ジビエ屋『やまと』の新年度

@dorodoroguba

第1話

 春の匂い、というのは確かにある。田舎町であればなおさらである。

 地方都市からさらに外れた三方を山に囲まれた農業の町、大和川町でもそれは例外ではない。

 4月中旬、爬虫類や両生類が,人間の膝の高さまで茂った新緑のカーペットの隙間から顔を出し、田畑がうるおい、稲や葉野菜の苗が植わり始める。

 生命の息吹の季節。

 国道から外れて、車で田んぼと畑の間を縫うように進んで約25分。新緑の植物が両側からせり出すような中をかろうじて舗装された山道を、落ちた枝と葉を踏みしめつつ走る。すると、山の麓にバレーコート程度の広場がある。

 その奥側に位置する、森林と接するように建つ建造物。

 ベージュの壁色に、黒柿色の三角屋根。屋根近くに据えつけられたウォールナット製の一枚板に白字の看板。『ジビエ屋やまと』と記されたそれは、遠目には誕生日ケーキに載せられた名前入りのチョコレートプレートを思わせる。

 この施設で働く一人の若者が、今日も業務に勤しんでいた。

 ジビエ解体の専門家見習い、八幡浜草介(やわたはま そうすけ)の朝は早い。職業柄、年配の猟師に生活リズムを合わせざるを得ないからである。午前7時、始業と同時に作業に取り掛かる。

 馴染みの猟師から仕入れたばかりの牝鹿。まずは吊り下げ式の体重計で個体の重量を測る。

 38㎏。

 ダニを弱らせるため、その全身にくまなく熱湯を浴びせ、肉質を落とさないようすぐに流水にくぐらせ、綺麗になった個体を解体台に乗せる。解体台は中心線に向かって傾斜がついている二つ折りテーブルのようになっており、個体を仰向けに固定しやすい構造になっている。

 湯引きして毛を取り除いた牝鹿の正中線に沿って、腹の皮にナイフを滑らせる。紙のように薄い腹膜を割くと、血色のよい薄緑色の内臓の匂いが鼻を突く。が、悪い気分にはならなかった。

 今度は腹膜の内側から首元まで刃を入れる。自分の手のひらよりも幾分高い温度を感じる。まだ死後硬直も始まっていない。鮮度の良さを示す何よりの証拠である。

 うん、こいつはうまい肉になる。駆け出しの草介でも、その少ない経験からもすぐにわかるほどの質の良さだ。

「近藤さん、今日もありがとう。これも上物の肉になる」

 草介は作業の手を止めて背後を振り向き、礼を言う。

「お前も大変やんね。ほら、差し入れのジュース。置いとくよ」

 言いつつ、近藤はなぜかブラックの缶コーヒーを少し離れた作業台に置いた。

 近藤は、今処理している雌鹿を施設まで持ってきてくれた『やまと』お得意様の猟師である。松野山市屈指の名ハンターである彼は、『やまと』の営業日はほぼ毎朝獲れたての質の良い個体を持ってきてくれる。

「いつもごちそうさまです。頑張ります」

 草介は丁寧に礼を言った。

「また、獲れたらよろしくね」

「こちらこそ。よろしくお願いいたします」

 挨拶を交わし,近藤は運転席に乗り込んだ。

 先ほど牝鹿を載せてきた軽トラのエンジンが鳴り響く。乗り込んだ御年72歳の近藤は、無言でサイドミラー越しに親指を立てつつ、軽トラを春風に乗るように穏やかに走らせていった。

 いつも首に巻いたタオルと麦わら帽子がシンボルの、目尻のしわが深い老夫。狩猟者の多くは彼のような農業従事者であり、春先は農地の整備や苗植えなど、やることは山積みのはずである。きっとこの後も農作業で忙しいのだろう。

 草介は軽く手を振って近藤さんを見送る。軽トラの駆動音が、鬱蒼とした緑色のトンネルのような林道をこだましていき、やがて消えた。

 手際よく解体を進める草介の手が、ふとしたきっかけで止まる。

 丁寧に割いた鹿の腹の中。普段手袋越しに触れた、腸のそれよりも明らかに柔らかい水袋のような感触。

 これまで300体近く野生動物の解体をこなしてきた草介にはすぐに分かった。

 胎盤の感触である。無意識に見ないようにしていた牝鹿の下腹部は発達し、膨らんだ部分から白色の液体がたっぷりと滲み、股下に滴っている。濃い匂い。

 早くしなければ肉質が落ちる。仕事人として、そちらのほうがよほど憂慮するべきことである。

 わかっている。わかっている……。

 草介は軽いめまいを覚え、しばし眉間を抑えた。

 個人的なためらいなど、この仕事においては邪魔でしかない。一刻も早く処理を行わなければ、この個体の食材としての価値が下がってしまう。しかし、草介の手は、もはやそう簡単には動かなくなっていた。脳みそをめぐる血液が少しずつ少しずつ、凝固しているかのように感じる。頭が無意識に深く考えることを拒否しているが、この牝鹿の身体がどういう状態かなど、深く考えなくても十分理解できてしまう。

 草介にとってこの仕事で得られるやりがいと楽しさは、確かに大きい。しかしそれ以上に、この作業は確かな苦痛を伴うものとなりつつあった。

 春の日差しと草の匂いが漂う爽やかな空気の中、草介の気分は急速に沈んでいく。

 これからどれだけの期間、ここで仕事をすることになるのだろう。

 作業中の考え事は、ミスを招く。ついナイフを操る指先に力が入りすぎてしまう。

 しまった、と思ったときには既に遅い。ナイフの切っ先が破いた膜の隙間から、粘り気のある液体が勢いよく溢れる。それは胃や腸で満たされた腹腔を満たし、さらに溢れて鼠径部に接したモモ肉のあたりまで滴ってしまう。

 子宮膜を破いてしまったのだ。血管が濃く浮き出た赤紫色の被膜から何かが覗いた。

 草介はそれを視認し、すぐに目を背けた。当然それは、鹿の胎児だった。被膜から覗いているのは、ほんの握りこぶしほどの大きさしかない仔鹿の頭部だった。

 春風が、『ジビエ屋やまと』周辺の土地を撫でていく。

 穏やかな日差し。柔らかな風。それらとは対照的に不穏にざわめく雑草と田畑は、嫌な汗をかいた草介の背筋で逆立った産毛と連動しているようだった。

 しかし、解体はすぐに再開しなくてはならない。草介は恐る恐る、その姿を再度確認する。

 眼にほとんど白目がなく、眼球全体が曇った灰色をしている。当たり前だが、生気はまるで感じられない。しかしその眼球が持つ眼球は、突然ぎょろりと動いて目が合うという嫌な想像を草介にさせるのに十分な生々しさを備えていた。

