第10話 2人の誓約 (修正)
空中を歩くように、屋根から屋根へとフェンはベレクトを抱えたまま移動を続ける。
すでにイースの声は聞こえず、診療所からもかなり遠ざかっている。西から、南西、南南西へと方角がずれ始める。
「どこまで行く気だ!」
「これ一度始めると、勢いが無くなるまで動き続けるしかないんだよ!」
「はぁ!? なんだその欠陥!」
「仕方ないだろ! そうしないと皇権に引っかかるんだよ!!」
キャンキャンと子犬の小競り合いのように言い合いをしていると、2人の目の前に医神を祀る教会の尖塔が迫る。
「うっわ! 前、前!!」
「いぃぃ!?」
すぐさまフェンは足を前に出し、尖塔の壁を蹴り上げ、さらに跳躍する。
目の前に広がる景色に、城壁の町並みに囲われ神殿を見上げてばかりだったベレクトの心が震えた。
空と鏡合わせのコバルトブルーの水平線は、宝石をちりばめた様に輝きを放つ。
屋根の上で翼を休めていた海鳥たちが、2人の登場に驚き一斉に飛び立つ。
羽ばたく彼他の向かう遥か先まで広がる大海では、潮が吹きあがり虹を描く。次々と巨大な上半身を海面へと打ち付け波飛沫を上げる鯨の群れの姿があった。
白い帆を広げる大きな船が、今は玩具の様に見えた。
太陽の光に照らされ白銀に輝く町並みと人々の歩みはモザイク画の様相を形成し、窮屈だった世界の人さを知る。
ベレクトの心が、僅かに軽くなった。
やがて、フェンの走る速度は徐々に遅くなり、住宅地の人気のない路地に2人は降り立った。大事なものを扱うように丁寧に石畳の上へと降ろされたベレクトは、フェンに礼を言おうとした。
しかし彼は何故か眉を下げ、申し訳なさそうな顔をする。
「……ごめんな」
第一声は謝罪だった。
「どうしたんだ。急に」
「近づき過ぎたこと。恋人同士って装うためにはあれしか方法が無かったとはいえ、αが間近にいるのは嫌だったろう?」
「それは……」
今はもう震えていない。息は詰まらず、ちゃんと呼吸が出来ている。
勢いと驚きと、そして感動によって恐怖が拭い去られ、緊張の糸が緩んだベレクトは、冷静に思い返す。
多勢に見えるβは、基本的にαに逆らえない。それはαの放つ媚香が原因だ。Ωと違い汗や唾液に中に分泌される媚香は二種類存在する。ひとつはβに対する階級社会の形成と維持を行う香り。もう一つは、Ωの誘導と発情体制へ変化させる香りだ。Ωがαの私物を収集する巣作り行為は、後者の媚香が由来する。そして、αがΩの首筋からうなじに掛けての媚香腺を噛むことで、発情期を変質させる事が出来る理由だ。
イースはαなだけでなく、背が高く筋肉質で体格が良い。止めに入っても返り討ちに遭うと、誰もが思う。周囲が見て見ぬ振りをする中で、フェンだけは前へ出て守ってくれた。しつこくも苛立ち始めていたイースから逃げる為には、あの場でαとΩの関係を利用するしかなかった。
なにより、フェンに対しては最初の出会いの時から、あんな状態にならなかった。αに、イースに対する恐怖心は自分の問題であり、助けてくれた彼に非は一切ない。
「原因はあいつにあって、おまえのせいじゃない。謝る必要は何処にも無い」
ベレクトは石壁に背を預ける。ゆっくりと息を吐き、新鮮な空気を吸った。
「助かった。ありがとう」
「……どういたしまして」
答えを聞いて安心した様子のフェンは、路地の奥の影が濃い場所で胡坐をかく。
明るい影の中にいるベレクトは、一定の間隔を空け、配慮してくれる姿に静かに感謝をする。
「そういえばさ、目を開けて見える演技をしていたけれど、ちゃんと出来てた?」
「わりとな」
その返事を聞いたフェンは満足げに目を閉じた。
「あいつが例のα?」
「そうだ。家を出てから会って無かったのに、突然来た。あの様子からして、母さんの縁談が絡んでいる」
「Ωは数少ないし、αにとって番うのは外殻では一種のステータスだからな……」
容易にΩと番えるように思えるαであるが、能力の差は当然存在する。地位の高く財力のあるαの元には庇護を求めてΩが集まり易い。βとあまり差のない立場にいるαは番えずに溢れる。
αに生まれたならば強く賢くなければならない。βよりも優れていなければならない。Ωと番わなければ、αではない。第二の性の知識から生じた強迫観念が、αのプライドの高さの裏に隠されている。
「漁師だったら市場とか……外海の人を含めて出会いがあるだろうに」
「? あいつが漁師だってよく分かったな」
そういえばイースと言い合っている時も、魚を捕ると言っていたのを思い出す。
「魚の臭いが僅かにていたし、あの辺りで若い店員の声がする鮮魚店は無いから」
