運命を紡ぐ想い

 この街で目覚めるのは何年ぶりなのだろうか。

 夢を見た気がする。けれど、その内容はひとつも覚えていなかった。

 まだ夜が明けきらないうちにホテルを出て、川のほとりを歩いてみた。

 広い川の水は底の方を流れているだけで、乾いた土のにおいがしていた。

 もうすでにセミは鳴き始め、真夏の気配が漂いはじめていた。


 ホテルに戻り、朝食は1階の喫茶スペースで提供されているパンとインスタントコーヒーで済ませた。

 休日のビジネスホテルは俺と同じような観光客が多いようだった。

 まだ時間は早いが、カバンを肩にホテルを出た。

 太陽はビルの壁面を強く照らし、暑い一日の始まりを予感させた。

 駅へ向かって歩いていくと、路面電車が橋の上をゴーっという音を立てて走っていくのが見えた。

 パンタグラフがキラリと光った。


 待ち合わせ場所によしのはまだ来ていないようだった。

 日差しを避け、駅ビルの陰になっている場所で待つことにした。

 ここは昨晩の月のえた光で冷やされたまま、まだ遠い秋を先取りしたような空気が残り、いくぶんか過ごしやすかった。


 *


 俺たちは背中に日の光を浴びながらビルの並ぶ大通りを並んで歩いていた。

 お墓は電車に乗ればすぐだそうだが、歩けない距離でもなく、朝もまだ早かったので歩くことにしたのだった。

「こうやって歩いとると、あの頃を思い出すね。昔はよく一緒に歩いたよね」

「ああ、そうだな。学校の帰りに3人で歩いたな。しかも坂道ばっかりだったのに、あの頃はそんなこと気にもならなかったな」

「ほんとそうよね。坂道を走って上がったり、今だったら考えられんよね。若かったからかねぇ」

「そうだろうな。俺なんかもう体もなまって、ちょっと歩くだけで疲れちゃうかもな」

「わたしなんてすぐにバスとか電車に乗ろうとしちゃう」

 そう言ってよしのは俺の顔を見て無邪気に笑った。

「ん?」

「なんでもない…」

 歩く先には真っ青な夏の空が広がっていた。


「いまさらじゃけど、皆実くん、ずいぶんしゃべり方が変わったね」

「そっか?」

「そうよ。なんだか遠いとこの人みたいよ」

「そんなことないと思うけど、東京に出てもうずいぶん経ってるからな」

「そうなんじゃね。高校卒業してから会っとらんし、けっこう経ったのもあるかもね。でもその割には皆実くんそんなに変わっとらんね」

「そうか? いいおっさんになったと思うけど」

「それはお互いさまよ」

「いやいや、よしのは変わってないと思うよ。変わってないっていうか、大人びたっていうか…」

「大人びたって…なに言うとるん? そりゃもう立派な大人じゃけんね」

「そうだよな、もう何年も経ってるもんな…。なに言ってんだろ、はは…。けど、なんだか性格は変わったんじゃないか? しゃべってるとそんな感じがする。もちろんいい意味でな」

「そう? そうね、性格は変わったように見えるかもしれんね…。若い頃はおとなしい感じに思われとったもんね」

 彼女は昔を懐かしむように笑った。そして、

「これでもいろいろあったんよ」

と俺の一歩前に出て振り返り、なぜかすこし得意げに言って笑った。


 その時どこかから音楽が響いてきた。

 よしのがカバンからスマホを取り出すと音は大きくなった。

 それはピアノの曲だった。俺もよく知っている曲。

 彼女は画面をちらりと見るなり通知を消して、またカバンにしまった。

「電話か? 気にしないで出ればいいのに」

「ううん。親からだったから大丈夫。いっつもたいした用じゃないのに掛けてくるんよね」

「そっか…。けど心配するとわるいから、あとで掛け直したらどうだ?」

「うん、そうね…。じゃあちょっと待ってて、メッセージ送っとくけん」

「それがいいと思う」

 よしのは立ち止まり、メッセージを打ちはじめた。

「それにしても便利な世の中になったよな」

「スマホのこと?」

 彼女は指を止め上目遣いでこちらを見た。

「そう」

「そうね…。あの頃、今みたいにスマホがあれば、わたしたちの人生もぜんぜん違うものになっとったかもしれんよね」

「そうかもな。けいはめちゃくちゃメッセージ送ってきそうだな」

「そんなことないよ。どちらかっていうと、わたしのほうがそういうの積極的なんよ」

「そうなのか?」

「そうよ。ほら、なんにも分かってなかったんじゃね。皆実くんの知らないけいちゃんももっと見せてあげたかったわ」

「ああ、見たかったな」

 俺は素直にそう答えることができた。


「待たせてごめんね」

「ううん、全然。あ、そういえば、さっきの着信音」

「え? 着信音?」

「そう、スマホの着信音。あれ、リストの『愛の夢』だよな?」

「『愛の夢』? そういう曲なんじゃね。よく知っとるね」

「昔よく聴いてたピアノのCDに入ってたから」

「ピアノのCD? あ! ひょっとして皆実くんに借りたCDに入っとった?」

「ああ」

「そうだったんじゃ。この曲いいなと思って、携帯の時からずっと着信音はこれにしとったんじゃけど、あのCDに入っとった曲だったんじゃね。着信音選ぶ時になんか聴いたことがあるって思っとったけど、そういうことだったんじゃね」

