第44話 異臭
病院にいる看護師や医師は、全て新王教団の信者と思った方が良い。熱狂的な信者で無くとも、逆らえない。第二の性、額の宝玉、絶海の孤島と連なる歴史、そして教団の権力と言う長いものに巻かれ、身動きが取れないからだ。
逃げ道がない以上、健康診断を断れない。仮にそれを言えたとしても、あの時のように白衣の医療団の〈誰か〉が動き、あの宝玉が使われかねない。
無抵抗となり、意識のない中で何をされるか分からない。最悪の場合、見ず知らずの誰かと番にさせられてしまう。
「ベレクトー? 先生が健康診断してくれるそうよ? この際だから、やってもらいなさーい?」
遊んでいる息子を台所から呼ぶように、母は言う。
「俺がついていますって」
リュートルは、初対面の時から変わらない愛想のよい笑顔を浮かべる。
西区のアパートでフェンが助けてくれた時、神殿から急いで来たと察せられる発言をトゥルーザがしていた。肉体を強化する奇蹟を使えるフェンなら、既に到着していてもおかしくはない。
すぐに来ないのは、この建物全体に何らかの危険があるからだ。
「……彼が来るのを信じよう」
フェンが医療の発展の為に開発した宝玉が、悪用されている。白衣の医療団に内通者がいる。それらの証拠を集めるためにも、今は従うしかない。
ベレクトはベッドから立ち上がり、リュートルと共に部屋の外へと歩き出す。
廊下へ出ると、看護師と思われる白い制服を着たβの女性と母が会話をしていた。女性の手にはクリップボードと鉛筆があり、どうやらベレクトの問診票を持ってきたようだ。
「ベレクトさんですね? 紙に書いてある項目に丸を付けていってください」
「わかりました」
「そちらの御友人はどうなさいますか?」
「やりたいのは山々ですが、今からでも受けられるんですか?」
「はい。1人増える程度なら、予定時間に終わるだろうと先生が仰っていました」
リュートルと女性が話す傍らで、ベレクトは問診票に記入をする。
用紙に書かれた内容は、エンリの診療所のものと大差なく、至ってまともだ。
「終わりました」
「ありがとうございます。そちらの御友人用の問診票は会場でお渡ししますので、どうぞこちらに」
クリップボードを受け取った女性は、3人を健康診断の会場へと誘導をする。
ベレクトが眠っていたのは二階だった。一階には、受付や待合室、診察室などありふれた病院の光景が広がっている。幸いな事にこちらには窓があり、ようやく昼前であると分かった。
ただ問題なのは、この匂いだ。
二階に居た時に比べて、甘い匂いが強まっている。
「この匂いって何ですか? 香水や芳香剤では無いですよね」
屈託なくリュートルは言うと、女性は困った様に苦笑をする。
「30分ほど前に、健康診断にいらしたΩの方が発情期に入られたんです。今は別室で休まれていて、時間までに急いで換気をしたのですが、なかなか抜けきらないんです」
「食べ物の匂いとは違いますから、大変ですよね」
納得したように振舞うリュートルの隣で、ベレクトは嫌な予感がした。
発情期の管理には、Ωでも個人差があるだろう。しかし予定日が近づいているのに、慎重にならない人がいるだろうか。以前のベレクトのように、突然の出来事が重なった結果なら分かるが、健康診断は日程が決まっているはずだ。
「着きましたよ。こちらへ」
女性は交流室で立ち止まると、扉を開けた。
一瞬顔をしかめそうになったベレクトは耐え、そのまま平静を装いながら入室する。
広い交流室には、壁沿いには長机が一纏めに片付けられている。体重計などの検査機器、診察用に間仕切りである青いスクリーン衝立が置かれ、待合の為の椅子には6人のΩが座っている。一番年齢が高そうな人でも、30代くらいだ。
まだ番のいない発情期が不安定なΩが集められた。番の有無でストレスや体調に差が出るのでその様に考えれば、ある程度は納得できる状況だ。
しかしベレクトが気になったのは〈匂い〉だ。
先程の甘い香とも、加齢臭や汗とも違う。魚などの腐った肉を濃縮したような、嗅いでいるとその場から離れたくなる程の異臭だ。しかし、ベレクト以外は誰一人として反応していない。
長時間嗅ぎ続ければ頭痛を起こしそうな程に耐えがたく、いっそのこと、それを理由に逃げようかとすらベレクトは思ってしまう。
「先生。全員揃いました」
「そうか。それじゃ、はじめよう」
衝立の中から男性の声が聞こえてくる。
その声に椅子に座っているΩ達は、頬を赤らめる人や、そわそわと落ち着かない様子を見せる人が大半だ。
席に座る様に促された時、ベレクトは女性に気付かれないようにリュートルの裾を僅かに引っ張った。それに気づいたリュートルはベレクトを一瞥した後、衝立の中にいる男性へと視線を移動する。
リュートルは異臭に何故か気づいていない様子だが、ベレクトはその反応に心強さを感じた。
「お待たせしました。1人ずつ、順番に来てください」
体重、慎重、聴覚、視覚と先に来た人から順番に健康診断が行われ、見ている分にも、やってもらう分にもおかしな点は見られない。まさに普通だ。
しかし、異臭の中では限界はあっという間に来てしまう。
「大丈夫ですか? 顔が青いですよ」
看護師の女性も流石に気づいた様子で、顔色の悪いベレクトを心配する。
一旦退室したい、と言おうとしたベレクトだが、女性に強く腕を掴まれる。
「健康診断は中断して、先生に診てもらいましょう」
明らかな善意であるが、かつてのイースとの接触を思い出してしまいベレクトは体を硬直させる。
「俺が彼を支えますので、一緒に付いて行っても良いですか?」
「そ、そうですね。よろしくおねがいします」
怖がられたと察した女性は、友人として一緒に来ているリュートルの提案を受け入れる。
彼に内心で感謝するベレクトであったが、衝立にはこれ以上近づきたくは無かった。
「……すいません。退室したいです」
「理由を教えていただけますか?」
「臭いが、きつくて」
その答えに目を丸くする女性だが、すぐさま満面に笑みを浮かべる。
「おめでとうございます! 運命の番を見つけられているのですね!」
広い空間に高らかと響く声に、心酔するその笑顔に、ただただベレクトは恐怖した。
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