 俗に鹿の子模様と言われる斑点で覆われた全身が、粘性の高い液体に包まれている。もうほとんどの体組織が完成し、すぐにでも震える脚で立ち上がりそうに見える。

 もう間もなく生まれるはずのその個体は、草介にとって、生命の神秘そのものが顕現しているようにも、地球外から産み落とされた不気味な生命体のようにも見えるのだった。

 言うまでもなく、草介にとってはこんなもの、見たくもない。

 今回だって手さばきに狂いがなければ、自分の目に触れる間もなく、他の内臓もろとも黒ゴミ袋に詰めて廃棄する手はずだったのだ。

 人間の暮らしが大きな代償の上に成り立っていること。それを無理やり直視させられることを好む人間などいないのだから。

 ◆◆◆


 都市、社会、人為、加工、文化、弱さ。それらはいずれも『自然』の対義語であると自分が考えるようになったのはいつからかだろうか、とふと草介は考える。

 仔鹿は、人類の赤ん坊と違ってたくましい。そして、強かである。仕事で獲物と直に関わると、つくづくそう思わされる。

 人間の場合だと、ひたすらに泣いて寝転がってハイハイを習得してようよう掴まり立ちをする――ここまで成長するのに実に半年以上はかかってしまう。

 では、仔鹿はどうだろうか。自身の四肢で立つだけなら、要する時間は産まれてものの数分である。かと思えば、歩行すらも1ー2時間で習得してしまう。

 生まれてこの方四半世紀になんなんとし、ようやく仕送りなしでの生活に慣れつつある草介は、人間社会の中ではまずまずまともな『自立した個体』であると言えるかもしれない。しかし、野生動物の自立スピードはその比ではない。

 鹿は、早くて1年でさっさと親元を離れてしまう。さらに、遅くて2年で性成熟が完了し、繁殖が可能になる。

 そこまで育ってしまえば、あとはどんどんと殖えるのみ。牝鹿のうち過半数に年数を乗算すれば、加速度的に個体数が増加することが目に見えている。実際、二ホンジカは本州を中心として、着々と分布域を拡大しているらしい。

 柔らかい新芽は、殖え続ける彼らの栄養源として欠かせない。

 そして厄介なことに、人間へ植物たちがもたらす利用価値の有無など、彼らの繁栄に関係ない。

 農家の貧窮も、木材の枯渇も、生態系の破壊も、彼らには関係ない。


 草介が勤める『ジビエ屋やまと』は、愛媛県松野山市指定の獣肉加工施設である。

 約10年前に、国からの補助金を含んだ何千万という多大なる予算を投入して建てられた。

『やまと』で行われる仕事は簡単に言えば、『猟師から受け取った獣を加工して、ジビエ料理の材料にする』ことである。施設内の清潔区域で精肉されたイノシシ肉やシカ肉は、県内外の飲食店や獣肉専門の卸業者へ発送される。

 愛媛県松山市の大学を卒業後、県内の企業に新卒で入社した草介は、自ら進んでこの施設での勤務を志願した後、経験の浅い中一人で切り盛りすることとなったのである。

 ◆◆◆

「あ———、しんどっ」

 心にかかった靄を、愚痴に変換して吐き出す。一人で切り盛りする職場はそれなりに大変だが、いくつか利点もある。そのうち一つが、周囲を気にせず思ったことを大声で口にしても、誰にも迷惑がかからないことだった。

 鹿の屠体を屋内に移動し、専用のワイヤーで逆立ちに吊り下げたそれから毛皮をはぎながら、草介は考える。

 自分の仕事は、この屠体を速やかに解体・精肉し、人々へおいしいものを届ける手助けをすること。

 この場合、人間は奪う側。主力製品となるシカとイノシシは奪われる側。

 ではなぜ、彼女らは奪われる側となったんだろう。

 それは、人間と野生動物の生活圏が隣接していて、かつ彼らは僕ら人間の資源を奪うからだ。

 領土拡大をめぐる国同士の小競り合いと対して変わらない。この場合、国境警備隊にあたるのが近藤のような優秀な猟師である。

 草介は黙考する。ただし、手は止めない。悶々とした気持ちに邪魔されているこの遅々とした作業を、まずは手早く進めなければならない。でも、いい加減、心に残る混合ゴミのような考えを分別しておかなければ、前向きに作業を進められない気がしてきている。

 しかし進むのは、堂々巡りの思考ばかりだった。営利企業の一員として一銭の得にもならない、野生動物への同情。

 草介は自分の呼吸が浅くなっていることに気が付き、深く息を深く、長く吐き出してみる。

「つらいよぉ……胎児とかを産業廃棄物扱いするのは……さすがに精神的にクるって……」

 作業を止めないまま、草介はぼやき続ける。誰かに聞かせる台詞ではないから、明瞭に発音する必要もない。衛星管理のため装着した不織布マスクの内側から、牛のよだれのように細く長く絶え間なく、愚痴がこぼれては宙にただよっていく。


 草介は近頃、出勤を重ねるたびに息が詰まるような気持ちが増していた。

 草介だって理解はしている。自分からのぬるい情けなど、ジビエを食べたり仕入れたりしてくれる消費者にとって、どころか目の前の鹿の母子にとってすら、何の足しにもならない。

 ジビエの質の良さは、仕留めた直後2時間以内の処理で決まる。近藤さんがこの鹿にとどめを刺してから、既におよそ45分が経過している。

 草介は自問自答する。

 僕は何者だ?ジビエ解体人だ。

 渇ッ!草介はがなり声で鋭く叫び、気合を入れる。

 ナイフの丸刃を丁寧に研ぎ直す。

 社会人としての役割は果たさなければ。草介は思い直し、姿勢を正す。

 奪われた側の彼らを肉にし、人間の糧にするのが、自分の仕事だ。

 お世辞にも高くない我が国の食料自給率を維持するうえで、純国産の天然飼料から生み出されるジビエは、もはや重要な資源と言って過言ではないのだ。

 上質な肉を値段を気にせず腹いっぱい食べることができるのは、国内ではもはや、余程の上澄みの富裕層か養鶏従事者か猟師だけである、と草介は耳にしたことがある(畜産業になると、1頭あたりを育てるコストがそれなりに高くなるため商品には手を出しにくいらしい。どこまで本当かは知らないが)。

 腓腹筋(ひふくきん――人間においてふくらはぎにあたる筋肉)あたりまで剥いだ鹿の生皮を、せいやっと力を込めて引っ張る。服を脱がすようにメリメリと屠体から剥がれていくそれの下から、若いワインのような深いルビー色の肉が現れる。

