絶えず水量を管理されながら送り出されている。


 私は滔々と流れゆく荒川と、盛り土がされた広大な河川敷が夕焼けに染まる中、タクシーを降りた。

 平日の夕方、河川敷に人影はない。

 タクシーが去るのを見送り、視線を川へ戻すと、数メートル先に黒猫が座っていた。

 その足元には、狼の像がある。

『よもや、そんな事はあるまいが、念の為に伺っておこうかえ。お前さま、我を止めようと言い出すつもりではあるまい?』

「実験台にするなら、猫一匹くらいで済ませなさい。多くの人を巻き込みすぎよ」

『治験は済んでおる。後は実地見聞のみぞ』

「もしかして、萌の大学に成分分析を依頼したのって…」

『モエ…?あぁ、あの霊体の事か。その話は今は関係ない』

 …違う薬!?

「ちょッ…その薬の効果は!?」

 黒猫の足元、地面の中から不意に人の手が出現した。

「待って、萌ッ」

 白く細い指がカッと開かれ、黒猫の身体を掴み…いや、掴んだかのように見えた。

 しかし、その白い手のひらは、虚しく猫の身体をすり抜けてしまう。

『懲りぬな。カカカッ』

 黒猫は目を細めて笑う。

「まだ、ダメなの…」

 萌は諦めて、地面から姿を現した。

 下唇を噛んで、伏し目がちに私を見る。

 私は額に手を当て、空を仰ぐ…片手は、ショルダーバッグの中のアイスピックを握る。

「あぁ…やっぱりダメだったかぁ〜」

 …という振りをしてから、一気にダッシュ!

 高校野球児の如く、ダイビングヘッドをかました。

 するり…。

 黒猫は私の手を躱して、少し離れたところで止まる。

 口にはしっかり像を咥えている。

 それを再び足元に置くと、猫は言った。

『人間に捕まるほど、この体は鈍くはないぞ。お前さまがよく知っておろうに』

 私は口に入った土をペッペと吐きだし、草むらに座り込んだ。

「あなたは、川に流した場合の効果を確かめたい。量も、濃度も、試してみないと分からない」

『目星はすでに、ついておるぞえ』

「でも、浄化の具合も、効果のほども、試しかめずにはいられない。それを実行するための大量生産も終わっていて、あとは次元の門を開いて、ドバッと落とせば、それで終わり」

『左様よの』

「私たちは、もうそれを止められない。それは理解したわよ。でも、せっかく会いに来てくれたんだから、少しくらい、お話しさせて」

 黒猫は、小首を傾げた。

「萌さんも、いい?急ぎたいのは、私たちでなくて向こう。でも、夜目も効くし、別に今日でなくても構わないと思っている。一旦、落ち着いて、少し情報共有しましょう。何も、魔女は私たち二人の命を狙っているわけじゃ、ないんだから…いい?」

「どういうつもり…?」

 萌さんは小声で言いながら、私の隣に横座りする姿勢を取る。

「話をよく、聞くの」

 私は小声で、彼女に念を押した。

『確かに、我に急ぐ言われはないが、無為な時間を過ごしとうはないぞえ』

「興味なければ、立ち去っていいわ。私ね、ちょっと考えたのよ」

 草むらの上で、あぐらに組み直し、私はリラックスしながら話を続ける。

「あなたの立場を。あ、その前に。私たちは、あなたの事を五百年くらい前の時代に生きていた人だと思ってるけど、間違いない?」

 黒猫は反応しない。

 肯定か…。

 それとも、推論は推論のまま、勝手に語れ、という訳か。

「いいわ。どの道、限られた情報から見出した推論だから、勝手に話すね。あなたは、五百年前、様々な薬を作って、人々の病いや悩み事の解決に従事していた。やがてあなたの噂を聞きつけて、上流階級…貴族たちも薬をオーダーするようになる…」


