第7話 積もる話とやらを

 私が王子と出会ったのは、とある保護猫施設。

 TVでその名を見て、その活動に感銘を受け、2年前に訪れたのがきっかけだ。

 その時は、まだ3歳。やんちゃが抜けていない元気な子猫だった。

 至って普通の、黒いだけの猫ちゃん。

 異変があったのは、逃亡してからだ。

 逃亡防止柵をちゃんと閉めないまま出かけてしまった日。夜に帰宅すると、王子は玄関に居た。私が扉を開けた途端、足元を擦り抜けて外へ逃げ出してしまったのだ。

 思い出したくもない。

 後悔と心配だけが延々と脳裏をマラソンした5日間。

 失踪猫の捜索を専門とする業者は、TV放送の影響で予約待ちの返答。

 本当に、心から自己嫌悪に陥り、仕事も手につかないでいた。

 6日目の朝、出社しようと扉を開けると、廊下の隅に丸くなる王子を発見した。

 その時には、名も知らない日本古来の神々に感謝したほどだ。

 王子は、ボロボロになった木製の人形のような物を咥えていた。

 日本風に言えば「こけし」だったが、それは彫刻が西洋風で、どこか薄気味悪い印象だったことを覚えている。

 私は王子を抱き上げ、そのまま急いで家に連れ込んだ。

「お腹減った」

 それが、王子の声を聞いた一番最初の言葉だった。

 その時には、自分の錯覚だと思った。

 カリカリだけを急いで皿に盛り、水を与えた。

 元気にそれを食べている姿を、心から愛おしいと感じた。

 気がつけば、咥えていた汚い人形は、どこかに消えていたが、私はそれをすぐに忘れてしまう。


「病院に行っても、帰りたい、とか怖いとか言うから、私、先生に“猫って喋ることあるんですか?“って聞いちゃったのよ!すると先生ったらね…」

 私は先生の真似をして続ける。

「“そういう事も、あるかも知れませんねぇ〜“…だって!流石に、私も質問したのを後悔したわよ」

 トンカツを齧る。

 幽霊は、真面目な顔で私の話に聞き入っていた。

「その人形は、狼の姿をしていなかった?」

「狼?ハスキーみないな?…どうかなぁ?土が付いていたし、ちらっとしか見てないから、何とも」

「どこに行ったのか、分からない?」

「王子、どこへやったの?あれ」

 遊びの催促をおざなりにされた黒猫は、ソファの上で毛繕いをしながら、興味なさげに、耳だけこちらへ向ける。

「…もう、何度も掃除してるけど、見つからないの。あれが何か、あなたに関係があるの?」

 適温になったパックご飯を掻き込みながら、私は幽霊に尋ねた。

 幽霊は、こほん、と咳払いをしてから話しを始めた。

「まずは、私が幽霊ではない、という証明からさせていただきます」


 彼女の大学にある研究室では、各署から持ち込まれる薬物の成分分析依頼を受け付けているそうだ。

 教授がそれにあたるが、大学院生たちもその手伝いに駆り出される。

 ある時、持ち込まれたその薬物は、初見から異様さを感じたという。

「違法薬物というのは、できる限りその存在を隠蔽させる傾向にあるの。でないと、飲んで貰えないから。しかし、それは見るからに気持ちが悪く、溶け切っていない固形物が大量に混入されていたの」

 成分分析の過程で、美甘は吐き気を模様した。

「まるでイタズラで作られたような、滅茶苦茶な液体。私には、悪意の塊に思えた。主成分は炭素、水素、酵素、アミノ酸、ペプチド、アミン、尿素、尿酸のほか、植物由来と思われる…」


「ちょ、ちょ。私に分かるように話してくれる?」

 美甘は、頷いてから話を続ける。

「つまり、大量の動物の死骸と、トリカブトを含む植物のエキスを熱処理した液体だと推測できたの」

「トリカブトって、毒よね?」

「そう。でも、ラットに試すと、死んだように動かなくなるけれど、死にはしなかった。予測された反応ではないの。だからまず、アルカロイドに的を絞って構造を解析した。教授には怒られるんだけれど、人が作ったものなのだから、そこには必ず意図があるはず。その意図を推測した上で、優先順位を設けた方が効率的だと私は考えていたの。でもそこで、迷宮に入り込んだ」

「迷宮…」

「アコチニン、メサコチニンはアルカロイドに分類される窒素化合物なのだけれど、配列が変化して、毒素が消えていたの。せっかく強烈な作用を有する毒素を入れ込みながら、奇跡としか思えない手法で、その効果を弱めている。意味が分からなくなったわ」

 私は黙って、彼女の話に耳を傾ける。

「手間のかかる手法で、アルカロイドを変容させたのなら、それは毒物以外に、きっと別の目的があるに違いない。丹念に調べていくと、それらは徐々に姿を見せ始めた。未知の化合物が、さらなる未知の化合物を生み出す。まるで電子顕微鏡で宇宙の中を覗き込んでいるみたいだった。中でも、アミノ酸の結合が特殊な変異を遂げていたのには気がかりだった。トリプトファンに近い構造をもち、ラットに注入すると、激しい興奮状態になり、呼吸が激しくなり、やがて死んだ…」

