第4話 緊急事態です!

 つくづく思う。

 日本人はすべからく、お坊さんや住職、会ったことは無いが教会の神父さんの話よりも、稲川淳二の話を信じるタチなのだ。だから、幽霊がいても不思議では無く、それと交流することが不信心でも無ければ、悪魔の所業でも、神への冒涜にも値しない…と思うはずだ。

 そして同時に、そうでは無い人の考えも否定はできない。

 否定するのは間違いであり、増してやそれに腹を立てたところで、幸福な結果など何ひとつ生まない。

 居ても、居なくてもいいものだし、宗教観的に良いものであっても、悪いものであっても構わない。

 少なくとも、多くの情報を共有化できる時代、この国で生まれ育った私は、そう思っている。


 どうやら私にしか見えないらしい、昼間の幽霊の姿も、3日間も身続ければ慣れてくる。

 その間、彼女はカノッサの屈辱よろしく、ミナト印刷ビルの前、裸足のまま初夏のアスファルトの上に立ち続けたのだ。

 私がもし、世界の最高権威者であったとしても、インテルデッドであろうが、エクスコミュニケイトであろうが、いずれ寛容さを示して恩赦を与えるべき時が来る。確か、破門を解除した後、グレゴリウス7世は怒り心頭のハインリヒ4世によって、軍勢でさんざん追い立てられ、ついにはローマに帰れずじまいのまま崩御したはずだ。だが、彼女を立たせているのは、私の恣意的な欲求や明後日に向けられた宗教観からではない。