 肉焼けによる脱色も見られない。草介の見立て通り、精肉すれば渋谷の高級レストランでも十分に通用する鹿肉になるに違いない質の良さである。

 強く匂う乳房は、なるべく目に触れないように切り取って廃棄する。乳の匂いと味が濃すぎて、うまく調理できる料理人を選びすぎる食材であり、それ故に安定的に販売するほど需要がないのである。

 枝肉となったそれを、ミートペーパーに包んで専用の冷蔵庫内に吊るして冷やし始める。この上物の一頭分の肉がどの程度売上を底上げするかを値踏みすることで、草介はようやく少し気が楽になった。

 一休みしてから昨日搬入した個体の精肉をしよう。草介がそう思って一息つこうとしたその時。

 ブロロロ……背後から、年季の入った駆動音がした。

『やまと』の敷地内に、法定速度ギリギリのスピードを保ったまま闖入する1台の軽トラ。

 ブオンとエンジンをふかし、ドリフト。ギャギャギャッと敷地に残されるタイヤ痕。

 そのまま草介と解体台のある位置にバック走行で近づいてくる。

 この車体操作、間違いなく彼らである。常連様を出迎えるべく、草介は扉から外へ身を乗り出す。

 草介はげんなりした。軽トラの荷台に、針で突いたら弾けそうな程に腹を膨らませた猪が1頭積まれていたからだ。牝猪――加えて、陰茎がない。まだ突き出ていない乳頭。

 こいつも母親になる直前だったのか———草介は、たった今奮い立たせたばかりの根性が萎れていくのを感じた。

 軽トラの運転席から壮年男性が、と助手席から若い女性が降りてくる。どちらも上下に濃紺の作業着姿である。

「朝から、なんかしみったれた顔してるね」若い女性が首を傾げつつ、草介に声をかける。

「……しみったれた顔、ね」草介は苦笑する。

「おはよう。お世話になります」壮年の男性は、既に気心知れた草介に対しても、丁寧に挨拶をした。

 松屋紳助(まつやしんすけ)と松屋甘夏(まつやあまなつ)は、精肉原材料仕入先の常連である。本業である中規模の食用米とトマトの栽培の傍ら、猟師として週3回程度はシカやイノシシを『やまと』に搬入してくれる。

「猪、ちょうどさっき取れたやつ。いける?」紳助は問うた。

「はい、喜んで!今、体重測りますね」草介は、萎れた笑顔でそう答えた。

 施設の搬入口近くには、搬入個体の体重を測るためのクレーン式荷重計が設置されている。ワイヤーホックを猪の軽トラの荷台から下ろした大柄の牝猪を引きずって、手際よく荷重計の真下まで運ぶ。この作業だけでも、慣れていない者は腰を抜かすこともある重労働である。

 牝猪の両後ろ脚にワイヤーフックを取り付け、荷重計に結びついたハンガーの両端にひっかけた。ハンガーには滑り止めの突起があり、個体を吊ったままバランスを安定させるようになっている。

「何キロだと思います?」草介は紳助に問う。その声は、先ほどよりも少しだけ元気を取り戻したものだった。

「……62キロかな」紳助は、丸々と太った牝猪の腹をじっと見定めて、目測を口にした。

「もうちょいあるんじゃないですかね?僕は66で」草介の数値予想には、少なからぬ自信が含まれている。

 壁に設置されたスイッチを操作すると、よりあわされたワイヤーがモーターの駆動音とともに巻き取られ、牝猪の身体を逆さまにキリキリと吊り上げていく。秤のメーターが上昇していく。

「66.2㎏か……ほとんどドンピシャだ。さすがやね」

 メーターを一瞥した紳助は、感心して舌を巻いた。

「僕は紳助さんみたいに大物を仕留めることはできませんからね。ささやかな特技です」

 草介は誇らしげに、微かに胸をそらした。

「ねえ、人間の体重もわかるの?」甘夏がおずおずと訊いてくる。

「いや、わかんねえよ。四足歩行と二足歩行じゃ筋肉のつき方が違うし。なんで?」

 年下の彼女に対しては砕けた口調になる。問い返す草介。

「いや、別に。もしわかるなら女性の敵だなこいつ、と思って」軽口を叩く甘夏。

「そんな嫌な特技身につけたくねえわ」草介は軽く笑った。「人間にとってもこいつら野生動物にとっても足しにもならん」

 草介にとって何気ない一言で、甘夏の顔が曇る。

 市役所へ提出するため、獲ったばかりの獲物の記録写真を撮る紳助。

 その傍らで牝鹿の解体作業を再開しようとする草介にかける彼女の声には苛立ちが含まれていた。

「……なんかさ、その、野生動物に対して慈しむみたいな言い方、やめない?害獣だよ、そいつら」

「……」

「そいつらに田畑を荒らされてる私ら農家のほうがよっぽど可哀そうだよ」

「……ああ、ごめん」

 草介は言葉少なに謝った。彼女と目線が合わないよう顔を背けつつ肩をすくめる。

 どうも、今日の甘夏はご機嫌斜めなようだった。元からシカやイノシシなどのいわゆる害獣に対して慈悲をもたない子ではあったが、今日はどうやら特に言葉選びに気を遣わなければならない日らしかった。先ほどの発言だって、それほど野生動物に肩入れした意見でもなかっただろうに。

 草介は奥手な青年である。団体行動も、周囲との連携もあまり得意なタイプではない。自分以外の人間が何を考えているかを推し量るのが苦手だからだ。

 価値観を表に出さない人間との会話は正解がなく、出口が見えず、疲れてしまう。

 しかし、直情型の彼女との付き合いもそれなりの長さである。さしもの草介にも予想がつくというものだった。

「また、田んぼやられたのか」

「……うん。全部いなくなればいいのに」甘夏はたまった鬱憤を拳に乗せ、ちょうど腕の届く場所にサンドバッグの如く吊るされている牝イノシシの腹を殴った。

「何してんだバカ。ダニに食われるぞ」

 草介が、彼にしては珍しく声を荒らげた。

 彼はまだ経験が浅いとはいえ、ダニを媒介する病原菌の危険性くらいは良く知っていた。

 町内で年に何人か常連の猟師が、普段の健康ぶりにそぐわない急な高熱を出していることも。

 去年度に、そのうちのいくつかが訃報に変わってしまったことも……知っていた。

「やめなさい。それはもう先方の大切な商品だ」普段の朗らかさとは打って変わって、凄みをたたえた険しい顔をしている。「もう少し自分の行動に責任を持ちなさい。お前は今、その畜生どもと同じことをしてるんだぞ」

