第10話 魔女

「イタタタ…」

 座った姿勢のまま、私たちは暗い部屋に落ちた。

 美甘さんも同じように落ちた所を見るに、正確に言えば、吸い込まれたのだろう。

 どちらも、結果に大差はない。

 私は両膝とお尻を打ちつけた上に、着地の反動でおでこを床に叩きつけていた。

「星が舞ってる…頭蓋内出血で、後日死ぬかも」


 暗闇…。

 ところどころ捲れ上がった、塩ビタイルの床。

 たくさん並んだ、大きな四角い机。

 床を這う、コード。

 うっすら香る、現像液の匂い。


 美甘さんの身体は、うっすら光を帯びている。

 その両目は見開かれ、硬直する。

「ここって、前に話してくれたところね」

 私の言葉に、彼女は絶望的な視線を向けてきた。

「痛ったぁ…でも、折れてないみたい」

 私は立ち上がり、屈伸をして身体の無事を確かめると、辺りを見渡した。


 大きな机の天板には、半透明の塩ビ板が嵌め込まれている。

 たくさんの、可動式デスクライトも。


「私、ここが何だか、知っている」

 大きなガラス窓がある。

 歪んでずれたシャッターの隙間から、外の明かりが漏れていた。

 何か、帯のようなものが数本、窓ガラスの外にあるようだ。

「規制線…あなた、ここで発見されて、救急搬送されたのね」

「ここは、何なの?」

「私もね…実際に動いているところは知らないの。でも、話は聞いたことがある。DTPの前…あ、パソコンでデザインする前の時代ね。その頃のデザイナーの仕事はね、印画紙に出力してもらった文字や、図案を切って台紙に貼り付けていたの。版下というの。デザインがフィクスすると、それにトレーシングペーパーを重ねて、どんな色にしたいのかを書き込む。それをここに運んで来て、今度はフィルムを作るの」

 暗さに目が慣れると、室内に渡された何本もの紐に、四角いフィルムがぶら下がっているのがわかった。

「まさに、職人技。点々のフィルムを色ごと…フルカラーだと4色なんだけれど、その点々が重なってしまったり、変な模様として浮き出さないように、微調整しながら貼り合わせる。たくさんのパーツが必要。毛抜き合わせって言って、隣り合わせの色の間に、髪の毛一本分の隙間も無いよう、慎重に貼っていくのよ。営業の私からは、想像もできない。ちまちましてて…しかも、全部、急ぎの仕事!」

「昔の、印刷屋さん?」

「製版所って言われていたわ。パソコンの普及で、一気に姿を消してしまった。職人たちは、どんな気持ちだったかしらね…私たちも、いずれそうなる」


『忘却の彼方へ消えた、古き良き職人たちか…同類として、我も哀れに思うぞ』


 突然の声に、心臓が飛び出るところだった。

 振り返ると、暗がりの中に、マスカットグリーンの瞳が光る。

「王子…いえ、魔女…」

 黒猫は、瞳を細める。

『理解が早い。すでに悟っておったのかえ』

「時折するその仕草、たまに間違ってたわよ。猫が目を細める時は、敵対心がないことを伝えるため。あとは眠い時」

『この身体は、いつも眠い』

「それが猫よ。急に賢いことを言い出したり、あなた、バレてもいいと思っていたでしょ」

『誰かに相談すれば良かったであろうに。こんなことになる前に』

「言えるわけがないじゃない!…そうか。あなたは誰よりも、それを理解しているのね。中世を生きた魔女である、あなたには」

 黒猫は、再び目を細めた。

 まるで、微笑んでいるかのように。

 美甘さんが、ようやく口を開く。

「私たちを着けていたのね」

『これが遠くに行ってしまっては、困るのでな。追わぬわけにはいかなんだ』

 黒猫の前足の下には、狼の像があった。

 私は辺りを見渡すが、少し前まで手に持っていたはずのそれは、無い。

「いつの間に…」

『だが、あの病院からすぐ近くで、面白いものを見た。おかげで、我は新しい計画を思いついたぞえ』

 黒猫の背後の壁に、無数の瓶が並んでいた。

 理科室のホルマリン漬けを思わせる、おびただしいまでの数の標本たち。

 動物だけではない。

 草、根、実、花、そして鉱石の類まで。

『うん?後ろか?我の工房よ。その娘がすぐに見つかってしまい、散々っぱらと荒らされ、持ち出され、難儀したものよ。おまけにこの身体ときた。だが、完成品は無事だった。“大事なものは、隠しておけ“だ。この宿主の知恵に礼を述べねばならんさね』

