印刷屋と黒猫と魔女
小路つかさ
第1話 プロローグ
これは夢だ。
中学校の芝生の上で、私たちはスキップを踏みながら腹式呼吸の練習をしている。
まるでアフリカ奥地の秘境に住む、閉鎖的な民族に古来より伝わる、伝統舞踊のようだ。
あまり、みっとも良いものではない。
バスケットボールを小脇に抱えながら、その人は私たちの仕草を物珍しそうに見ている。
同級生の和子が言った。
「やばい、変な人たちだと思われてるよ…これきっと」
皆、苦笑する。
「ほら、話さない!呼吸に集中!」
顧問の“女軍曹“が手を叩いて、部員たちを叱る。
もう、あっち行ってよ…。
私がそう思うと、まるで念が通じたかのように、その人は踵を返して立ち去ってしまう。
その横顔が、少し微笑んでいたように思えた。
それが、私が初めて、その人を意識した最初の出来事。
その人は、光の中へと歩き出し、光に包まれ…消えてしまう。
目覚まし時計の電子音で、私は目覚めた。
レースのカーテン越しに、朝の白い光が瞳に襲いかかる。
寝坊防止のため、遮光カーテンは開けっぱなしだ。
あの頃ほど起床時間は早くないものの、歳を取るたびにベッドに居る時間は短くなり、朝の日差しに感じる憎しみは増加傾向にある。
今日も始まってしまった。
夢を思い出す…。
オンタイマーをセットしたTVが、朝の海外ニュースを伝え始める。
電子音では目覚めない私だが、人の声を聞くと意識がはっきりし、覚醒することができる。
社会人の知恵の一つだ。
あの頃に知っていれば、髪をセットする時間の短さに、泣きをみる事は少なかったかも知れない。
…ダメか、当時の自分の部屋にTVは無かった。
「いかんッ…二度寝…するな!」
身体を回転させて、自堕落な自分をベッドから滑り落とす。
「ごはんは?」
四つん這いになった私の顔の側で、黒猫が毎朝恒例の催促をする。
「はいはい、王子様。今すぐにッ…」
私は立ち上がると、大きく息を吸ってエンスト寸前の脳に酸素を送り込んだ。
『次のニュースです。アメリカ大統領選は、接戦の末、僅差でウーノ氏の当選がほぼ確定なものとなりました。ウーノ氏を巡っては、裏金問題、セクハラ疑惑、公文書偽造など多くの疑惑を抱えたままの当選となり、任期中はこれらの問題は免責特権により一時、棚上げとな…』
スーツに着替えた私は、TVの電源を切り、猫に語りかける。
「お留守番お願いね。行ってきます」
ごはんを半分ほど平らげた猫は満足そうに、顔を拭いている。
それで顔がキャットフード臭くならないのか、いつも心配になる。
私は、マンションの部屋に鍵を掛け、会社に向かった。
港区にある会社は、ワンルームの賃貸マンションからは徒歩圏にある。
わざわざ近い場所を選んだのだ。
理由は、“毎日、家に帰って風呂に入れるように“、だ。
社員200人ばかりの印刷会社が、私の職場だった。
私はそこで、営業をしている。
一度目の就職先は保険会社、そこでセクハラに遭い、上司に訴えたら居づらくなってしまった。
24歳でここ“ミナト印刷“に転職し、2年が経つ。
営業の仕事、と一言で言っても幅は広い。
それは一つの商品を売るのではなく、さまざまな業種のクライアントのサービス内容を、より安価に、より早く、より効果的に売れるように仕向けるのが仕事だからだ。
さらに、業務を複雑化させる要因がある。
今や、印刷会社といっても、口を開けていれば仕事が舞い込んでくる訳ではなく、増してや印刷一本だけでは、会社経営は成り立たない時代となってしまったからだ。
私の今日の仕事は次の通り。
まず、タイムカードを押す。
受付兼庶務担当の女性、みっちゃんと挨拶を交し、スチール製の古めかしいデスクが並んだ、雑然としたオフィスに一礼して侵入。
滅多に顔を出さない社長が書いたらしい、ありがたい“社訓“を小声で読み上げ、自分のデスクに辿り着くと、一番下の引き出しにカバンを詰め込んで着席する。
次に、夜勤の残した付箋メモをチェックする。
“画像手配今日中で! 企画 奥村“
“フレックスします 10時出社予定 営業 香取“
“商品の差し替え メールチェックよろしく 東都商事 ツドリ様“
「何度目だよッ」
ノートパソコンを開き、メール、LINE、チャットの履歴を確認。
社内LANに書き込んであった、今日1日の行動予定を修正。
そして、朝礼。
営業部長の小野寺と面と向かう形で、営業マン16名が眠そうな顔を並べる。
今月の目標に対し、今日現在の売り上げ見込み達成率、新規開拓の進捗状況、既存客からの新規案件の掘り下げ状況などを報告する。