 特に、後半の台詞がこたえたらしい。甘夏は殴るのをやめ、足元の小石を思い切り蹴とばすことでやりきれない思いを表した。

 ただし納得はしていないらしく、口をへの字に曲げている。

「まあお父さん、その程度で鬱憤を晴らすのは問題ありませんよ。お気持ちはわかりますし」

 草介はひとまず甘夏へのフォローを入れる。しかし彼もまた、紳助の台詞にははっとさせられたのは事実だった。紳助の仕事人としての固い矜持のようなものに少しばかりの感銘を受けたのだ。

 すなわち紳助は、『いかなる事情があっても、他人様の商品に手を付けるのは悪だ』と言っているのだ。例えそれが動物の屠体でも、農作物であっても。

 例えそれを行うのが、法も言葉も通じない野生動物であったとしても。

「帰ろう、父さん」甘夏はふてくされたまま、草介に別れの挨拶もせず軽トラの助手席に乗り込んでしまう。

「悪いね、草介くん」

 娘の様子など見もせずに、紳助は草介に詫びを入れる。

 その様子は、娘に関心がないとか、わざと冷たい態度をとっているとか、そんな振る舞いでないことが草介にはなんとなくわかった。彼女がどの程度怒っていて、いつ頃怒りが収まって、どんな風に機嫌が直るのか。それらについて既におおかたの予想がついているから放っておいて大丈夫だと判断したのだ。見ているものがそうとわかるほど、紳助の振る舞いには余裕があった。

 なるほど、これが父親という生き物の風格か、と草介は感心してしまう。

 いくらホモ・サピエンスであることが共通していても、生き様が違えばもはや生物種すら違うといっていい。これは草介の持論だった。学者からは鼻で笑われるに違いないが。

 自分のような若造と紳助さんとでは、もはや生物種が違う気さえしてくる……。

「草介君、いつもありがとう。また獲れたら、よろしく頼むよ」

「はい、今日もありがとうございます。それから、これを」

「ん?ああ、先月ぶんね。どうもありがとう」

 草介は胸ポケットにしまっていた茶封筒を紳助に手渡す。

 封筒の中身を確認する紳助。中には、一人暮らしの草介が1か月分の食費を賄える程度の金額が入っている。「うん、確かに。まいど」

「では、いつもどおりこちらの領収書にサインを」

「ほい」

『やまと』では、生体重に特定の係数を掛けることで個体の買い取り金額を計算しており、それは猟師にとってそれなりに割の良い小遣い稼ぎになる。。特に常連の猟師に対しては、月末締めでまとめられた支払金額は月数万円となることも珍しくない。また、それとは別に、捕獲者には鳥獣被害防止計画に則って駆除委託代金が国と市から支払われる(正確には国と市から支払われる金額は違う事業計画によるものだが、話がややこしいので割愛する)。この事業計画の仕組みは、商品を食い荒らされた農家や林業の従事者が仕事の傍ら被害額の何割かを取り戻せる仕組みとして、今のところうまく機能している(少なくとも草介にはそう見受けられる)。

「あとこれ、差し入れのジュースね」紳助が草介に無糖のコーヒーを差し出す。

「あの、前から聞きたいと思っていたんですが」

「うん、私に答えられることなら。何?」

「なんでこの町の方々は、ジュースと称して無糖のコーヒーをくれるんでしょうか?もらえるのはありがたいのですが、これをジュースと呼ぶのはなんというか、特殊な文化では?」

「……なんでだろう?わかんないや。子供の時からそうだったからね」

「……生まれついての習慣って、なかなか変わらないですよね」

「甘夏にしてもそうなんだ。あいつは、私がこの町に移住して農業をはじめてから産まれた子だからね」

「ああ、そうなんでしたっけ」

「奪われる限りは、それより多く奪い続けるしかない」

「……え?」

「甘夏が産まれてからも、私は何度もそう言い続けてきた。娘に言って聞かせていたつもりはなかったんだけどね。ただ、子供は大人が漏らした些細な言葉を集めて積み上げて,価値観を自分のものにしてしまう」

 幼少期の経験はその人物の人格形成において非常に大きな部分を担う、というのが定説らしい。心理学に疎い草介もそのくらいは知っていたし、その説は正しいと、実感を伴って信じていた。

 草介にも心当たりがあった。

 草介がまだ幼少期の頃の父の姿が、彼の社会人へのイメージを強く決定づけた。

 すなわち、労働はすべからくつまらない。だからどれだけ自分にストレスをかけずに働き続けるのかが重要である、と。

 大手広告会社の事務職として働き続けた彼の父が毎朝のように心の底からつまらなさそうに玄関をくぐる姿は、一滴一滴コップにたまり続ける水滴のように、積もり積もって、草介の価値観に多大なる影響を与えてきた。

 対人ストレスの温床のような都市部の働き口に興味が持てず、片田舎の小さな事業所を配属の第一希望に選んだのも、今思えば、父親のような働き方への抵抗から来るものだったのかもしれない。草介自身もその理由に、働き始めてから気付いたものだった。