 単純に“恐怖“からだった。

 しかし、昼間の幽霊に対しての免疫が生まれ始めた私の心は、なんとも不憫な姿の彼女への“同情“へと、いつの間にか変貌していたのだ。


 3日目の早朝、私は人気が途絶えている事を確認してから、小声で幽霊に話しかけた。

「あの、もう止めてくれない?」

 幽霊は、私の語りかけに気付き、目を見開き、口を開け、涙を滲ませながら、こう応えた。

「ごめんなさい!私が驚かせた所為で、パンプスを落としたのに、私、拾えなくて…子どもが蹴飛ばすのを見ているしかなくて…本当にごめんさない!」

 私は自分の足元を見た。

 あの日以来、私は黒いランニングシューズを履いている。

 その理由は…今は脇に置いておく。

「そんな事を言いたくて?それなら、気にして無いから、もう忘れていいわよ」

「あの、実は、他…にもお話が…」

 私は渋い顔を隠せない。

「んんん…じゃぁ、ここで立ち話ししてても、私、変な人になっちゃうから、一緒に中へ入ったら?」

 キョトンと、大きな目で私を見る。

「ぇ、いいの?」

「いいのってか、私のビルじゃ無いし、秘匿義務のある仕事もあるけど、どうせ他の人には見えないんでしょ?三日間、誰もあなたに気付いた人はいないようだったし」

 私は総務部の二人組が出社して来たのを見て、黙って中へ進んだ。

「ぁ、わぁ!入れた!入れたわ!」

 妙に明るく、能天気な仕草の幽霊は、私の周りを飛び回りながら嬉しそうにはしゃいでいる。

 しまった…非常にやりづらい…。

 自動販売機の前に、咲間くんが同じ部署の仲間たちと共に、アニメの話をして盛り上がっていた。

 幽霊は、他の人の声も姿も、一方的に認識するようだ。

「この会社の人は、アニメが好きな人が多いのかしら?」

 咲間くんたちに挨拶を交わしてから、私はEV前の人混みから別れ、階段へと進む。

 寝不足の社員が多いこの会社では、階段を好んで使う人は極めて少ない。

「そりゃ、印刷会社だからね」

「?」

「あのさ、招いておいて何だけれど、あんまりはしゃがないでくれる?調子狂うんですよね」

 幽霊は両手を口に当てて、はっと何かを気付いたようだ。

 それから飛び回るのをやめて、廊下を歩き始める。

「仕事中でしたものね、ごめんなさい。私ったら、子どもみたいに…」

「いや、まだ就業時間は先ですけれど」

「魔女さんは、どんなお仕事をなされているのですか?」

「はぁあっ?」

 私の声が、階段に響き渡る。

「なんで、私が魔女なの?」

「…えっと、違うの…ですか?でも…残り香が…」

 幽霊は、鼻をくんくんさせている。

「ぇ、なんか私、臭ってるの?てか、私、日本人だし」

「東洋の魔女という言葉もありますよ?」

「あなた幾つよ?」

「26歳です」

「まじ…同い年…いや、違うか実年齢は…」

「実年齢で、26歳ですよ」

「平成10年生まれ?」

「はい。寅年です」

「双子座」

「牡牛座です。私の方が、少しお姉さんですね!」

「なんですと…」

 就業開始には、まだ25分もある。

 私はもう少し話をしようと、4階の踊り場に置かれた自動販売機を目指す。隣には休憩椅子も設置されているので、何かを飲みながら座っていれば、誰かに見られても不自然な印象は無いだろう。

 ビタミンCがたっぷり入った微炭酸を二つ買い、椅子に座ると、ひとつを幽霊に手渡した。

 

 ガシャン!


 小瓶は床のタイルの上で割れ、黄色い液体が泡を立てながら、広まっていく。

「ちょっ、何してんのよ!?」

「ぇ?私?」

「他に誰がいるのよ、もったいない…てか、片付けないとッ!確か、各階の廊下の端に掃除用具が…」

 私はモップと箒、塵取りを取り出し、モップを幽霊に手渡す。


 カラコロン…。


 白いワンピースの幽霊は、両手を出したまま、泣き出しそうな顔をしていた。

「もしかして…わざとですか?」

「…」

「…」

「…あぁ!そうゆうこと!?」

「わざとですよね?」

「いやいや…」

 私はガラス片を塵取りに集めながら、目を合わせずに言い訳をする。

「ごめんなさい、初めて会う人種だったので…不勉強でした。悪気はございません…ほんと」

 モップでざっと拭き取り、掃除入れのロッカーから見つけたビニル袋に破片を収容したところで、営業部の男性から話しかけられた。

「朝から掃除?何、目覚めた?ボランティア精神」

「そうです」

「何、何、偉いじゃん!どうでもいいけど。それより、部長がお前、探してたよ」

「直ちに出頭します」

「…おぅ、よろしく。てか、どうでもいいけど」

 営業はスマホを取り出しながら、すぐに去って行った。

 私は袋を手に、ロッカーを閉める。

「あの、まだお話が…」

「どうせ、バレないんだから、一緒に来たら?」

「あ、はいッ。じゃ、遠慮なく、そうします」

「でも、話しかけないでね!いい?話しかけられても、答えられないから」

「承知の介です」


 給湯室の分別ごみ置き場に袋を置き、営業部と総務部が同居するオフィスルームに入る。

 私に挨拶を交わす同僚たちに、異変はない。

 額縁に入れて掲げられた社長直筆による社訓を読み上げ、挨拶を言う。

 ちらほら、と小さな声で「おはようございます」と声が聞こえた。

 やはり、みんな見えていないのだ。


 むふッ!

 なんだ…ワクワクすっぞ!


