第8話 決意の有給休暇
「いえいえ、そうではなくて…はい、はい…そうなんです。ブラッシュアップの過程で、もっと良くなるんじゃないと…そうです!あと2日だけ、いただければきっと、ご満足いただけるものになると思うんです!…はい!ありがとうございます。無理なお願いを聞いてくださり、誠にありがとうございます。…はい、では、午後13時30分に…はい。よろしくお願いいたします!」
普段から深夜まで仕事をしているというのに、有給をスマートに取ることは一苦労だ。
今日と明日、そして可能な範囲で明後日の仕事にも、目処を立てておく必要がある。休んでいる日にも、新たな問い合わせがあり、追加の要望があり、仕事は増えていくのだから。
小野寺部長曰く。
「有給ですか。どうぞ、どうぞ。我が社はホワイトな会社ですからね、どうぞ、どんどん取っちゃってよ。理由?あぁ、いいのよ。理由なんて、何でも。でもね…周りの人たちの角を立てないように、ちゃんと、段取りしておいてね。段取り、大事でしょ?」
総務部担当曰く。
「いいですね…僕なんて、ここ5年で2回しか取れてませんよ。あ、理由はちゃんと記入しておいてください。どこら辺にいるのかも。何かあったら、困るので。携帯が鳴ったら、ちゃんと出てください。それと…原則として有給休暇申請書の提出は一週間前までにお願いします。次回からで、結構です。私も言いたくはありませんが、ルールですので」
企画部咲間くん曰く。
「…祖母の長期入院の手伝い?あれ?お前っておばあちゃん、まだ生きてたっけ?」
気がつけば、深夜1時22分…。
数人の残業者のために、部分的に照明が灯る中、私は見積りソフトを閉じ、検索サイトを開く。
「魔女…歴史…っと」
有名なテーマだけに、様々な情報を見ることができる。
「魔女裁判はカタリ派への異端審問を起とし、父権的キリスト教の流れ…魔女の集会をサバトと言い、動物を供物として…緊張型光悦状態カタレプシーを集団的に…15世紀から18世紀までに100万人を…百万人!?…しかし、近年の研究により、その実態は4万から6万人の犠牲者数であると…」
とはいえ、一度に大勢の人同士で行う戦争ではなしに、個人を標的にする裁判を経て、しかし、この数とは…。
「あ、魔女にされた人の名前もあるんだ…てか、少なッ。中世とはいえ、まともな裁判をしていない証拠ね。訴状文もあるのか」
翻訳サイトを別画面で開き、被告人が書き記した文章をペーストする。
卑屈なまでに、遜った文面。
何度も繰り返す、同じ言葉。
弁明せねばならない事柄が、何であるかも定かでない、取り留めのない文章。
それはそうだ。
きっと、これは拷問を受けた後に、何とか得ることができた、最後のチャンス。
自由に動かなくなってしまった手で、必死にペンを掴み、暗い牢獄の中、わずかな明かりを頼りに書き記す、命乞いの言葉。
しかし、魔女と糾弾されたら、何を詫びたら良いのか。
何と弁明したら良いのか…。
私はため息をつき、他のサイトもクリックする。
「古代ギリシャ、薬学と毒学を意味するパルマコンを語源に、妖術を意味するパルマケイアという言葉が生まれる。イオニアの各都市、共和制ローマの十二表法において、妖術や毒殺に関する刑罰が設けられ、紀元前331年に170人が毒殺、ないし妖術を意味するウェネフィキウムの容疑で処刑。前184年には約三千人、前182年から前180年にかけては約九千人が処刑される。魔女狩り同様、社会不安の高まりによる集団的パニックによるものと推察」
最初は、毒に対する恐怖だった。
人為的だが、剣や斧といった回避可能な物質的攻撃ではなく、毒や呪いによる不可避の死に対する恐怖。
それが、やがて一神教の時代に、異端という絶対悪としてのイデオロギーを生む。
壁掛け時計は、深夜2時まであと14分を告げていた。
「あっ、まずい!王子のご飯!」
人助けの為とはいえ、久しぶりの有給休暇だ。
しっかり寝させてもらう!
美甘さんの身体がある病院の面会時間は14時からなので、時間的には余裕がある。
「今日はどうしたの?」
ところが、王子が私の顔を舐めて起こし始めた。
「起きてよ」
猫の舌は、デリケートな肌を舐められると、それなりに痛い。
耐え難いほどではないが、絶妙に無視できない程度のジョリジョリ感。
「…10時かぁ。もちょっと、寝させてよ」
私の胸の上をてくてくと歩き、そして鼻を舐める。
うっすら、イカ墨パスタの香り。
「ご飯、頂戴よ」
「昨日、遅かったじゃーん…あぁ、分かりました!起きます!ご飯だね。ご飯は大事だ」
実は、少し早めに起きるつもりではいた。
カリカリと、カツオのウェットフードを与えると、鍋でお湯を沸かし、その間に顔を洗い、軽く歯磨きをする。湯が沸いたら塩を入れて、パスタを捩じ込む。6分後にボロネーゼソースを電子レンジで30秒温め、皿に移したパスタの上に、ドバッとかける。仕上げに、スライスチーズを一枚取り出し、ざっくりちぎってゆげを上げるソースの上に落とす。
「完成ーっ、普通のスパゲッティ!」
言葉を駆使する広告業界の人間として、最近、切に思う。
パスタとは、小麦粉を練って作った食品の総称だ。
ラテン語の長女と言われる古イタリア語において、その意味を持ち始めるが、元々の言葉としては、世界の言葉のお母さん、といっても過言ではない印欧祖語から存在する歴史の古い言葉だ。
これをフランス語で言い換えれば、パテとなる。
何を言いたいか、お分かりだろうか。
「お前らの食ってるものは、パテなのかッ!違うだろッ!スパゲッティと呼べ!」
今時、スパゲッティって…と笑う若人のなんと愚かしい事か!
「そんなこと言っているの、日本人くらいだ。恥ずかしい!」
イタリアレストランの紹介記事を書くたびに、いつも苦労するのだ。
メニュー表記ではスパゲッティと正しくあるのに、大見出しでは「新店OPEN!本格パスタのお店」と書かねばならないからだ。
「まぁ、総称だから間違いではないのだけれどねぇ」
皿を洗いはじめると、王子は「遊ぼう」を連呼し始めた。
私はおもちゃを取り出す。
ところが、これだけでは、もう王子は興味を示さない。
もう、子どもではないのだ。
人間が安いファミレスから、落ち着いた雰囲気のバーに居場所を変えるように、大人には、大人の遊び方があるのだ。
雑誌を床に置き、その下におもちゃを忍ばせる。
王子は意図を汲み取り、雑誌の前で、まるで花瓶のような美しい流線を描いて座る。
それを確かめてから、私は雑誌の端から、見えるか、見えないか、の辺りでカサコソと音を出す。
カサコソ…。
左に動かし、またカサコソ。
すぐには食いつかない。
まずは、状況確認、それが猫の流儀。
右に動かし、カサ…。
パシッ!
王子は左の光速パンチからの連続技で、体を雑誌の下に滑り込ませながらの右フック、右フック、そして左ストレート!
そして、急に立ち上がり、キッチンへと全力疾走。
「飽きるの、早ッ!」
王子は満足したのか、キッチンの小窓の前に設置した王子用の籠の中に飛び込み、毛繕いを始める。
「さて、出かける準備の前に、いっちょやりますか」
私は髪を後ろでまとめると、スマホを片手にワンルームの中を練り歩いた。
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