第2話 印刷屋さんの日常

 異常事態だ!

 とにかく、走って立ち去った。

「あ、待って!」

 声が聞こえたが、幽霊に待ってと言われて、素直に待てる人間がいたら教えて欲しい!


 がむしゃらに走って、駅近の人だかりにまみれたところで、ようやく片方のパンプスを失っていることに気がついた。レギンスも破け、足の裏に血が浮き出している。

 通行人が、痛々しそうな目で私を見る。

「痛ぁ…仕方ない」

 周囲を見渡しても、靴屋など無い。すると、運が良いことに…というよりも、珍しいことに空車のタクシーが通りかかった。

「新橋方面で靴屋さんに行ってください」

「修理屋さんなら、すぐそこにあるけれど」

「いえ、新しく買うので、なるべく大きいお店がいいです」


 無難なデザインの黒いランニングシューズを選んだ。

 パンプスはエコバッグに仕舞う。

 親切な女性の店員さんが、私の足をみて絆創膏をくれた。

 タクシー代1,420円、靴代5,800円、念のため領収証をもらったが、どういう理由で会社に請求したものか…安月給の私には痛い出費だ。

 だが今は何より、このままでは打ち合わせに遅れてしまう。

 先様は担当者の他に、広報部長と常務まで顔を出すと、言われている。今日のために、スケジュールを調整しておいてくれたのだ。ここで私が「幽霊に襲われて遅れました!」なんて、“妙な理由“で遅刻する事は、社会人として許されない。

「よぉし、元吹部の肺活量を舐めるなよ」

 私は新橋駅までダッシュした。


 午後3時12分。私は通りすがりのコンビニで、たまごロール170円(348カロリー)と揚げ鶏240円(185カロリー)を購入し会社に戻った。

 注意深く辺りを見渡すが、幽霊の姿はない。

 道の端に、私のパンプスが寂しげに落ちていた。


「なんだったんだろう…幻覚?疲れてるのかなぁ〜。はぁ…もしかすると、こうやって、うつ病になるのかも」

 まだ日中ということもあり、営業部のデスクは空きが目立つ。

 本当は禁止されている、デスクでの遅い昼食を摂りながら、私はスマホでうつ病の症状を検索する。

「頭痛、めまい、吐き気…暴力的な行動…ないないない!」

「どうしたの?悩み事?」

 突然、声を掛けられてびっくりの私。

 誰の声か、すぐに分かった。

「おぃ、たまご落ちたぞ?」

「ぅぅ?」

 咥えていたたまごロールを噛みちぎり、私は膝の上の白く四角い物体をティシュで摘み上げた。

「ありがとう、どうしたの?」

 声が若干、うわずる。

「今日、入稿予定だろ?何時ごろにまとまる?」

 ツーブロックの髪を茶色に染めた、私と同い歳のこの男性社員は、企画部にいるグラフィックデザイナーだ。私が新規にとってきた仕事の、データ制作を担当してくれることになっている。首から下げた社員証には、“咲間 蓮(サクマ レン)“という文字があった。

「んと、見積りが終わったら、すぐに取り掛かる」

「それは、何時ごろに終わるのかな?」

 オフィスの時計を見て、作業ボリュームを思案する。

「…3時間後、くらい?」

「6時ごろか、オーケー。他にも仕事があるから、先にそっちをやっておくよ。今日は校正まで見るつもりかい?できるのは、おそらく12時過ぎるけれど」

「大丈夫、待ってる。他にも急ぎの仕事があるし」

「あと、奥村が画像を早くよこせと言ってた」

「大丈夫、すでに入手済み。合間にチャチャっとやっておく」

 咲間くんは腰に手を当てて、眉間に皺を寄せた。

「あんまり、無理するなよ。明日でいい仕事は明日すればいい」

「大丈夫。仕事溜めるとストレスだし。それにウチみたいな会社は、スピードを失ったら競争力なんて残らない」

「そっか。お前が社長でなくて、本当に良かったよ」

 あ…爽やかな笑顔。

 去り際、その後ろ姿を見つめていた私に、彼は急に振り返った。

「その靴いいな。最近は、スポーツシューズを履いた営業も多いしな。それに…」

 彼はデスクに隠れたスラリと長い足を、ひょいと持ち上げて私に見せる。

「俺とお揃いだ」

 私はデスクの上からファイルを掴み、急いで顔を隠す。

 彼は私の反応を見る間もなく、手を上げながら営業部を後にした。


 鶏肉を齧りながら、私は見積りソフトを立ち上げる。

 この会社の総務部システム管理課が作成した、オリジナルの計算ソフトだ。仕入れ単価などが予め入力されていて、計算が便利な上に、受注が決定した際にはそのまま作業進行書の作成までできる。

 印刷の見積りは、意外にめんどくさい。

 配布計画に基づき、一度に印刷する枚数を決定し、その仕上がりサイズによって、必要な紙の量を割り出す。ミナト印刷の工場には、B縦半裁サイズの輪転機が3台と、最近導入したA全の輪転機が1台ある。アルファベットは用紙の規格サイズ。半裁は全紙の半分、という意味だ。A4サイズならば、A判の全紙に8面つく事になる。今回は一度に5,000枚しか刷らない予定だ。だから、全紙は予備を含めて750枚必要となる。星の数ほどある用紙から、A2コートの57.5kを選ぶ。この場合のA2は、品質を示すグレードで、k数は全紙1,000枚の重さを表す。A判57.5kは、四六判というサイズで換算すると90kに相当し、昨今のネット印刷の流行りで発注率が高くなった厚みの紙だ。それのk単価を掛ければ、用紙代が算出できる。

