第9話 眠れる病室の美女
昼の1時30分。
私は病院の外で、美甘さんと待ち合わせた。
私の部屋の中の様子を見て以来、彼女はもう部屋には寄りつかない。
よほど、“魔女の残り香“が居心地悪いのであろう。
到着後すぐ、彼女は現れる。
「会社にお休みまでとってもらい、今日はありがとうございます」
「いいのよ。たまには有給使わないと、労働基準法に掛かるし」
今まで、労働基準監督署から指導を受けたような話は聞かない。
なぜだろう?
「今日はまた、一段と気合が入っていますね…」
気合?よく寝たから、だろうか?
「どゆこと?」
「い、いえ。いいんです。こっちの話…です」
「美甘さんは、夜、寝てるの?」
彼女は笑顔を作る。
「いえいえ、全然、眠くなくて…もっぱら空に浮かんでいます」
「空に?怖くないの?」
「最初は不安もありましたけど、私、高い所大丈夫みたいです。それに…綺麗なんですよ。東京の夜って、とても…宝石箱をひっくり返したみたいで」
「宝石箱と言うものを見た事ないけれど、意味はわかる!」
「あはは、ですね!」
緊張と不安…出会って間もないけれど、私には今の彼女の気持ちが、なんとなく知れた。
もし、体の中に戻ることができなかったら…重要な選択の前には、最悪の結果を想定した次善の策が必要だ。しかし、そんな話をする気にはなれず、私たちは晴れた初夏の空を見上げる。
「間も無く、酷暑ね…」
「いえ、そこは綺麗な空だね、とかでは」
「すでに、暑い…」
「えと、登録、済ませておきませんか?建物に本当に入れるかも、試しておきたいですし」
「承知の介」
「あ、それ私のフレーズ」
印刷会社の本社ビル同様に、他人の所有物であるにも関わらずに、私のお招き一つで、美甘さんは無事に病院内へと入ることができた。
吸血鬼ドラキュラは、1897年に出版されたエイブラハム・ブラム・ストーカーによる創作物だ。発起となった人物像は、オスマントルコの侵略に抗う、ワラキア公国のヴラド3世。残虐な“串刺し“によって、城内にまで侵入して来たオスマントルコの武将をして「悪魔とは戦えない」と言わしめ、九死に一生を得たという。ちなみに、ドラキュラの語源は、ヴラドの父が用いたペンネームに由来する。憧れのドラゴン騎士団に入団を果たした父は、嬉しさのあまり、自分のペンネームをドラゴンとした。それを真似た息子は、ドラキュリア、ドラゴンの息子と書いたのだ。
ドラキュラには、数多の弱点がある。
いわゆる“設定“だが、強すぎる相手では、人間は太刀打ちが出来ないわけで、読者に勝利の可能性をチラリと覗かせてやるために、下方修正してやる必要があったのだ。
だがこれは、大衆向けの作品にだけ、存在するルールではない。
古来から伝わる、各地の伝承。
アキレウスの踵。
竜の逆鱗。
弁慶の泣き所。
強い魔法には、不条理なほどの弱点が存在する。または逆かも知れない。決定的な弱点を設けることで、反動的に魔法の力が強くなる…のかも。
私は、美甘さんの体の優位性と、奇妙な縛りを、自分なりにそんな風に解釈していた。
「私…決めました」
待合室で、美甘さんは私に告げる。
「もし、これがダメなら…私、魔女を見つけて倒します」
「倒す?」
「…どうにかして」
私は、床を見つめる彼女の横顔を見つめた。
「そうね。その時には、私も力を貸す」
「依真さん…」
その時、ナースセンターから声がかけられた。
「コウワキさん、ご面会のお時間です」
「あ、コブキです。いえ、別に。念の為」
まるで、眠れる森の美女だった。
うっすら透けている美甘さんの姿は、あまり意識させることはなかったが、実物の美甘さんは、綺麗な肌と、整った顔立ち。鼻がスッと高く、はっきりとした唇のラインは、美しい曲線とぷっくりとした膨らみを帯びていた。
しかし、搬入後から二ヶ月を過ぎた彼女の四肢は、筋肉が痩せ、まるで棒のように枯れていた。
結果は、失敗。
彼女の本体はまるで、魂を拒絶するかのように、その体を跳ね付けた。
通り抜けることすら、出来なかった。
彼女は、一時間ほど同じ動きを繰り返し、やがて、宙に浮いたまま泣き出してしまった。
私は、パイプ椅子から立ち上がり、彼女の体を引き寄せて、抱きしめる。
彼女の心が、浸透してくる。
痛みが、伝わる。
私も泣いた。
「美甘さん、まだ、完全に終わったわけじゃない…でしょ?」
「…」
「まだ、やるべきとは残ってるじゃない」
「…終わりよ。魔女なんて、いるかどうかも分からない。もし、いたとしても、私にはどうすることも出来ない…この体では…」
「確かに、いるかどうかも分からないけど、マクガフィンなら、ここにあるわ」
涙を拭いながら、美甘さんはゆっくりと、私に目を向ける。
少し茶色い前髪から覗く瞳は、赤い瞼に縁取られていた。
「何の事…?」
「へへ…えっとね…ほれ、ジャーン」
ショルダーバッグの中から、黒い木片を取り出して、彼女に見せた。
「洗濯機の裏側にあったの。見つけるまで、もう、大変だった」
「すごい煙…よく見えない」
「ぇ、そうなの?あなた、言ってたじゃない。ジャガーのこけし」
「あぁ、狼の像ね…ぇ、あったの!?」
「あったの!」
「あったのね!?」
「あったけどぉ…これ、どうしよう?」
…。
私はアイスピックをバッグから取り出す。
「チャカチャカン♪サツジンヘイキーッ」
「捕まるわよ、そんなの持ち歩いてたら」
「じゃ、壊してみよっか?」
「ぇ、待って。えっと、それが何だか分からないのに?」
「事の発端は、王子がこれを拾って来てから…でしょ?なら、壊してみて判断しよう」
「いや、なんか…こう、お祓いとか…?」
「できる?」
「私じゃなくて、誰か宮司さんとか」
「日本書紀の神々でいいの?なんか、ヨーロッパ的なデザインじゃない?そうだな…そう、ケルトっぽい感じがする」
「詳しいの?」
「歴史は好きよ。でも、ドゥルイデスが自然崇拝だって事くらい。あ、あとマーリンね。魔術師といえばマーリン」
「その、マーリンって人なら…」
「うん。じゃ、壊そう!」
ピックを振り上げた瞬間、病院の床が消えた。
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