 彼女の元を訪れる者たちは、いつも切羽詰まっていた。

 当時は死亡率が高かった、子どもの発熱。

 完治する可能性が低かった、肺の病い。

 そのほとんどは、ろくに現金も持ち合わせていない庶民たち。

 謝礼は、野菜やパンなどである事が多かった。

 しかし、政略結婚で嫁いだ妻による、不妊の悩みは金になった。

 営みがあるのならば、まだ愛情を受けることもできる。しかし、床を共にしてもらえない妻となると、数年後にどのような扱いを受けるものか、その悩みは切実だ。実家からは、どんな手を使ってでも子を授かるように、と再三にわたり要求される。

 だから、媚薬が高値で売れた。

 愛の無い貴族の夫婦なら、その値段は天井知らずだ。

 金は、政略結婚で勢いを得たい、妻の実家が出してくれたのだから。


 だが、彼女には一抹の不安もあった。

 それは古来からの法。妖術や毒薬を使用し、社会に悪影響を与えた者は、死刑になるのだ。

 しかし、薬を受け取り、問題を解決した者たちから贈られるお礼が、その不安をかき消してくれた。

 薬の研究に打ち込み、それを求めて人々が訪れる。

 熱意を向け続けられるものがあり、人々からもそれを求められる。

 充実した日々だった。

「貴族から多額の報酬を受け取っている」

 その噂が流れ始めるまでは…。


 媚薬には、それを望まぬ者もいる。

 彼女は、魔女裁判の議場に連れ出され、初めてそれを知った。

 正妻は一人でも、愛人ならば何人でも作れる。

 結婚の正当性にケチをつけ、結婚そのものを不当であった、とし事実上の離婚も不可能ではなかった。

 つまり、正妻が子を宿さねば、他の候補者が立ち上がることが出来たのだ。

 互いに足を取り合い、日陰で殺し合う、権力のるつぼ。

 貴族と関わることの危険性を、彼女は魔女のレッテルを貼られて、ようやく理解した。


「あなたの財産についての記述は、どこにも見当たらない。誰も、公式な記録に載せていなかったのね。もっと時間をかけて、世界中の蔵書を漁ればあるのかも知れないけれど…多分、無いわ。つまり、貯め込んだ分だけ、自分の首を絞めることになった。でも、あなたを陥れたのは、腹黒い連中だけでは無い」

 黒猫は、身体をUの字に曲げて、静かに寝転んでいる。

 目は閉じていたが、耳だけはこちらを向いていた。

「あなたの財産を妬んだ者」

「世界一不幸な自分よりも、もっと哀れな他人の姿を見たい者」

「盲目的な宗教観に縋ることでしか、自らの正当性を見いだせない者」

「被害者意識に凝り固まり、未知なるものに恐怖しか抱けない者」

「無知蒙昧な輩ども…」


「あなたは、それらを憎んだ」


 萌さんが、地の底から聞こえる閻魔さまの叱咤の如く、唸るように呟いた。

「萌さん、もう一度よ!」

 白いワンピースの女性が地面に潜ると、黒猫は背中の毛を逆立てて、斜に構えた。

 地面から突き出された手を、弾んだボールのようなジャンプで躱わす。

 だが、猫は空を飛べない。

 着地点を見越して移動した萌の両手に、ぎゅっと掴まれた。

 猫は爪で掻き、鋭い歯を突き立てるが、萌は無反応だった。

「不思議、痛くない…と、いうか。何で?」

 私は萌の疑問に答える。

「萌さん、私に触れるようになっていたこと、気づいていない?」

「ぇ…?そうなの?」

「で、いろいろ考えたの。専門的なことなんて分からないから、全て勘だけど…。それにはまず、あなたが飲んだという、魔女の作った薬の効用を想像して、仮定する必要があったわけ。で、いろいろ考えた結果が…」

 