 デスクの列を通り過ぎる際に、営業の女性の肩をかすめた幽霊は、慌てて謝ったりしている。

 私は、人差し指を口に当てて合図を送ると、彼女は深く頷き、抜き足、差し足をしながら静かに着いて来た。

 彼女の声も、誰にも聞こえていないはずなのに、ノリの良い子だ。

 私は、2年間を過ごした見慣れたオフィスが…いや、見慣れたオフィスだからこそ、この特異な状況とのミスマッチがたまらなく新鮮に感じた。

「おい、コウワキくん。ちょっと来てくれ」

 カバンをデスクに置き、私は数歩離れた部長席まで舵を切る。小野寺部長は、スマホの画面をチェックしていたが、私が辿り着くとそれをひっくり返してデスクに置く。

「おはようございます、部長」

「おはよう。コウワキ、御手洗の件だが、悪い。もう少し、預けたい仕事があるんだが…」

「あぁ…そうですか。仕方ないですね」

「いいのか、コウワキ?」

「はい」

「お前だって、手一杯だろ。クライアントのフォローを蔑ろにしてもらっては困るんだぞ」

「部下の成長の機会を、上司が奪うわけにはいきませんから。それだけ、大事な仕事を預けていただけるのでしたら、私からは何も反対する理由はありません」

「おい、コウワキ…」

「…ぁ、コブキですから」

 心配そうな顔をしていた部長が、ようやく笑顔を見せる。

「お前も、あんまり無理するなよ。身体を壊されたら、周りに迷惑をかけるんだから、その前に、遠慮なくヘルプを求めろよ」

「小野寺部長のご寵愛に感謝です」

「お…おぅ。もういいぞ」

 気恥ずかしそうに鼻を掻く部長に頭を下げると、私はデスクに座りパソコンを立ち上げ、伝言の付箋とメールの確認をする。

「部長さん、スマホゲームやってましたよ?」

 幽霊の言葉に、私は小声で返す。

「どんなの?」

「美少女たちが、お尻を振りながら銃を撃ってました」

 就業時間前に何をしようと構わないが、それにしても…男というものは、幾つになってもやる事は変わらない。

 私が口元に人差し指を当てると、幽霊は敬礼をして口をつむり、やがて手持ちぶたさなのか、オフィスの上空をゆらゆらと漂いはじめた。

 まるで、虎柄ビキニの宇宙人だ。

 しかも、誰もそれに気づかない。

 やがて朝礼が始まり、いつものように営業マンたちがそれぞれに報告をあげている中、不意に耳元で女性の声がした。

「総務の丸いメガネの女の子と、企画の顎ひげの男の子、付き合ってますよ?」

「ぇ?」

 営業マンが、報告を止めて私を見る。

「どうした、コウワキ。何か意見があるのか?」

 沈黙の中、営業マンたちの視線が私に集中した。

「…いえいえ、驚くほど努力してると、感心してしまい…」

 部長は笑顔になり、報告していた若い男性社員を労った。

「俺もそう思うぞ、よくやったな。続けろ」

 あっぶなぁ…私は耳の後ろに流れた冷や汗を、そっと小指で拭った。

 幽霊は続ける。

「総務部の額縁に書いてありましたよ。社内恋愛禁止!って。社則違反ですよ?」

 お前は恋愛警察か…。

 彼女の言っているのはきっと、十ヶ条だ。

 ミナト印刷に勤める者たちが心得るべき心情を綴った、社則の“さわり“を抽出したもの。今どき、誰もそんなことを真に受ける者はいない。社内恋愛だって、「社内でいちゃいちゃするな、目障りだ!」という程度の認識しかない。

 朝礼が終わり、パソコンで今日持ち出すパワーポイントの提案書を整え直している間にも、幽霊は社員たちの暴露話を次々と仕入れては、すぐさま私に報告した。


 企画部の宮本くんは、同じ部署に女子社員も大勢いるのに、パソコンの背景画像にエロい美少女イラストを設定している。

「これは風紀を乱し、セクハラにあたる場合があります!」

 専務の上条さん(男性)は、LINEで女性とのやり取りを延々と続けている。上条さんは左の薬指に指輪をはめているのに、その内容からして、どうやら不倫相手か、はたまた風俗嬢に違いない。

