第6話 幽霊さんいらっしゃい
「はぁ…」
今日は珍しく、午後8時にタイムカードを押し、そのまま帰宅することができた。
私は幽霊を連れたままスーパーに立ち寄り、308円のパックご飯(259カロリー)と、748円のトンカツ(496カロリー)を買い込んだ。缶ビールは、家にまだ2本くらいはあったはずだ。
「どうしたの?今日は色々あって、疲れたの?」
会社にいる時間の幽霊は、私から離れて社員の人間模様を観察することで退屈を凌いでいる。
「あの後、伝言にあった担当者に電話をしたら、不在だった。夜になって帰社した担当から連絡を受けて、仕事の受注が決まった」
「じゃぁ、喜ぶ話しじゃない?」
「それも、そうは言い切れないのよ…先方の社長と専務から、ネット印刷を使うように指示されたらしくて、ウチの仕事はデータ支給まで、になっちゃった」
「データ支給…だと、何が違うの?」
「売上よ!印刷、配布までを受注できれば、一回100万越え、それが年に6回のはずだった」
「…それが?」
「一回5万5千円括弧税込、年間33万円括弧税込!だだ下がりよ…」
「そっか、営業なんだものね。朝礼で言っている売上目標っていうのが、あるのね」
「最初は大変だけれど、ルートさえできちゃえば、やることは同じ。なのに、20分の1。利益だって、1回につき企画部の人件費1日分に、営業、総務、アルバイトスタッフその他に千円ずつ、って感じ」
「あれだけ時間をかけておいて、千円なの?」
「それが、今のご時世よ」
「信じられない…ブラックにも程があるよ。給料なんて、上がる訳ないじゃない」
「それが、今の印刷業界」
日本の不動産業界は、妙な和製英語を使っている。
マンションとは、本来は“大邸宅“を指す英語だ。
私たちは会社から徒歩20分の距離にある、エレベーターの無い、鉄筋コンクリート製のコンドミニアムに到着し、外階段を5階までえっちら登る。
扉の前に辿り着くと、私は幽霊が心持ちか緊張していることを感じた。
「女子の部屋に入るのは、初めて?」
「ううん、そういう訳じゃないけれど…入れてくれる?」
私はディンプル式の鍵を回し、扉を開く。
「どうぞ、お入りください」
幽霊は唾を飲み込み、軽く頷いた。
「すごい…のね…」
「何が?普通よ…てか、むしろ何もない」
「この柵は?」
「王子の脱走防止。前に逃げ出したことがあってね…あ、猫の事ね。保護猫さんなの。王子、ただいまぁ」
備え付けのモーションセンサー付きのライトが、玄関と短い廊下を照らす。
その先のリビングの暗がりに、黄緑色の光点が二つ。
「お腹減った」
「ひッ」
私は幽霊を振り返る。
「何、ネコ苦手だった?」
「い、いぇ〜。そういう訳ではなく…」
目を逸らす。
変な幽霊だ。
リビングの電気をつけると、王子の黒々とした艶のある毛並みが出現した。
「まぁ、黒猫って暗いところじゃ、全く見えないからね。驚くわよね」
「早くご飯〜、ご飯〜」
「はいはい。先に用意するから、ちょっと待っててね」
私は荷物をキッチンに置くと、エサ皿を水に浸し、水を入れ替え、カリカリとウェットを用意すると、皿を洗ってティシュで拭き取り、新しいエサを入れて王子に献上する。
「ねぇ、名前…」
「ぇ…はい?」
私は、王子がいつものように食欲旺盛なことを確認してから、自分の食材を電子レンジに放り込み、冷蔵庫から缶ビールを取り出す。
「私の名前、もう知ってるでしょ?みんな呼んでたし。小浮気 依真(コブキ エマ)、26歳独身、学生時代は吹部でした」
「吹部だったんだ?楽器は?」
「アルトサックス」
「っぽいね!」
「そうかな?あなたも吹部?」
「ううん。塾があったから、大学院でやっとワンダーフォーゲル部に入ったの」
「あぁ、登山部…的な」
「そうそう。名前は、ごめん。苗字だけで、ミカモ。美しいに甘いで、美甘です。歳は同い歳…それは言ってあったけ?薬剤師を目指していたの」
缶ビールのタブを上げると、炭酸が抜ける音がした。
私は、彼女の言葉が過去形であることに、気付いてしまった。
「…そう、なんだ。なんだか、文武両道って感じで、すごいね」
「でも、治験の手伝いとか、勉強も結構忙しいから、初夏と秋の2回しか山には行かないの。大学の敷地を歩くのが日課、かな」
私はパックご飯のラベルを剥がすと、そのまま箸を差し込んで口にほう張る。
ちょっと熱かった。
トンカツを一口噛み切り、ビールを仰ぐ。
このビールのカロリーは幾つだったか…。
「遊ぼうよ」
カリカリを半分残し、王子が催促する。
私が返事をせずに食事を続けていると、彼は膝に後頭部を擦りつけてくる。
…愛いやつじゃ。
「でも、薬剤師って目標がはっきりしてて、尊敬するわぁ。私なんて、何の目標もないまま…」
「ねぇ…」
幽霊が話を遮った。
私は缶ビールを置いて、彼女の眼差しを受け止める。
「どういうつもり?」
幽霊は正座をしたまま真剣な表情で、私に面と向かって言い放った。
「…ぇ、なん、なん?急に…」
「あなたがそういう風に振る舞うから、ずっと調子を合わせて来たけれど、ここならいいんじゃない?」
「ここなら?とは…」
「ここなら、誰も気にすることはないじゃない」
「ぇ、何、キレてるの?あなたが家に入れて欲しい、っていうから私は…」
「隠したいの?だとしたら、隠せてないわよ…」
沈黙…なんか、訳わかんなくて、イライラしてきた。
「なんなの?私だって、幽霊を家に入れるなんて、したく無いわよ!それが、何、急に?」
幽霊は目を丸くして、腰を上げた。
「はぁッ!?幽霊!?私のことを幽霊だって言うの!?冗談はやめて!信じられない!」
「えーっ!?何、まだ死んでないって言うつもり?びっくりだわ!」
「死んで無いわよ!私の体は、まだ病院のベッドの上にある!誰の所為よ!」
「…はぁ?私の所為だって…」
「あなたが魔女だって、気付かないとでも思っているの!?隠せるとでも?こんなに黒々として、ぷんぷん臭気を放つ、おぞましい霧を発しながら!」
私は部屋を見渡し、袖の匂いを嗅ぐ。
トンカツの油の匂いと、ビールの匂いがうっすら。
この幽霊は、脳死か何かで、身体を抜け出してしまったのだろうか。
いずれにせよ、幽霊の言うことなど…。
「まだ、認めないつもり?さっきから、猫と会話をしてるじゃない!普通の猫は、喋らないし、普通の人間は、猫と会話なんてしない!」
…最もな意見だ。
いや、待て、まずは箸を置こう。
「ぇ、ちょっと待って。“あなたにも“、王子の言葉が…分かるの?」
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