「王子を返して」

 私の言葉に、黒猫は顎を斜めに上げる。

『用が済めば、返すさね。我も猫は好きでな。お前さまの気持ち、汲まぬではない』

 美甘さんが、突然飛び出した。

 まるで光の槍となったかのような、鋭い軌跡を描き、黒猫の足元を…通り過ぎた。

「なんでッ!?」

 黒猫は後ろ足で耳の後ろを、チャチャっと掻く。

『お前さまには、不憫をかけた。まさか、精神体そのものが飛び出してしまうとはな。我も驚いたのだぞ?だが原因は、お前さまが持っていた薬の所為であった。手を加えたのであろう?愚かな娘よ。薬は、すでに完成しておったのに』

「ラットは死んだように、動かなかった。失敗でないなら、それは毒薬ということ!」

『その定義は、またの機会としようぞ。けれど、死んだわけではないぞよ。その必要がないから動かないだけのこと。腹が減れば、飯も食おうぞ』

「何が、完成品よ!」

 再び飛びかかる美甘さんだが、結果は同じだった。

『今のお前さまでは、我には触れぬ。人間嫌いの研究馬鹿には、永遠とな』 

 黒猫は、私を正面から見つめた。

『さて、聡い娘よ。宿主の保護役としての恩義から、お前さまに忠告申ぜようぞ。新たな時代の到来に備えよ。お前さまなら、どうにか上手く生き抜けようもの』

 黒猫の背後に、赤紫色の渦が生まれた。

 私たちを病院の床から吸い込んだ、あれだ。

 黒猫は踵を返し、その中へと飛び込む。

 瞬時に渦は消え、暗がりだけが残された。


 私はため息をついて、床に腰を下ろしてスマホを取り出す。

「何、落ち着いているの!?なんとかしないと!」

「何を、どう?」

「何でもよ!」

 美甘さんは、憮然とした顔で腕を組んだ。

 …。

 車の騒音が、外から聞こえる。

「あった、これだ。きっと」

 私は美甘さんに、MAPアプリの画面を見せる。

「さっきの病院?」

「道路を挟んで、その隣…」

「…東京都水道局港営業所…これって」

「きっと、薬を水道に流すつもりなんだと思う」

「どうやって?」

「猫の身体では、やれることに制限がある。私なら、取水場に目をつける」

「無理よ。浄化される」

「でも、未知の薬品が浄化される保証はない…じゃ、ないの?」

「可能性としては、ゼロとは言い切れないけれど」

「魔女もそう、思っているのかも。だから、サンプリング調査をしたい。あと、やけに自信満々だったのも気になる」

「じゃぁ、この近くの取水場に…」

「良かった。意外に近い。例えばここ…秋ヶ瀬取水堰なら、首都高使って、車で1時間」

「近くないじゃない!相手は、ワープするのに!」

 美甘さんは、身体をプルプルさせながら地団駄を踏んだ。

「今いる場所の事を言ったの。まぁ、あれね…次元開闢を使われたら、移動だって、荷物の運搬だって、ちゃちゃっとよね。チートだわ、まったく。どぉーだかなぁだわよ」

「次元…?」

「あ、私の適当なネーミング。魔女のこと、少し調べたのよ。近くに便利な私の身体があるのに、わざわざ猫のままでいる事を選んだ理由…」

「…理由?」

「動物の身体には、異界に通じる門の役割があるらしいの」

「非科学的にも程があるわ」

「あなたが、それ言う?」

 美甘さんは、口を尖らせる。

「ねぇ、ラットはまだ生きてるの?」

「成分分析依頼だったから、教授が報告書を上げてしまえば、殺処分される。きっと、もういないわ」

「ダメ元でいいから、行ってみようよ」

「無理よ、研究室は部外者は入れない」

「大学でしょ?軍の研究施設じゃあるまいし、何とかなるって」

「そんなことをしている時間は…」

「ないわよ。そんなもの最初から。ジタバタしたって、どうせ間に合わない。でも、今のままでは何も分からなすぎて、何もできない。それに、気になるのよ…あの魔女の態度が」

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