 紳助は、独白するように続ける。

「彼らの生活には国がなく、貨幣もなく、ヒトが使える言語もない。だったら、私たち農家に残されてる手段は、戦争しかないんだろうね」

 紳助の台詞には、確かな重みが伴っていた。

 綺麗ごとで取り繕うことをやめた人間の言葉にしか生まれない重みだと、草介は思った。

「ねえ草介、」

「……はあ?なんでしょうか」

 言いたい台詞を辛うじて呑み込んで、草介は一応丁寧な言葉で応対した。

 甘夏は年下で生意気な娘だが、『やまと』においては大切な取引先なのだ。

「大人の牝の鹿、入ったんでしょ?子供、おなかの中にいた?」

 草介は先ほどの不愉快な経験を思い出す。自分の眉間に自然としわが寄るのを感じた。

「ああ、まあ。入ってたよ。それが何か?」

「買い取ることってできる?」

 衝撃的な問いだった。と同時に、甘夏の意図が透けて見え、草介は嫌な予感がした。

「……どうして、そんなこと聞くの?買うつもりなのかい?」

「うん。鹿のハラコの毛皮は、野生鳥獣の中でも一番綺麗らしいんだよ。なめして、売り物にしたいの」

「母親のほうも、綺麗な鹿の子模様だったよ。今後はいってくる個体もそろそろ夏毛に蠅変わる頃だし、そっちにしたら?」

 草介は、そう促した。甘夏はお客様である。冷静に、対応する必要がある。

 草介のそんな思惑とは裏腹に、廃棄用のゴミ袋に手を伸ばす。中には、先ほど摘出した内臓と胎児が入っている。

「いや、傷も脱毛もないのは、ハラコにしかない特徴だから、胎児のほうを買いたい。今、ハラコには値がついてないんでしょ?だったら――」

「駄目だ!」草介は、叫ぶように甘夏を制した。自分でも驚きだった。

「……何?」甘夏は、面食らったようだった。草介の過剰な反応が、何に起因するのか測りかねているようだった。

 当然かもしれない。草介にも、うまく気持ちが整理できていないのだから。

 ひととおりの駆除記録作業を終えた紳助は、二人のやりとりを目を丸くして見ている。

「……胎児は今、売価が決定してない。売ることはできない」

 草介は、絞り出すように返答した。

「いつ価格が決まるの?決まれば、買えるんでしょ?」

「さあ」草介の態度は、素っ気ない。

「……? あっそ」甘夏の反応も、自然と素っ気なくなってしまう。

 草介は、早いところ話題を変えてしまいたいと思った。

「あの、紳助さん」

「うん?」

「最近、鹿肉食べてますか?」

「んー、あんまり食べてないなあ。鹿は調理が難しめだし、獲れたら食べるより『やまと』に引き取ってもらった方がお金になるし。どうして?」

「じゃあ明日あたり、夜に時間空きませんか?」草介は食い気味に応えた。「お肉、ご馳走しますよ」


 ◆◆◆


「で、なんであんたがくることになったの?」

『やまと』にて甘夏ときまずいやりとりを経た翌日の夕刻。

 松屋家の敷居をまたいだ草介に、上下ジャージ姿の甘夏はすげない態度で出迎えた。しかし態度とは裏腹に、少しだけ声が弾んでいる。

「急な話だったから、掃除するの大変だったんだけど」

「いらっしゃい。仕事で疲れているだろ。入って、掛けてね」

 対照的に、紳助は温かく迎え入れる。

 松屋家は田舎にありがちな、2階建ての立派な日本家屋だった。草介がインターホンを押し、促されるままガラス張りの引き戸を開けるとすぐに2人が出迎えてくれた。二人の立つ板張りの廊下の位置が、アパート暮らしの草介にはやけに高く見える。

「紳助さん、今日は急にすみません。これ、約束の肉です」草介は甘夏の軽口を歯牙にもかけず、薄いビニール袋に入った肉の塊を紳助に手渡す。

「おお、ありがとう。すまないね、ごちそうになるよ」紳助は、無邪気ににっこりする。「今日は徒歩だろ?ゆっくりしていってね。安いやつだけど、ワインもあるんだ」

「……ありゃ、お見通しですか。ちょうど飲みたかったんです」

「赤は鹿肉にも合うしね」

「せっかくなので、気合を入れて鹿レバーの佃煮も作ってきたんです」

「ありがとう……今夜の晩餐は優勝が確定したな」

 今日のささやかな贅沢を思い浮かべた成人男性組は固く掌を握り合い、ご満悦である。

 その横で甘夏は、草介が手渡したビニール袋を物色する。

「なんで大人たちは未成年のことを考えず下準備するんだ……」

 中身が鹿レバーの佃煮と鹿肉しかないことを確認し、悲しげに乾いた笑いを漏らす甘夏。

「なんだ。人が善意で持ってきたものに対して、その言い草は」

「なんか、チョイスがオヤジすぎる」

「そりゃ、お前にワイン飲めとはいってないよ」

「私は何を飲みゃいいのさ。せっかく普段食べないお肉が食べられるのに」

「ええ……麦茶とかじゃない?知らんよ」

 甘夏のイチャモンに、草介は困惑した。彼女は、こんな風につっかかってくるタイプだっただろうか。

「そうじゃなくて、ワインみたいな、『普段は飲まないけどちょっと贅沢したい日に食事と一緒に飲みそうな』感じの飲み物、何かないの?。鹿肉と相性のいいやつ」

「下手に凝ったもの選ぶと、食べ合わせ失敗するからな。麦茶か水で十分だよ。赤ワインが、例外的に赤身肉と相性が良すぎるだけで。あと3年、楽しみに待ちなさい」

「私は今日の夜の話をしてるんだよ。どうせなら、飲み物もそれっぽいものがいい」

「あーもううっせえな。レッドブルでも飲んでりゃいいじゃん」

「いいわけないじゃん。逆にどんな食事と食べ合わせがいいんだよあのドリンク」

 軽口を甘夏と言い合いつつ、草介は料理の準備に入る。持参した三角巾とエプロンを身に着け、「紳助さん、すみませんがまた台所お借りします」と声をかけ、奥の部屋に向かう。台所と食卓がまとまっているその部屋には、しっかりとしたつくりの木製の黒テーブルと黒椅子が置かれている。6人はゆったりと座れそうなテーブルの長辺に向かい合うように置かれた2つの椅子は、少しの寂寥の念を草介に与えた。

 鹿肉の下準備を始める。今回使うのは、鹿肉の中でも一番良い肉――背ロースである。2本でたっぷり800g、そだち盛りの女子高生と男性肉体労働者の胃袋のキャパも怖るるに足りない、十分な量を用意している――これほどの量の高級食材かつ高級部位を、『やまと』から独断でちょろまかすことは許されない。すなわち、草介の自腹だった。小売価格にして、4000円也。

 この肉の火入れを失敗することは許されない――絶対に。予想外の出費により重みを奪われた我が財布に誓って。

 草介は武者震いをした。

 事前に草介宅にて筋膜を除去し、岩塩と黒コショウをすりこんで下味をつけてある肉塊は、既に室温に戻されている――時は満ちた。

「マッシュポテトと一緒に肉も焼いてから持ってきてくれれば良かったのに」

 甘夏が草介の背中越しにひょっこりと顔を出した甘夏が、台所の

「ねえねえ、どんな風に焼くの?」

「……今話しかけるな。茶ァしばいて待ってろ」

「ひぃ……」

 草介の背から湯気のように立ちのぼる殺気に、甘夏は軽く呻いてからおとなしくなった。

 草介からすれば、鹿肉に火入れをしてから長く置くことなど言語同断である。

 万死に値すると言ってもいい。

 火入れ直後の、一番うまい肉の食感と濃厚な味。肉のうまみの最大瞬間風速が口腔内を駆け巡る、あの感覚。一度それを味わったら、焼きあがった肉を放置するという結論には至らないはずである。火入れ直後の旨みと柔らかさは、焼き上がりの瞬間から失われ続けるのだから。肉質のしっかりとしたジビエにおいては、特にそれが顕著である。鹿肉を直接納品したカジュアルなイタリア料理店で接待を行った際に感じた哀しい気持ちを、草介は思い起こす。商談自体はうまくいっていたのだ。しかし、取引先社員の前で白い大きな皿の上で、添えられたソースと共に冷え、肉汁が失われていく鹿肉のソテー……。ラストオーダー通知をきっかけに、「うまいうまい」と言いつつ頬張る先方に、当然だが、「鹿肉のうまさはそんなもんじゃねえよ出されたらさっさと味わえ料理人と鹿の命に敬意を払え馬鹿野郎」と怒鳴りつけるわけにはいかない。感じた憤りと哀しさの内訳には、商談が互いにとってうまく進む中でさりげなく食事を勧めることができなかった自責が多くを占めている。