 私が拾い上げた狼の像に、アイスピックを当てると、猫は抵抗を止めた。

『五百余年、仮初の生命を生きながらえた。不信心な娘よの。お前さまの勝因は、その不信心さ故よ』

「確かに、私の目には、可愛い王子の姿にしか見えないし、その中身も、五百と四十四年の生涯を薬学研究に捧げた、人間不信の研究オタクにしか思えない。萌さんと同じで、他人と付き合うのが苦手だった。どちらかというと、他人を見下して距離を取るタイプね。それでいて、自己肯定感が低いから、すぐに諦めそうになる。でも、薬学のことになると夢中になり、時間も、危険性も忘れて、ズッポリとのめり込んでしまうのよ」

『知ったような口を…』

「知ってるわよ。営業舐めんなよ。あなた、裁判の結果を聞いても、他のみんながそうしたように、嘆願書を書いたり、聖書を誦じて無実を証明しようともしなかったそうじゃない。あなたのそれは、達観じゃないわ。ただの逃避よ」

 私は萌さんの顔に視線を移す。

「それは、あなたも同じ。魔女の薬の魅力が、あなたを動かしていただけで、あなたは最初から、いろいろと諦め、私とも最初は関わり合いを避けていた」

「ぇ、私の話?」

「魔女の薬の影響で、あなたは関わりを強めた人の心の中を知る事ができるようになった。あるいは、興味と関心を向けた相手にだけ。でも、あなたはそれを拒んだ。間違った効用の所為で、拒んだ相手には触ることさえ出来ない。もちろん、心を持たない物質には、どうやっても触れない」

「薬学について、何にも知らないくせに…勝手な想像だわ」

「でも、人の心のことなら、あなたより理解している」

 私は像を前に突き出し、ピックをこれ見よがしに添える。

「これから、1センチずつ、この像を刺すわ。年貢の納め時よ。魔女カトリーヌ・モンヴォワザン。あなたが蒔こうとしていた薬の効用を教えなさい。あなたの量刑は、それによって私が決める」

「死刑よ!毒を都心にばら撒こうとしていたのよ!?」

「それを決める権限は、今、私の手の内にある。さぁ、白状しなさいな」

『この娘の言う通りぞ。小娘め。積年の恨みを果たすこと…それが我の望み』


 はぁ…めんどくさい人たち。


「嘘八百は、もう懲り懲りよ!観念するのね!」

 私は怒鳴ったあと、口調を和らげる。

「あのね、毒なんて自然界にいくらでもあるでしょ?社会的立場を守る必要性がある人なら、未知の毒薬で完全犯罪を狙う理由も分かる。でも、あなたが…猫の中に潜んだり、人の身体を使って工房を整えたりする事ができる、あなたがよ?わざわざ、五百年もの時間を費やして、そんなものを作る訳がないじゃない?私を馬鹿にしてるぅ?ここは、五百年後の日本!一神教を信じる人も少なく、かつてのような狂信者たちも至極、稀な存在でしかない。そんな世界の変遷を尻目に、あなたが情熱を失わずに取り組んだ目標は、もっと崇高なものであるはず。それは、きっとあなたの薬でしか成し得ない、何か。それが何であるか、あなたの口から言うのよ」

『言うのもか…』

「言うの。でないと、拷問よ。あなたは、以前もそうしたように、拷問から逃れるためなら何でも捨てることができる人。話しなさい。あなたの名前に命じるわ」


 不意に、私の中にイメージが沸いた。

 それは、古めかしい洋服を纏った、ふくよかなアラフォー女性の姿。

 彼女は、私の中へと乗り移り、しばし語らった。


 薮の中から一羽の鴨が飛び立ち、私の手にあった像を咥えると、羽音を残して夕闇の中へと消える。

「追わないと!」

「いいのよ、いずれまた、会えるわ」

 私は草むらにどかっと腰を下ろし、あぐらを組んで紫色の空を見上げた。

「萌さんって、さ」

「…ん?」

「みかん、好き?」

「嫌い」

「あら…私は探偵にはなれないか」


「放せよぉ、馴れ馴れしいな!」

 王子が萌さんの手にカプリと噛みついて不快を表明した。

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