「…本日、10時にその件で打ち合わせに行って来ます。あと、香取くんは今日もフレックスです」
私の報告の後、小野寺部長が口を挟んだ。
「そうだ、コウワキ。今日の午後に御手洗と同行が入ってたろ。それ変更な。後日、再調整にしてくれ」
「待ってください、引き継ぎは今月20日の予定ですよね?先様の都合もあります。もう時間が…」
「引き継ぎは別に来月でも大丈夫だろ?俺の仕事を手伝ってもらう。先方へは、後日また改めて、と伝えてくれ」
また、これだ。自分のクライアント優先で、他人のクライアントを軽んじている。もう、私の担当する仕事は目一杯で、フォローし切れないから新人に仕事を分ける話だったのに。どうせ、部長の渡す仕事はクソだろう。
「…分かりました。なんとか、角を立てないように説明しておきます」
「あぁ、頼む」
「それと…私の名前はコブキです。小浮気依真(コブキエマ)ですよ。どうしてミタライはすぐに覚えて、二年も経つコブキを覚えてくれないんですか」
「いやぁ、気に入ってるんだよ。コウワキが」
男性陣がふっと鼻で笑った。
「では、以上で朝礼終わり。今日も一日、頑張ろう!」
早口に部長が号令をかけ、営業マンたちは自分の仕事に戻る。
私もデスクに戻ってカバンを取り出すと、前日の深夜までかけて準備しておいた紙資料のファイルと、ノートパソコンを突っ込む。
「ごめんね、コブキくん。俺、来月から生活便利本の立ち上げがあるからさ、手一杯になるのよ」
部長が、小声でご機嫌を取りに来た。
「私も手一杯なんで、引き継ぎの件、お願いしますよ。お客様に不便をお掛けしたくないので」
部長は両手を合わせて、拝むようにしながらウィンクをする。
…気持ちが悪い。
だが、なんとなく憎めないその素振りは、さすがは部長になるほどの営業マンだ、と言ったところ。
「10時なんで、行って来ます」
「頼んだよッ。コウワキ様、様さまだよ」
ちッ…。
今日の仕事は企画内容の擦り合わせが2件、見積り内容の折衝が1件、引き継ぎ先延ばしの交渉が1件。それが終われば、ポスティング業者の見積りを集めて、地図と配布件数一覧表との睨めっこで作る、配布計画立案。ノベルティグッズの提案資料のかさ増し。
そこらで早めにタイムカードを押す。
それからはフライヤーの原稿をまとめ上げて、企画部のグラフィックデザイナーへ渡す“内職“の時間だ。
今日も終わる頃には、電車は無いだろう。
TVは日々伝える。
やれ、昇給だ。
やれ残業時間削減だ。
それは、利鞘がある一部のIT企業だけの話。
私にとっては、ドラゴンが空を飛ぶファンタジー世界のおとぎ話と少しも変わらない。
以上が、私の今日の仕事内容である。
会社を出た私は、パンプスのヒールを鳴らしてアスファルトの歩道を進む。
シェア方式の営業車の用意はあるが、都内の移動は車では時間が読めない。
さらに、駐車場代が高すぎる。1日に4〜5件の打ち合わせが、それぞれ30分から2時間程度。利鞘が落ち込む一方の印刷業において、15分300円は痛い。月次決算の精算のために領収書を出せば、すぐに経理課が苦情を述べに飛んで来るのだ。
そして、居眠り運転の経験が、何度もある。
これら諸般の事情により、私は荷物が手に余ることがない限り、電車と徒歩で向かうことにしている。
「駅まで6分、9時24分発に乗って35分着。そこから16分で着くから、ギリ1本乗り過ごしても大丈夫ッ、よし!」
スマホで時計を見ながら歩いていた私は、その人物に気が付かなかった。
はっと目を上げた瞬間、その人物と目があった。
クリっとした茶色い瞳。
少し眠たげな、長いまつ毛。
透き通ったような白い肌には、小さな「ぉ」の形をした、ぷっくりとした化粧っ気のない唇が付いていた。
「ごめんなさい!」
ぶつかったッ…と思った。
止まり切れずに、二、三歩よろめいて、私は振り向いた。
その人物も、白いワンピースの裾を広げながら、私を振り返る。
「やっぱり、私が見えるのね!?」
歳の頃、二十代前半。
国道の青信号が、その身体を透かして見えていた。
「わ、どうしよう…」
こんな時、人の声は棒読みになるらしい。
私は、“昼間の幽霊“に出会ってしまった!!
これから一週間、私は非常に異常な緊急事態に翻弄される事になるのだ。
滅多に取れない有給休暇までを消化して!
すべてはこの、昼間の幽霊に出会った瞬間から始まっていた。
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