「不謹慎です!」

 社長室には、誰もいない。デスクの上には書類の束が積み上がっているが、あれはどうするつもりなのだろうか。

「これが、噂の“社長出勤“ですか?」

 朝も早くから、給湯室には女子社員が群がり、タバコをふかして噂話に花を咲かせている。男性社員は通りすがりに睨まれ、そそくさと退散するしかない。

「あれはウラバン、またはオツボネというモノなのですか?」

 ディレクターと呼ばれ、名札をつけていない高齢の男性は、デスクの足元に大量のブランデーの瓶を置いている。

「あれは、いつ飲むおつもりなのでしょうか?勤務中の飲酒については、十ヶ条に記載がないので、もしかすると許されているのですか?」


 恐るべし、姿なき警察…。

「ねぇ、ちょっと折言って頼みがあるんだけれど…」

 幽霊は私の頭上まで移動して、答える。

「はい。何なりとお申し付けください」

「そこの鉄のロッカーがあるわよね。紙資料が入っているんだけど、それの裏側、見てくれない?」

「…どうして、そんな意味のなさそうな用事を?」

「ちょっと前に、気に入っていたボールペン無くしちゃって…壁との間に、妙な隙間があるじゃない?あそこが怪しいと睨んでるんだけれど」

「自分で見てください」

「暗くて見えないし、重くて動かせないし、角度的にも無理」

「暗いのは、私も同じです」

「…じゃぁ、手を伸ばして上から、スマホで照らすから」

「そこまでおっしゃるなら、渋々ながら良いですよ」

 私はスマホのライトをつけると、胸の高さまであるロッカーに抱きつくようにして手を伸ばし、壁際の隙間を照らした。

「ギャァッ!」

 幽霊の悲鳴に、思わず飛び上がった。

「何、してるんすか?」

 受付嬢兼庶務の女性スタッフ、みっちゃんが、呆れ顔で私につぶやく。

「いえ…何でも。予想通りと言うか、知らない方が良かったというか…」

 受付嬢の小娘は、言った。

「好んでニッチに集まる者なんて、ろくな連中じゃないですよ」

 どうした、みっちゃん!?


 私は腕を組み、天井を徘徊する幽霊を見上げた。

 ちょっと、初めての体験に浮ついていたけれど、私には違和感があった。

 最初に得た彼女の印象は、もっと人見知りで、距離感のある…さらに言えば、陰鬱なイメージ。

 しかし、今の彼女は、どこか無理をして明るく振る舞っているように感じる。

 まだ、出会って間もない。誰とも会話ができない時間が、長くあったろう。

 気の所為だろうか…。

 私の機嫌を取ろうと、必死になっているようにも思えるのだが…。

「もう出るわよ。ここにいる?」

「一緒に行きます!」

 彼女は両手でガッツポーズをつくり、即答した。


 道すがら、私は幽霊に向かって、いちいちその場で報告しないように、と注意する。

 その内容が、妙に興味の湧くことだけに、集中力が途絶えて仕方がない。

 それに、個人情報を盗み見ている、という罪悪感もあった。


 電車で二駅移動し、私はアポイントをもらっていた新規見込み客の広報戦略室に出向き、新商品紹介のためのコンテンツについてプレゼンを行った。

 パソコンを先方のプロジェクターに繋ぎ、パワーポイントの画面と、紙資料とで丁寧なプレゼンができた、と思う。

 だが、20分間のプレゼンの手応えは、微妙な反応だった。

「おたくは印刷会社ですよね。このYOUTUBE動画の制作については、外注で処理するおつもりですか?」

「いえ、私どもの会社では、動画の撮影、編集にも力を入れております。専属のカメラマンに編集スタッフ、さらには市街地での撮影資格も有するドローン撮影スタッフも一人、在籍しております。ご覧いただきました企画内容は、全てワンストップにてご提供が可能となっております」

「B全ポスターについては、御社ではできませんよね?」

「これは、お詳しいですね。弊社のことを深くご理解いただいておりますこと、感謝いたします。ご指摘いただきました通り、B全の印刷は提携会社にて委託させていただきます。長年取引のある、信頼できる会社でありますが、仕上がりには十分、目を光らせますので、どうぞご安心ください」


 印刷物というものは、印刷機が一台あれば、全て対応できるというものではない。ミナト印刷が所有している印刷機は、新聞折込などの大量印刷のために造られたB判の輪転機と、近年需要が拡大したA判の輪転機だ。小ロットの印刷物には、どちらもコスト面、小回りの速さでは向かない。特に厚い紙を使用する大判ポスターにおいては、印刷する事は不可能だ。サイズの大きな紙を給紙できる、B全サイズの平台、または枚葉と言われる印刷機が必須となる。

