第3話 深夜の共同作業

「えっと…お部屋に入れていただく、なんてことは?」

 愛想笑いを浮かべながら、控えめな質問をする幽霊に、私は首をぶるんぶるんと横に振った。

「…ですよねぇ。ごめんなさい。あ、夜は、やっぱり怖いですよね?またお昼に、お会いしましょう!今晩は、これで失礼します!」

 気弱そうな印象の、少しだけ茶色い色のロングヘアに、明るい色の瞳、白い肌に白いワンピースの女性は、そう言い残すと、すぅ…と消えてしまった。

「…できれば、二度と現れないで…欲しいです」

 誰もいない通路を見つめながら、私はつぶやいた。


 …どうしよう。怖くて家に帰れない…。

 私は唾を飲み込んで、あたりを見渡す。

 夜道をヒールを鳴らして歩く、誰かの足音。

 遠くで、車のクラクション。


 いや、帰らねば。

 王子にご飯をあげて、私は会社に戻って咲間くんの校正を見なければならない!

 私は意を決すると、パンプスが入ったエコバッグを振るい、誰もいない空間を“お祓い“しながら、急いで扉の鍵を開けて、中に滑り込んだ。


 すぐさま鍵を閉める。


「おかえり。ご飯は?」

 王子が逃亡防止柵の向こうで、すでに私を待っていた。

「はいはい、今すぐに!」

 手を洗うと、空になったエサ皿と水皿に水を入れて、流し台に置く。

 乾いたエサ皿は、少しつけておかないと、食べ残しが貼り付いて、取りづらい。

「早く、早く」

「はいはい、ちょっとだけ待ってね」

 冷凍のチャーハンを平皿に盛ると、ラップをかけて電子レンジに入れて5分にセットした。

 そして遮光カーテンを閉めると、スーツを衣紋掛けに吊るし、シャツと肌着をいそいそと脱ぎ、新しい肌着とTシャツを着込み、デニムのテーパードパンツを履く。

 脱いだものは洗濯機に入れて、洗剤を少し入れてすぐに回しておく。

 さぁ、次はエサ皿を洗い、こびり付いたウェットフードを擦って落とし、ティシュで綺麗に拭いてから、測りの上に皿を乗せ、カリカリを15g、ウェットフードを10g乗せて、入れ替えた水と共に、大人しくお座りして待ち続ける王子に提供。

 TVの電源を入れて、水をマグカップに注ぐと、半分ほど一気に飲み干す。

「自由国民党の総裁選が迫る中、新垣総理は記者団に対し、改めて前向きな意欲を示し…」

 ニュースキャスターは、最近話題の国会の話。 

 王子はウェットフードをあっという間に完食し、次にカリカリを喰む。

 彼は私と違って、好きな物からいただく性格なのだ。


 なんか、普通の事してる…私。

「最近、外によからぬ者が、彷徨いている。もし、出会っても相手にするなよ」

 王子が、マスカット色の瞳で、こちらを見ていた。

「…何か、知ってるの?」

 サイレントでにゃーとひと鳴きすると、王子はソファの上に移動して毛繕いを始めた。 

 カリカリは半分ほど、残っている。

 ピー、ピー、ピー、ピー。

 電子レンジが、しつこめのお知らせ音を鳴らした。


 校正というのは、原稿と違いが無いか、全体としてクライアントの意向に沿っているか、などの他に、文字の入力ミス、日本語として正しいか、原稿のミスを訂正できているか、などを一語一句までチェックする作業の事だ。常用漢字かどうか、広告基準から逸脱していないか、など他にもいろいろある。

 普通に読むよりも時間がかかるし、数字や漢字の誤変換のチェックなどは根気が必要で、二人で読み合わせながら行うのが、ミナトのルールだ。

 そう、大事なことは、二人で行う“共同作業“だということだ。

「…そこで最も重要なことは、点、山宮、マウンテンに神宮のぐう、さんのおっしゃる通り…」

 一人で行うならば、見た目を比べるだけだが、二人で読み合わせする場合には、人名などが面倒だ。しかし、今夜の校正は私にとって至福のご褒美タイム。

「オッケー、まだ三箇所もあった。直して、机の上に置いておくから、明日受け取ってくれ」

 この校正を、社内では“内校“と呼んでいる。

 修正が終わったそれを持って、私は明日クライアントの元に届けて、再び校正をお願いするのだ。先様による校正は、クライアントとのダブルチェックにより、ミスの確率を低めると共に、たった一文字の誤変換によって、ただでも低い利益からさらに、値引きなどのペナルティを一方的に被らないための、免責も兼ねている大事なしきたりだ。何より、発注主にしか分からないミスも存在する。掲載する商品やサービスのプロは発注主であり、私たちはその情報をより分かり易く、良いイメージで、多くの人へ届けるプロだ。商品知識やサービス内容、業界ルールをいくら理解しようと努力しても、やはりその道のプロには敵わない。

「お疲れ様。別部署にもメールで送りたいそうだから、面倒だけどPDFでも貰える?」

「了解。社内LANに載せておくよ」

 もう深夜だというのに、嫌な顔ひとつせずに、いつも爽やかな応対の咲間くん。イケメンを通り過ぎて、もはや神の領域にも迫っている。

「ありがとう…ところで…」

 私は、彼が営業部から去る時間を引き延ばすため、世間話を持ち出した。

「咲間くんは、総裁選になんか、興味ある?」

「ごめん、まったく無い」

「だ、だよね…TV見てる時間なんて無いしね」

 いかん、新聞の購読もやめてから、世間一般的な情報源が無い。

「じゃぁさ、幽霊なんて信じるタイプ?」

「なんだよ、それ」

 咲間くんは笑顔で首を振ると、逆に話題を振ってくれた。

「そういえば、猫を飼ってたろ?保護猫だっけ?元気か?名前は…」

「王子!むっちゃ話しかけてくるの!」

「そうだった。写真あるか?」

「あるある!ちょっと待ってね」

 ひとつのスマホを二人で覗き込む。

 シャワーで汗も流したし、歯磨きもしてある!

 完璧だ!

 グッジョブ、私。

 グッジョブ、王子。


 深夜2時4分、私は自宅へ戻るとソファの上で横倒しの姿勢で眠る、王子の頬を撫でた。

「王子、ウチに来てくれて、本当にありがとう」

 今日は、幸せな夢が見れそうだ。


 それから6時間と26分後、私は会社の前で待ち伏せる、昼間の幽霊に再会した。

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