 甘夏を無知だと責めることはできない。調理用の鹿は流通量が少ない上に高価で、一般家庭で調理する機会にはそうそう巡り合えないのである。

 だからこそ今日は自分が、食材としての鹿のすごみを教えてやるのだ。草介は決意を固めた。

「甘夏。楽しみにしときな」草介は、背中越しの甘夏に「食わせてやるよ――最高の肉」

「……はん?なんか言った?」

 甘夏はヘッドホンを外しつつ、そう返す。手にもつスマホでは、Amazon Primevideoアプリが開かれている。

 草介の熱意は彼女に一ミリも届いてはいなかった。

「いや、何でもないです」

 草介から雑念が消えた。調理を再開する。

 ◆◆◆

「ねえまだぁ?」甘夏が業を煮やして草介に訊いた。

「……」草介はじりじりと音を立てるオーブンを睨んだまま、何も言わない。

「ねえまだぁ?」シャワーを浴び、酒と肉にありつく気満々の紳助も、草介に訊いた。

 酒のことになると急に振る舞いが子供っぽくなるのが紳助という男である。

「……お待たせしてすいません。もうすぐです。あと、ほんの……」

「もう15分以上やってるよね?肉焼くのって、そんなに時間かかるの?」

 甘夏は、不思議半分呆れ半分といった様子だった。

 下処理を施された肉はフライパンで全ての面に強火でしっかりと焼き目をつける。こうすることで肉汁の逃げ道をなくすのが,肉を焼く際の基本である。その後、内側に火が通らないうちに肉を引き上げ、アルミホイルに包んで

 調理工程は、ここからが長い。

 1分間加熱してはオーブンから肉を取り出し、アルミホイルに包んで2分休ませる。

 これを計6回繰り返す。

「すまん。先に、冷蔵してある佃煮と、自分の白米を皿に盛り付けててほしい」

「わかった。気長に待つよ」甘夏は承諾した。

「うまい料理に待ち時間は付きものなんだぜ」

「は?なんか言った?」

「すんません。何でもないです」

「黙って集中してね」

「……はい」

 草介は黙ってオーブンを見つめる。甘夏も黙って手を動かした。

「いちゃいちゃすんなよ」まだ酒を飲んでいないはずの紳助の口数だけが、何故か増える。

 ◆◆◆

 かくして出来上がった鹿背ロースのローストは、誰の目から見ても抜群の仕上がりとなった。

 大皿に乗った2本のでかい肉。草介が刃を入れると、断面が美しい桜色となっている。それでいて、肉汁が血の色をしていないところがミソである。

 円柱状の肉を厚めにカットしていく。計15切れの小さめの厚切り肉が並んだ。

 鹿肉の繊細な旨みを失わず、食中毒の心配もない。

 ――完璧な一皿だった。

 その皿を前にして、取った反応は三者三様だった。

 草介は誇らしげに胸を張った。

 甘夏はSNS投稿用の写真を撮った。

 紳助はようやく酒が飲めると小躍りした。


 かくして、三人の酒地肉林(健全な意味で)の宴が始まった。


 ◆◆◆

 腹をさすると、膨れた胃袋の感触が掌にまで伝わってくるようだった。

「最高だね、鹿肉」となりの部屋のソファに寝そべり、甘夏は満足そうに言った。「ちょっと誤解してたよ。今まで、火を通しすぎて固くなった鹿肉しか知らなかったから」

「わかるよ。俺も最近まで知らなかった」

「今日はおいしい肉をありがとう。うまかったよ」

 筆舌に尽くしがたい肉のうまさに、各々が舌鼓を打つ。800gの肉は、余すことなく3人の胃袋に収まった。そのうち約半分は甘夏によって消費された。

「むつこくないから、いくらでも食べられるしね」甘夏が賞賛する。

「赤身肉の味が濃くてうまい」紳助も絶賛した。「焼き方さえ覚えれば、今後は『やまと』で受け取れない場合には、自分たちで肉にして食べてもいいかもな」

『やまと』では解体・精肉・納品・会計等をほぼ草介ひとりで行っている。そのため慢性的に人手が足りておらず、当然一日に受け入れられる個体の数には限りがある。そうした場合に、仮に品質に問題がない個体であっても、草介はこれまで数多く受け取りを断ってきた。

 だから、猟師が獲れた個体のうち何頭かを自家消費するのは合理的な処理方法といえる。全部は食べきれないので、おいしい背ロースのみ切り取って、あとは山に埋めてしまう猟師も多い。

「……うまく調理しておいしく食べることも、鹿たちの供養になると思うんですよ、僕は」

 全員が一息ついてくつろぎ始めたところで、草介は訥々と語り始めた。

「鹿も猪も、その他の動物も、場合によっては殺さなきゃいけない。それは嫌なことではあるんですが、農業を営む土地とは切っても切れない大切な仕事のひとつだと思います。でも、彼らの営みや在り方を貶めるかどうかは、それとは切り離して考えるべきだと思うんですよ」

 ここ数日のもやもやとした感情を、草介は慎重に言葉として紡いでいく。

 所詮これは、都会育ちの人間特有の偶像崇拝なのかもしれない。だから、敢えて草介は伝えたかった。

「野生の動植物は、美しいんです。この世の中で、この上なく」


 初めて猟師の方々と一緒に見学させてもらった狩猟の現場を、草介は思い出す。

 罠狩猟免許を獲ったばかりの草介が年配猟師の方々に誘導されて訪れた、とある畑近くの獣道。そこには、押しバネ式のくくり罠に片前脚を捕らえられた猪が、迫りくる死期に抗おうと息巻いていた。

 何度も逃げ出そうとしたんだろう。猪の前脚をくくって捕らえているワイヤーでぐるぐる巻きにされている大木の幹を中心として、まるで重機で掘り起こしたかのように地面がえぐれている。かつて湿っていたはずのほじくり返された土壌が、地面のえぐれた部分を囲って砂漠のパサついた砂山のようにパウダー状に堆積している。地下深くに埋まっていたらしい木の根がちぎれて露出している。