 とはいえ、印刷機は数千万から億までする高価な設備だ。メンテナンス費用もバカにならない。全ての印刷機を中小企業が取り揃えることなど、土台無理な話。それゆえに、印刷業界では横の繋がりを持ち合い、メイン商材でない印刷物に関しては、協力企業に委託生産してもらう。


「だから、ですね。やはり…」

「やはり…とは」

 立ち会った先方の一人…確か、経理部の人間だ…が、パソコンの画面を見せた。

 ネット印刷会社の価格表だった。

「全体的にお高いのですが、特にポスターの印刷代は、3倍もします。なぜ、ですか?外注費に上乗せしすぎなのでは、ありませんか?」


 冗談ではない…ポスターの値段がネックになるのは分かっていた。だから5%しか利益を乗せていない。一度クレームを起こせば、今後の仕事の大半がリカバリで消えてしまう利益でしかない。


 ここは踏ん張らないといけない。

 利益を多く乗せていた、なんて理解されては、今後の切り込み口を閉ざされてしまうことになる。

「ネット印刷は、大量の仕事を受注し、納期の期間中に面づけできる商品を寄せ集め、一度の印刷工程で複数の仕事を同時に済ませて工賃を安くしているそうです。また、印刷工の賃金も抑えられるように、熟練工の経験に頼らない、新しい設備の性能に頼ったサービスです。私たち、地域の企業様たちと共に共存共栄の道を…」

「地域貢献は、企業にとって大事なメテナです。しかし、品質管理、賃金の適切化は、怠ってはならない企業努力の要なのでは?それによって、高いサービスを低価格で提供することこそが、経済競争の原点ではないのですか?」

「メセナです」

 経理担当者は、片眉を上げて「あっ?」と唸った。


 営業の仕事において、クランアントの個人的な発言内容について、ミスを指摘することはタブーだ。

 クライアントからは、尊敬されなければならないが、賢くある必要はない。

 頼りになるけれど、少しお馬鹿、程度が丁度いい。

 だが、私はあえて、そこを指摘する。

 価格面で壁を壊すことはできない。ここで、経理担当者を味方につけることは、もはや至難の業だ。価格も大事だが、サービス内容にこそ投資する価値がある。ここに同席するのは、彼だけではない。プロデューサーをはじめ、営業担当、商品担当が一人ずついる。

 ここは彼らに、バトンを預けねばならない。


「古くは、ローマ時代。アウグストゥスの左腕と言われた、マエケナスが起こした運動にまで遡ることができます。メセナ運動は、人類の経済活動において、欠かせないファクターです。どうせ、お金を払うなら、より意義のある使い方をしたい、多くの人がそう考えるからです。その考え方は、私たちも、同じなのです。ですから、品質向上、多角的な戦略のご提案、スピーディーなレスポンスなどの企業努力によって、地域に根ざすクライアント様たちに付加価値のあるサービスを展開して参りました。この度のご提案内容も、営業、企画、撮影部隊、動画専属部隊など、多くのスタッフたちと共に時間をかけて練り上げた、自信のある内容となっております」

 私は、他のスタッフらの瞳を順に見据えながら、声に力を込める。

「決して、ご期待を裏切るような反響には、終わらせません」

 経理担当者は、大きな音を立ててパソコンの画面を閉じた。


 このプレゼンの後、今日は一旦、会社へ戻る。

 帰りの電車の中、私は深いため息をついた。

「印刷代って、そんなにお値段が違うの?同じものでも?」

 幽霊が、私に問いかける。

 電車の中には、昼間でも4割程度の乗車率がある。

 私はコードレスイヤホンを取り出すと、スイッチを入れないまま耳に差し込んだ。

「下手をすると、安い方が品質は高かったりする」

「…どういうこと?」


 昔は、熟練の印刷工が現場を仕切り、刷り上がりの色を何度も確かめ、絶えず機械の微調整をしながら機械の周りを駆け回っていた。

 いわゆる、職人の世界だ。

 その頃から給与は安かったらしいが、スキルが高く、ある程度の年齢にある者だけに一任されていた技能職だけに、それでも一定の給与基準は担保されていた。有能な者には、常に転職先のアテがあり、場合によっては引き抜きがあるからだ。有能な者を雇用し続けるには、満足する金額を渡す必要がある。