移動は奇蹟に頼るが、人を観察する際には耳と鼻を重点に置いているフェンは得意げな表情をする。
「立派な職種なのに相手を見下すって事は、余裕がないんだろうな」
「どうして?」
「αって目立つ仕事に就いて優秀な成績を修めるってイメージがあるだろ? 世間がもてはやすのと同時にその風潮によって、自己顕示欲、支配欲、独占欲、それと承認欲求が肥大化しやすい傾向がある。若いなら尚更。あいつの思う〈上〉に行きつけないから、おまえを手に入れて〈特別〉になりたいんだよ」
大抵のαが医者や事業者、音楽家など華々しく優秀な職種で頭角を現す中、イースは家業を引き継ぐために漁師となった。それは素晴らしい事であり、業者の間では彼に期待を寄せているだろう。しかし、一般大衆の持つ偏見が〈αとしては地味〉と口にする。
同じ年のαが、年下のαが、優秀な成績を修め、賞を貰い、大衆から称える傍で網を引いて魚を捕る。自分にはどうしようもない能力差を突き付けられ続け、せめて番を持てないαにならない為にベレクトへ近づいた。
「ある程度年が行けば、自分の納得できる着地点を見つけられるが……今は、無理だろうな。こういう時、精神に関する病院やカウンセリングできる所があると良いんだけどなぁ。まだまだ神殿はそこが未発達で……と話が脱線するな。辞める」
フェンは大きく息を吐くと、狭い空を見るように顔を上げた。
遠くまで良く通る独特な鳴き声を発し、翼を広げ上昇気流に乗る猛禽のトビが、青空を旋回している。
「交際していないのがバレると、ベレクトが危ないな……やっぱり、誓約結ぶか」
昨日の今日でありながら、フェンは易々と条件を撤回し提案する。
「病院の件はどうなるんだ?」
守ろうとしてくれていると分かる。直ぐにでもお願いしたい。ベレクトはそう思う反面、イースに顔を知られたフェンにまで被害が及ぶのではないかと心配になった。第二の性が判明する前から、同年代の間でイースはリーダー格であった。取り巻きの子供達を常につれ、別地域の子供とよくケンカをしていた。今は大人となりそれぞれの生活を営んでいるが、αの媚香の特性を使い招集をかけ、徒党を組まれかねない。聖徒で皇権の中でも使いこなせていても、フェンは目が見えず、一人行動をしている。集団で脅迫し、事の次第では暴力を振るわれかねない。
「それは保留で。数年先の話より、明日どうなってるか分からないベレクトの安全が最優先だ」
「あれはΩを囲う為の聖徒が編み出したもので、簡単に使って良いものではないだろ」
「一人や二人を支えられないような男に見える?」
「そういう問題じゃない。フェンまで危ない目に遭うかもしれないんだぞ」
「大丈夫だって。俺ってこう見えて強いし、護衛だって常に付いてるんだから」
「だったら、その護衛に会わせろよ」
「それは駄目。身分偽っている意味ないだろ」
嘘か本当かフェンの表情からでは全く分からない。
「ベレクトは自分の心配しな。俺は、神殿に行けばどうとでもなるんだから」
「そう、か……」
フェンの言う通り、いつ職場が、アパートが特定され、どうなっているか分からない状況だ。アパートに押し入れられてしまえば、今度こそ無理やり番にさせられるだろう。
最悪な未来が目の前にあるベレクトには、選択の余地がない。
「……よろしく頼む」
「よーし分かった」
真剣な面持ちで言ったベレクトに対して、フェンは立ち上がり彼の前まで行くと右の小指を立てて差し出す。
「? なんだそれ」
「え? 知らない? 小指と小指を絡ませて約束の厳守を誓う儀式」
小さく首を傾げるその姿は、あどけない少年のように見えた。
「外界の子供の童歌じゃなかったか?」
「それもある。まぁ、誓約の奇蹟発動には、相手の体に触れる必要があるんだ。だからさ」
抱擁、握手、口付け。様々方法がある中で、フェンは最低限の接触である〈指切り〉を選んだ。
「あぁ、わかった」
度重なる心遣いに感謝しながら、ベレクトはフェンに歩み寄り、彼の右小指に自身の右小指を絡ませる。
日光と陰が重なり合う薄明りの誰もいない路地。2人だけの誓約が結ばれる。
嬉しそうに微笑むフェンは、外海の童歌を口ずさむ。
神殿では聞く機会がないせいか、所々の音が外れている。ベレクトはそれを聞いても笑わず、ただ黙ってフェンの顔を見つめ、そして下に目線を移した。
イースとの関係に終止符を打つことが出来れば、この誓約は無くなる。仕事仲間となれば会う機会が増えるが、いずれフェンには番となるΩが現れる。
番は、神殿のΩだろう。2人の姿は絵画の如き美しさだろう。
それを思うと、わずかに不快になった。
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