「毒…」

 美甘は私の目を見つめ、首を振った。

「教授の結論では、そうだった。分子結合が異なる未知の毒素は、成分分析にかからないの。毒殺に用いれば、死体解剖にかけられても、ほかの死因として誤認される可能性が極めて高い」

「でも、あなたはそうは思わなかった」

「…そうよ。私は、トリプトファンの変異体が本丸だと仮定した。その効果を補助する他の化合物が、まだあるかも知れない。私は、この毒の沼にすっかりハマり込んだ。滑稽だけれど、その時の私の脳裏にあったのは、中世の魔女が鍋を煮込んでいる姿よ」

 魔女の薬…。

「私は精神作用に関連する化合物を抽出した。ラットで試すと、最初と同じ効果だった。死にはしないけど、動かなくなる。でも、そんなはずはないの。情緒が不安定にはなるかも知れないけれど、脳の機能が停止するはずはない。だから脳波の測定をした。すると、ラットの脳は生きていた。動かない目で何かを見て、ひくりとも動かない鼻で何かを嗅ぎ、耳でも何かを聞き分けている」

 私は、血の気が引くのを覚え、思わず最後のトンカツをフローリングに落としてしまった。

「まさか、とは思うけど…あなた、それを自分で、試した…の?」

 いつの間に、美甘の目は赤くなっていた。

「試したかった…とてもぞくぞくしたの。自分が発見した、未知の化合物よ?でも、それは研究成果ではない。あくまで、成分分析の依頼品。期日が迫り、教授が結論をまとめ、返却を迫られた」

「そう、じゃぁ、無事に返したのね」

「…精製水を少し、混ぜた」

 …理解するに、しばらくかかった。

「少し、盗んだの?警察かどこかの証拠品なんじゃぁ?」

「依頼の経緯はブランクになっていたから、どこからの依頼か、私には教えてもらえなかったわ。これを一度手放しては、もう金輪際、二度と私の手には戻って来ない」

「…呆れた研究バカね。それを研究し続けて、どうなったの?」

 分からない…とばかりに、首を振る。

「研究室の明かりが落ちて、非常灯も何もかも、灯りは全て消え失せたわ。そして、暗闇の中で聞かれたの。今、手にしている薬は何グラムかって。3mgあったから、そう答えた。怖かったのよ。魔女が来た…そう思った。すると、あと7mgあるはずだ。とその声は尋ねて来た。その通り、保管庫の中にあるわ、と私は答えたの。すると、私は急に浮遊感に襲われ、硬い地面に叩きつけられた。ひび割れた塩ビタイルの床。写真の現像室のような匂いがしたのを覚えている。殺される、と直感した」

「でも、あなたの体は、さっき病院にあったって」

「そう…腕に注射を打たれたのを覚えている。その後、ひどい酩酊感に襲われ、気がつくと、私は空にいた」

「…へ?あ、ゆ…ごほん。その時に、霊体?…になったのね」

「どれくらい浮かんでいたのかは、定かではないの。でも、ようやくまともな思考ができるようになって来て、もし、私の身体が処理されていないとすれば、きっとどこかに救急搬送されているに違いない。ラットと同じ状況だとすれば、燃やされたり、埋められたりしていない可能性がある。私は病院を探した。とても早く、何でもすり抜けることができるのを知ってからは、捜索に時間はかからなかった。窓から、病床で眠る自分を見つけたわ。バイタルは正常。けれど、身体から黒い煙を吐き続けていた。身体に触れば、中に戻れるかも知れない。でも、どうしても建物の中には入れないの。まるで、見えない壁があるように」

「招待されないと入れない、のよね」

「それは、子どもの頃に見た、吸血鬼の映画で言ってたの。もしかしたら、そんな理由かも知れない。そう思っただけだけれど、実際、あなたの会社の建物では、その通りだった」

「じゃぁ、あなたの望みは…」

「身体に、戻して欲しい」

「建物に入るには、私の助力が必要、というわけね」

「あなた…本当に、魔女じゃないの?」

「…まだ疑うか。その割には、最初は随分と下手に出たじゃない。私なら、掴みかかってるわ」

「魔女の機嫌を損ねることは、不利益しかない、と思ったのよ。それに、掴めないし…意を決して、あなたに声をかけようとしたら、あなた倒れちゃって、逃げ出して…大失敗した!…って後悔した」

 美甘さんは、落ち着きを取り戻していた、とうよりも、落ち込んでいるかのようにも見える。

 私が魔女だという確信を得て、意気込んで直接対決に臨んだのだ。無理もない。


「ところで…この部屋は、その黒い煙があるの?私には、見えないんだけれど」

 笑みを作りながら、美甘さんは部屋を見渡して呟いた。

「そうですね。黒くて、他に例えようのない臭い。霧があまりに濃くて、壁紙の色もよく分からない」

「それって、臭いの?」

「少し…嫌な臭い」

「そうっすか…」

 何だか、落ち込むなぁ。

「わかった。明日、仕事を調整してみるから。明後日、その病院へ行きましょう!」

 これは、安請け合いだろうか。

 いや、人助けだ。ここまで互いの事を話し合っておいて、もう関わらずには済まされない。

 あんな事になるだなんて、今はまだ想像もできないのだから、仕方がない。

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