 だが、それは昔の話だ。

 この二十年の間、印刷機の性能は向上を続け、ついには“自動色補正“の機能を獲得する。

 印刷された紙を画像で識別し、それを入稿データと比較して、出来るだけ忠実な再現となるよう、機械がインクの出具合を自動調整するという機能だ。

 インク量の調整は、非常に難しい。色が重なると紙が胴版に巻きついてしまったり、網点が潰れてしまったりする。さらに、回転するブランケットに対し、スポット的にインク濃度を調節することは難しい。 

 自動色補正は、難解であった作業を経験の浅い人間にでも行わせることを可能にした。 

 その結果、熟練工は姿を消し、安価な労働者が取って代わることとなった。


 革命がもたらす、陽の当たらない、闇の部分。


「下手を打ったのは分かってる。指導権を奪うため、感情を逆撫でしてまで、あの人の口を封じた。でも、私がいなくなった今ごろ、他の担当者たちに何を言っているものか…感情は難しい…なるべく敵を作らないでいたい。もし、2回戦が約束されていれば、今回は引き下がって根回しに徹することもできたけれど、次のアポは取れていない。ちょっと焦りが前に出てしまった」

「男の人は、感情よりも理屈を優先するものだから…案外、うまく行ってるかも」

「あなた、みんなの後ろを回って、ノートパソコンやメモ帳を覗いていたわよね?他の人の反応はどうだった?」

 幽霊は顔を曇らせた。

「…何、言ってよ」

 さらに、困った表情へと変わる。

「ぇ、な、何?逆に言われないと、もう済ませられないし」

「若い人たちは、真面目にメモを取っていたけど…一番偉そうな人、いたでしょ?」

「あぁ、プロデューサーね。あの商品のブランドビルディングやら販路の確保まで、ひとまとめに請け負う役職の人らしい」

「…ぐるぐる」

 幽霊は、人差し指をくるくると回した。

「は?」

「メモ帳に、たくさんの渦を描いていた」

「…」

 私は後頭部を電車の窓にぶち当てた。

 驚いた隣の人が、変な目でこちらを見る。

「終わってるじゃん…悩むだけ、無駄だったわ」

 あー、徒労だった。

 私はイヤホンの電源を入れ、スマホで音楽を再生させた。

 アルセナールの軽快な出だしが、一瞬で世界を包む。

 ノイズキャンセラー付きのお高いイヤホンが、今の私にとって何よりも有り難い。


 電車を降りて、スマホを取り出した私を、幽霊が呼び止めた。

「ちょっと、聞こえないの!?ねぇ!大変よ!」

 私はイヤホンを外して応える。

「あなたの声って、テレパシーじゃなくて、響きなの?」

「知らないわよ。それよりも、カバン、忘れてる!」

「え、あるけど…」

「二つ、持ってたじゃない!」

 あっ、パソコンだ。今日のショルダーでは入らないので、別のモバイルケースに入れていたのだ。確か、背もたれに…!

「まずい、まずい、まずい。社外秘よ!クライアントの配布計画やら、価格の記載された原稿データが入ってる!取り戻さないと!」


 広告関連のデータは、基本的に社外秘だ。次に新聞折込される大手スーパーの価格がリークされるようなことがあれば、競合他社はそれを1円でも安く設定するだけで、断然優位に立てる。バイヤーたちが必死に市場調査をして、仕入れ価格を交渉し、やっとまとめた販促計画が、一発で台無しになってしまう。

 そんな事態にでもなれば、ミナト印刷の信用も丸潰れだ。


「えっと、えっと、駅員に相談してから、電車を追いかける!」

「私、先に行くね!」

 白いワンピースを風に靡かせながら、幽霊はものすごいスピードで電車を追って行った。

 瓶もモップも、それに私のパンプスすら掴めない彼女が、電車に乗れるのはおかしい。

「そうか、電車よりも早く移動できるのね…いやいや、それは後で考えるとして…」


 えらいこっちゃ!

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