 遠目には、森の中に突如現れた巨大な蟻地獄の巣を連想させる景色だった。

 猪の血走った双眸に宿った殺意には、切羽詰まった人間が抱くそれと同じ凶悪さがあった。

 それなりのサイズの獲物であった為、最も経験豊富な2人の猟師がその個体を抑えにかかる。

 唐突に、彼は吠えた。都会人が想像するような、ブタさん然としたものではない。覚悟なき者を震えさせる、猟犬が放つものと同じ種類のそれだった。

『全員ただじゃ帰さねえぞ』草介には、彼がそう言っているように聞こえた。

 結論から言えば、その個体を捕まえることは叶わなかった。

 草介は彼を恐れ、その視界に入らないように猟師さん達の陰に隠れようとした。

 その瞬間だった。ワイヤー製の鼻くくり棒を携えて慎重に近づいた熟練猟師を、彼は襲った。

 ワイヤーに括られたはずの彼の前脚は、突進の勢いで外れていた。

 一人を巨大な頭で抉るように突き飛ばした後、彼はもう一度吠えた。そして、身体を強張らせる猟師達の包囲網を急激に加速しながら稲妻のように駆け抜け、茂みのむこうへ姿を消した。

 襲われた猟師さんは、右足から流血していた。ひねりを効かせた突進により威力を増した牙で、すねの動脈が切れていたらしい。すぐに救急搬送されたのち入院し、一命を取り留めた。狩猟保険は下りたらしい。

 無用の長物となり果てたくくり罠には、主蹄と呼ばれる前半分の蹄がちぎれて残されていた。

 その後、その個体がどうなったかは知る由もない。しかし、その後の勤務で、『やまと』に搬入される個体の中でさえ、蹄がちぎれたまま自然治癒した脚を持つ個体が決して珍しくないことを草介は知ることになる。

 草介はおろおろとするばかりで、冷静に対処する猟師の方々についていくことしかできなかった。当時感じた恐怖は、今『やまと』の従業員としてお世話になっている猟師の方々への感謝と尊敬の元となる強烈な原体験となった。

 理想的な命の燃やし方だと、草介は思った。怪我をされた猟師さんには申し訳ないが。

 食物を漁る姿も、くくり罠にかかってもがく姿も、どちらも美しい生命の在り方だと思った。

 動きにも、食欲にも、殺気にも、無駄がない。

 きっと紳助と甘夏は、それらの色々なことに慣れたのだ。

 人工林を跳ね回る鹿の美しさにも。

 くくり罠に捕らえられた片脚を犠牲に、いつこちらに牙をむくかわからない猪への恐怖心にも。

 殴り倒して心臓にナイフを突き立てた時、自分の臓腑にのしかかる重い罪悪感にも。

 彼らはおそらくもう、心を動かされない。『慣れる』という選択をしたのだ。

 だからこそ、優秀な猟師としての役割を果たせる。

 その生き方は、多分正しい。誰も否定はできないはずだ。

『それでいいのかも』と最初は思った。

 でも『それがいい』とは思えなかった。

 人のアイデンティティとして、それが最適解だと思えなかった。

 草介自身のエゴなのだとは思う。ただ、自覚していても譲る気持ちにはなれなかった。

 草介は、自分が何を主張したいのか自分でわからなくなってしまった。自分が譲れるかどうかなど、2人にとってはどうでも良いはずなのに。


 草介は、最近職場で搬入個体を捌くたびに感じる息苦しさの正体を理解する。

 それは、命を奪われる動物たちへの哀れみではなかった。

 彼はほとんど未熟児に近い状態で生まれた。胎内で順調に育てば分娩時に3000g程度になるはずの体重が、彼には出産時2100g余りしかなかった。分娩後、赤子専用の虫カゴのような集中治療室の中で命を取り留め、順調に回復した。

 四歳の頃にはおたふく風邪に罹り、1週間ほど入院して完治した。命に別状はなかった。

 7歳の頃、学校の階段で足を滑らせ落下し、右足首を単純骨折した。4カ月で完治した。

 そして草介は、今日まで順風満帆に生きている。

 草介は、環境に恵まれた。

 仕事をするうえで妨げになる心身の不調を持つことなく、育つことができた。

 太陽の下、培われた土壌で栽培されたであろう米と野菜を食べ、学校や家では木製のフローリングで過ごしてきた。

 好きな食べ物は鶏の唐揚げだった。

 でも、自然界には病院がない。厚生年金保険がない。

 仔は親の元に一年間しか居られない。

 自分が居た証拠を残してはいけない。餌場や寝る場所の近くでは、排泄もできない。

 獣道の至る所に、昨日まではなかったくくり罠が仕掛けてある。

 昨日彼が処理した母鹿は、我が子を目の当たりにできるほど環境に恵まれなかった。

 内臓と一緒にゴミ袋に廃棄された仔鹿は、この世に生を受けられるほど環境に恵まれなかった。

 草介を含む人間全体が、彼らから奪うことを肯定している……。

「知らなかった」は理由にならない。肉を食うことで、間接的に肯定している。

 人間の食材と木材を守るため、殺されていく野生動物がいる。

 これまで自分が受けてきた恩恵の大きさが、奪ってきたものの多さとそっくり同量だったんじゃないか。

 草介の中に積み重なっていた感情は、『後ろめたさ』以外の何物でもなかった。

 よくもまあ『哀れみ』などと、自分の気持ちをうまく曲解したものである。そうして野生動物に情けをかけることが、彼らに対してどれだけ侮蔑的であるか考えもせずに。

 野生動物は、人間の上位でも下位でもない。ただベツモノとしてそこに居るだけなのだ。

 もしも、彼ら野生動物と人間の間に共通言語を構築出来たら、お互いの利益を喰い合う現状が変わるだろうか?――絶対に、変わらないだろう。

 片方の利益が、もう片方の被害によって成り立つ限りは。

「……満腹感と酒のせいで、うまく理解できているかわからないけども」

 紳助は、草介とは目線を合わさず、天井を見つめる。

「それは、この鹿クンたちに対する悪口をやめろ、って意味でいいのかな?」

 紳助の声のトーンが心なしか少し落ちたように、草介には感じられた。

 寝転がってスマホをいじっていた甘夏の頭が、ピクリと反応したように見えた。満腹になってトロンとしていた目に、微かに不愉快げな光が宿る。

「人間として、害獣とされる動物に対しても慈しみの心を忘れるべきではないという事かな?それが人間としてより正しい在り方である、と」

 紳助が草介に問う。

「正しい、正しくないの話じゃないんです。人間性の美醜の話じゃないんです。気持ちが良いかどうかの話です」草介は吐く言葉に力を込める。「快と不快の話です。有り体に言えば、損得の話です」

「損得?」

「憎しみとか嫌悪は、代償が大きいんですよ。ストレスが増えるし、視野が狭くなる。活路を開きにくくなる。鹿や猪を忌み嫌うだけでは、心が荒むだけですよ。財布も腹も膨れない」