 次は、刷版代。これは印刷機の版胴(ドラム)に巻きつける金属製の板だ。小ロットでは紙製の物も用いられる。ここにインクを乗せ、次にブランケットという筒に転写し、紙にインクを写す。これは色数の分だけ必要となり、両面フルカラーの場合は8つ計上する。

 次は通し単価。サイズ、色数、枚数によって一銭単位の単価が決められていて、ここから通常のインク代や印刷工の人件費などをまとめて計算できるようになっている。

 さらに次は、工場の利益となる工程管理費、営業部の利益となる営業管理費、企画部の利益となる版下代が加わるが、版下代にはサイズ、作業ボリューム、画像補正の難易度、点数、撮影代、外注費など仕事の全体像が見えている担当営業にしか分からない、微妙な匙加減が求められる部分だ。


 私は、印刷代にあたる部分だけの総額が分かると、ソフトをブランクにしてネット検索を始める。

 ネット印刷のホームページを開くと、値段は一覧表となっており、すぐに価格を確認できた。

「アホらし…」

 社内見積りソフトの割り出した金額よりも、一桁少ない金額が表示されている。

 これが、現在の印刷会社の“戦況“なのだ。

 印刷業界は、10年ほど前から、産業革命のイギリス、革命直前のロシア帝国の時代を再現している。巨大資本を持つ大手企業の独走。働き手の賃金低下。ハイスキルな印刷工の姿は、もはや無く、画像認識で印刷品質を機械が担保してくれる。

「まったく、憎たらしいっ」

 私の脳裏には、ネット印刷会社のTVCMで笑顔を振り撒く、人気女優の顔があった。


 印刷工の人工代と工場の維持管理費、印刷機のメンテナンス代に目を瞑り、自社の印刷機を用いずにネット印刷に発注したとしても、外注費に利益を乗せないわけにはいかない。人件費云々の前に、そもそも税務署がそれを見逃さない。利益を乗せた分だけ、クライアントが直接依頼する場合とは差が生まれるのは自明。

 この不利な戦況を挽回する手段があるとすれば、それは付加価値サービスに他ならない。

 例えるならば、独自に開発したアプリの提供、ビッグデータを背景とした情報分析による経営戦略支援、人気俳優を有したプロダクションとの親密なコネクション…それら、IT企業や大手広告代理店のような戦略は、我がミナト印刷では選択肢として存在しない。

 だから、個の努力でそれを賄うしかない。

 なんなら、チームで臨んだっていい。

 しかし、それには“労力“…言い換えれば“時間“を要する。

 念入りな配布計画と、時間をかけてブラッシュアップされた素晴らしいデザインを提供するため、今日も私たちは徹夜同然でなんとか、この仕事量をこなすのだった。


 ポスティング業者から提供された資料を元に、パワーポイントで製作した配布計画案と予算案を、先方の担当者へメール送信すると、オフィスの時計は夕方4時42分を指していた。

「やばいやばい」

 デスクの引き出しからネルドリップタイプのコーヒーを一つ、ポッケに突っ込むと、急いでトイレで用を済ませてから、給湯室に向かい、ホットコーヒーを煎れる。足早にデスクまでカップを運ぶと、咲間くんに渡すための原稿まとめに取り掛かった。


「疲れた…」

 誰が見ても分かるように、符号を当てて整理した原稿を渡すと、ラフ案からの修正の要望を咲間くんに伝える。すると彼は「善処する」と、気持ちよく承諾してくれた。

 ちなみに、我が社の社員の間では、“善処“とは、こういった使われ方をする。

「ちょっと、気力・体力的に厳しい作業内容だが、仕事なので断りはしません。しかし、多少の遅れがあっても、大目に見てもらわないと、こっちもやってられないからね!」


 無慈悲な時計は、夜8時5分前を指す。

 私の作業が遅れた分、校正上がりは深夜1時ごろになるだろうか…。

 今日の私の目標は、それまでにイベント配布用のノベルティグッズの案を量増しすることだ。

 先方の担当者は、急がないとは言ってくれたが、同時に相見積りを取るとも言っていた。

 価格面での努力には、限度がある。

 ここはやはり、競争相手に先んじて提出することにより、迅速な対応と親身な姿勢をアピールしたい。サービス面での戦術が、営業としての腕の見せ所なのだから。

 私は覚悟を決めるとタイムカードを打刻し、一度帰宅することにした。

 夕ご飯を節約するためと、乙女の気配りとして入浴を済ませること、そして何より重要なのは“王子様“の晩御飯だ。


 大あくびと、びょーんと伸びをする事が日課の王子は、保護猫施設でお迎えしたオスの黒猫だ。

 年齢は定かではないが、施設のボランティアさん曰く、おそらく5歳程度。

 お迎えしてから2年。最近はすっかり、おもちゃで遊ばなくなってしまい、育ての親としては王子の成長ぶりを感じる反面、いささかの寂しさもある。

 電気時掛けのネズミのおもちゃでも、買ってみようか…などと考えながら、築26年、家賃9万6千円のワンルーム賃貸マンションの階段を5階まで登る。

「しまった…王子のおもちゃの事、考えすぎた。冷蔵庫に何があったっけ?コンビニ寄れば良かったかなぁ」

 独り身が長くなると、独り言が多くなって困る。

 !?

 私は通路を進み始めたところで、腰を抜かして手すりに寄りかかった。

 自分の部屋の扉の前に、女性が立っていたのだ。

「ごめんなさい!」

 女性は私を見つけると、勢いよく120°のお辞儀をした。

 彼女は、昼間出会った、透ける人間…“昼間の幽霊“だった。

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