第9話 風のように駆け(修正)


「おまえ誰だよ。ベレクトに馴れ馴れしいぞ」


 ベレクトの反応が違う事に直ぐに気づいたイースは、フェンを睨む。

 人々は興味深そうにも、邪魔そうにも目線を向けながら、通り過ぎていく。


「そりゃー彼の番候補で、交際中のαだからね」


 フェンはベレクトの左肩に腕を掛け、頬と頬が近づくほどの距離となる。

 薬草と消毒、そして仄かに柑橘類に似た香りがベレクトの鼻をくすぐる。はじめてであった時は中性的な印象を受けた非の打ち所の無い美しい容姿は、凛々しい目元とつり上がった整えられた眉によって男性らしさが強調されている。


「フェン」


 小さく呼びかけると、こちらを見るように顔を傾ける。

 海のように澄み渡り、じっと見つめれば吸い込まれてしまいそうな程の清らかさを兼ね備えた聡明な青い瞳。その中には、はっきりとベレクトの顔が写し出されているが、フェン自身には見えてはいない。


「今日はお互いに仕事があるから会わないつもりだったけど、無償に顔が見たくなってさ。来ちゃった」


 さらに近く、鼻と鼻が付きそうなほどに顔が近づく。

 全てを魅了しそうな美しい微笑みを浮かべ、薄い唇が微かに動くと〈我慢して〉と小さな声がベレクトの耳に届く。


「そ、そうだったのか。驚いたよ」


 頭をフル回転させたベレクトは、俯く事で答えを示す。

 体が震えている。イースを目の前にしているだけでなく、αであるフェンが首に噛み付ける距離にいるからだ。

彼はそんな事をしない。やるなら昨日のうちにやっている。

 恐怖と理性がぐるぐると巡り、何度も言い聞かせても体は緊張で固まり、冷や汗が流れる。


「番候補? おい、ベレクト。単純作業しか出来ない奴を選ぶなんて、どうかしてるぞ」

「島の鉱山を取り仕切ってるのは誰で、そこで作業できるのはどういう事か、考えてくれない?」


 イースが鼻で笑った直後、フェンはそう言って羽の形をした耳飾りを触った。

 今は活動を辞めた火山が集まって構成されている島には、地下資源が眠っている。先代の聖皇の頃より神殿が鉱山や坑道を管理している。島が穴だらけになれば地盤沈下などの住民への被害や、水源の枯渇を招きかねないからだ。坑道の一部は外殻の業者達が管理を共同で行い、彼等は鉱石を一般の市場に出しても良いと許可されている。神殿との長年の実績と信頼関係がなければ共同管理が出来ず、その会社に採用されるには新人で在れ、それ相応の審査が設けられている。

 傍から見ればイースは、神殿と繋がりのある業者を軽視した事になる。長期的な漁獲量を考え資源保護について漁師もまた神殿からの介入がある筈だが、彼にはその知識が不足している様子だ。


「どんな仕事も技術職で、無くてはならない存在だ。あんただって、魚を捕るしか能のない馬鹿って言われたら怒るだろ」


 背が高いイースは睨み、威圧をするが、盲目のフェンには通用しない。相手が怒っていると感じ取れても、彼は完全に受け流している。


「初対面の相手に説教なんて、良いご身分だな」

「人を見下す奴に比べたらね」

「なんだと……」


 拳を握り締めたイースだが、行き交う目線に踏み止まる。


「俺と口論したいなら、幾らでも相手をしてあげる。でも、ベレクトにはこれから仕事があるし、邪魔したら駄目だ」


 フェンはそう言って、ベレクトの背中を優しく叩いた。

 もう少しの辛抱だ。そんな風に言われている気がしたベレクトは、気丈に振舞う。


「もしかして休憩時間、終わりそう?」

「あ、あぁ、そろそろ行かせてもらう」


 何とか言い切ったベレクトだが、イースは彼の手を掴もうとした。

 その大きな手にかつての被害を思い出し、視界が黒と白で塗り固められるような感情がベレクトの全身に襲い掛かった。


「だーかーらー! 仕事があるんだって!」


 即座にフェンが反応し、ベレクトを後ろに退かせ、前へ出た。


「力尽くで行ったって、嫌われるだけだぞ!」


 イースは〈そんな事ない〉と言うようにベレクトを見る。

 しかし、フェンの後ろに隠れるベレクトは顔を青ざめ怯えた表情を浮かべている。


「なんでそんな顔するんだよ。おかしいだろ!」


 さらに怒りを顕わにするイースに、フェンはわざとらしくため息を着く。

 表情は見えなくとも、手から伝わって来ていた小さな震えと、今まさに乱れて止まりそうな浅い呼吸音から、ベレクトが限界に達している事に気付いている。


「埒が明かないな。悪いけど、このまま逃げる」

「え?」


 訊こうとしたベレクトの視界が回転し、気づけばフェンの腕に抱き抱えられている。

 痩せ型では無いものの、傍からみればフェンはそこまで筋肉は付いていない。思わぬ行動に、ベレクトは驚いた。


「お、おい!」

「舌噛むから口は閉じていた方が良いぞ」


 フェンはそう言った瞬間、イースに背中を向けたかと思えば、大きく飛び上がった。

 何かによって全身を押し上げる様で、柔らかく通り抜ける不思議な感覚。ベレクトは左手でフェンの服を掴み、右手に持っている紙袋を強く握る。

 3メートルを優に超える跳躍は、フェンの奇蹟によって身に纏った風のお陰だ。

 綺麗にパン屋の屋根へと着地すると、彼はイースを見下ろす。

 イースだけでなく、行き交う人々がフェンを見て騒めく。


「それじゃ、さようなら」

「テメェ……! 待ちやがれ!」


 イースは奇蹟を使おうとしたが、扱いなれているフェンに比べて発動に時間が掛ってしまう。なにより、奇蹟は悪用されないように島を統治する聖皇の奇蹟〈皇権〉によって効力が最小限に抑えられている。神力を引き出し奇蹟に至るまでの調製に苦戦し、イースはそのまま2人を見失わないように走り出す。


「逃げるな!! クソがぁ!!!」

 しかしフェンは更に加速し、屋根を伝い、飛び越える。

 やがて言葉が聞き取れなくなり、僅かに怒鳴り声が遠くから聞こえた。

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