「なんか青臭い思想だなあ……」

「そうですかね」

「奴らへの憎悪を糧に駆除を頑張ることができているよ、少なくとも私はね」

 何を今更、という口調の紳助だった。

「損得かぁ……」しかし、ここで現実を知らない若者の絵空事だと切って捨てるほど頭が固くないのもまた、紳助という男だった。「義憤に駆られるのも、損得における『損』なのかい?」

 甘夏はあたかも既にこの話題に興味をなくしたかのように、少し前からヘッドホンを装着していた。そのままスマホをいじり続けている。

「僕はそうだと思いますが……『損』じゃない場合があるんですか?」

「あるんじゃないかな」紳助は茶目っ気のある喋り方をやめることにしたらしい。「私ひとりの家計が切羽詰まるだけなら、こんなに憎んだりしないさ。この状況で怒るのをやめたら、私の誇りはどうなるんだい?奪わない誇りと相手から奪われた以上に奪い切る誇りは、どちらも同じ重みをもっているんだよ。今のところ、私に相手を慈しむという選択肢は、ない」

 紳助の言い方からは、徐々に心の距離を感じるものになっていく。

 同じ空間に肉親がいるからこそ、彼がわざと抽象的な物言いをしていることは、草介にも理解できていた。

 紳助は赤ワインを口に含み、飲み干す。

「人間が、戦争をやめられない理由って、確かにあると思うんだ」

「わかんないです。どうしてですか?」草介は問い返す。

「父さん。その話、もういい」甘夏がうんざりした顔つきになる。ヘッドホンは既に外していた。

 彼女を無視し、紳助は続ける。

「その戦争が、彼らの生き様の軸になるからさ。アイデンティティを失うことでどうしていいかわからなくなった自分を、ほとんどの人は想像したくないんだよ。自分たちが正しくて高潔なのは、『対立勢力』が悪であるという前提で成り立っている。張り合いのない平和の中に生きるより、何かと戦っているときの私たちのほうがよっぽど正しい。当事者であるほど、そう思えてしまう」紳助は空々しく笑った。「ここ数年で度々我が家の家計が厳しくなるのは間違いなく野生動物達のせいだし、私は彼らを許す気になれない。我々は被害者であり、我々は正しい。だから殺して、お金を得る。ここ数カ月で、ようやく自分の気持ちを客観視でき始めたよ。この争いが終わることを、私自身は望んでいないのかもしれない」

 紳助は、空々しく笑い続けた。

 甘夏が『またその話か』という顔で肉を食んでいるのが、草介にとっては意外だった。

 先ほどまでとてもおいしく食べられていた鹿肉が、胃の中でずしりと重くなった。消えていたはずの、昼に感じて今はすれ違ったはずの罪深さが、また踵を返して背中にのしかかる。

 草介は、人として正しくあるとはどういうことか、いよいよわからなくなってしまった。

 草介は、歴史にあまり詳しくはない。これまで、さして興味も湧かなかった。

 大学では理系の学部を受験し、社会の選択科目では地理を選んだ。

 自然が豊かではあるけども、陥落させたところで大した利も得られない辺鄙な地方都市に済んでいる。興味がないのでニュースもあまり見ない。

 政治批判にも経済理論にも興味がなかった。物価高には、倹約で対応できると高をくくっていた。学生時代には、必須教養科目でなければ調べるほどのことでもないと思っていた。楽な生き方を――敢えて無知であり続けることを選んだ。

 しかし今になって、それを少しだけ後悔した。

 多分その後悔は、自分が今感じている妙に生々しい質感を持った罪悪感と、深い根のところでつながっている。草介はそう思った。

 甘夏が通う高校の履修科目の内容へ話題が変わった後も、草介は頭のどこかで、紳助の台詞の意味を考えていた。

 草介は、この空虚な時間を終わらせたかった。

「『やまと』が、それに折り合いをつけますよ。運ばれた肉は、全部肉にします。つくった肉は、営業して全部売ります。売上伸ばして、人も増やします。紳助さん含め猟師の皆さんに、もっとたくさんお金を得てもらえるようにします」

 空気を読まずに、草介はタイミングのずれたことを口走った。

「紳助さんの誇り高さを、僕が全部お金に換えますよ」

 草介は、言い切った。

 甘夏は『何言ってんだこいつ』みたいな顔をした。

 紳助は一瞬呆けた後、

「そ。頼むよ」

 と言った。

 長く考えていても腹が減るだけなので、草介はもう一度鹿肉を齧った。柔らかくて、うまい。

 鹿肉は火を通した直後が最も柔らかい。時間を置いて冷めると少しずつ硬くなっていく。

 硬くなった肉を柔らかくするのには結構な手間がかかるので、早いうちに食べて置いたほうがいい。

 雑念を振り払って、脇目も振らず食らう肉のほうがかなりうまいなと、草介は感じた。

 今は、ひたすら血肉にしていこう。肉を食べておいしいと感じることはきっと誰にとっても良いことのはずだ。

 食べることも、それをやめることも、いつでも誰にでも許されている。

 ◆◆◆

 草介の帰り際、二人が玄関まで見送ってくれた。

「楽しみだよ、草介くん」唐突に、紳助がしみじみと言った。

「何がですか?」彼が何を指してそう言っているのかわからず、草介は首を傾げた。

「……近いうちに、君が私を心から納得させてくれるのが」

「……へ?」草介には、紳助の言う意味がよくわからない。

「思想がフラフラした若い奴の言動に段々と筋が通っていく過程を見るのって、楽しいもんだよ。年を食ってくると特にね」

「なんすか、それ」草介も軽く笑ったが、どうもくすぐったい。

 独り立ちしていても、自分はまだなんやかんや年配の方からは子供扱いされているらしい。

「ああ、訊き忘れてたんだけど」

 甘夏が帰り際、草介に問うた。

「いつ、鹿のハラコ買えるようになるの?なめした毛皮、絶対高く売れると思うんだよ」

「……まあ、そうなるか」草介はため息をついた。この娘はやはりタフだと感じた。「値段交渉だ。1頭いくらで買う?」

 草介は、根負けした。

「そこはまた相談させてくだせぇダンナ」急にへりくだって揉み手をはじめる甘夏。「へへ」

「……心配しなくても、甘夏は最初から強かだったな」紳助は苦笑した。

「……? どういう意味?」

「褒めたんだよ」紳助は嬉しそうだった。

「あっそ。ま、私は私で人間側のルールに則って獣を利用していくよ。その方が、私にとって『誇り高い』からさ」

 草介に対してこれ見よがしにほくそ笑む甘夏だった。

 草介は、堂々巡りの議論に解決の風穴が開く瞬間を見た気がした。

 倫理的な食い違いは、案外、強かな図太さが解決しうるのかもしれない。

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ジビエ屋『やまと』の新年度 @dorodoroguba

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