「気になってくれた曲があって、CD貸した甲斐かいがあったよ」

「わたし受験勉強の合間にちゃんと聴いとったよ。いろんな曲があるんだなって思ってた。しかもその時の曲をずっと聴いとったって、何だか面白いね。あ、ねえ、わたしCDちゃんと返したっけ?」

「どうだったかな、返してもらったんじゃないか」

「もし返してなかったらごめんね。家に帰ったらちょっと探してみる」

「いいよいいよ。他のCDも持ってるし、探さなくていいよ。代わりっていうわけじゃないけど、今度機会があったらまたじっくり聴いてみて」

「うん。そうしてみる」


「ちょっとあそこのベンチで休まない?」

 俺たちは川沿いの歩道にあったベンチに腰掛け、滔々とうとうと流れる川の水面みなもを眺めた。等間隔に植えられた街路樹からセミの声が鳴り響いてくる。


「よしの」

「なに?」

「昔、手編みのマフラーくれただろ?」

「え? ええ、そんなこともあったわね」

「どんなだったか覚えてるか?」

「だいたいは覚えてるわ。それがどうかしたの?」

「これ…」

 俺はカバンから紙包みを取り出し、ひざの上で大事に開いた。

「これって…あの時あげたマフラーなの…?」

 よしのは驚いて、信じられないという表情で俺を見た。その手はかすかに震え、ずいぶんと動揺しているようだった。

「ああ、ずっと実家に置いてたんだけど、たまたま見付けて手元に置いてあったんだ」

「そうなんだ……」

「真夏にはちょっと合わないけどな」

「そうね。ちょっとどころじゃないわね……」

「けど、せっかく会うんだから見せようと思ってな」

「そう……」

「あと、これ…」

 俺は少し小さな紙包みも取り出した。

「けいちゃんが編んだやつ…?」

「ああ。けいにもらった手袋」

「開けていい?」

「もちろん」

 よしのは紙包みを広げ手袋を手にした瞬間、せきを切ったようにむせび泣いた。

 俺は驚いてどうしていいかわからず、ただ見守るしかできなかった。

 そしてすこし落ち着いたころ、彼女はぽつりと言った。

「………なんで今なの?」

「え?」

「ねえ、どうして今になってこんなものを見せるの?」

「わるかった…」

「ねえ、どうして…? ねえ!」

「わるい……」

「もっと早かったら…。何年経ってると思うの? けいちゃんも元気なうちだったら…懐かしく思い出して笑い話にできたかもしれないのに……。いっそのこと捨ててくれてたらよかったのに…!」

「捨てるだなんて、それだけはできない。これは俺のたいせつな想い出につながる、たいせつなものだから」

「いままでずっと会わなかったのに、いまさら想い出なんてなによ。どうだっていいじゃない…けいちゃんは…もういないのよ………」

「ひとの気持ちを考えずにわるかった…。けど、これだけは言わせてくれないか。あのころ、お前たちふたりと過ごした想い出、そのたいせつな想い出が土台となって、その上にすぐに破れてしまいそうな人生の薄い膜を積み重ねるようにして今の俺がいるんだ。そんなたいせつな想い出を失ってしまったら、今の俺さえ、いや俺の存在そのものを否定してしまうことになる。だから、想い出がどうでもいいとか、そんな悲しいことは言わないでくれないか…」

「……ごめんなさい。いろんなことを思い出しちゃって……。でもそんな想い出ばっかりで、今のわたしたちはどうなの? いなくなったけいちゃんは? そんなにたいせつじゃないわけ?」

「そんなわけない。けいのことは悲しいけれど、俺の心の中ではずっと生き続けている。けれど、あのころの想いに比べて、今はもろくとてもはかないいものになってしまったから、あの海の見える丘の上の街でふたりに逢って過ごした日々のことをずっとたいせつにしていたいんだ。決してなかったことにはしたくない。俺の勝手な言い分かもしれないけど…」

 よしのは黙っていた。

「なあ、よしの。聞いていいか?」

「今度はなに?」

「マフラーと手袋だけど、なぜ俺に編んでくれたんだ?」

「さあ、どうだったかしらね。いまさらそんなことも聞くのって、ちょっと野暮じゃない? 自分勝手だと思わん?」

「ああ、そうだな。ほんとにその通りだ。わるかった…」

 俺の言葉を聞いて、よしのは初め黙っていたが、水面の輝きを瞳に映しながらゆっくりと口を開いた。

「けいちゃんが最初だったんよ」

「え?」

「それからわたし。時間はかからなかったんよ。読んだ話にそっくりだったから…。ねえ、皆実くん。運命って信じる?」

「運命、ね…」

「わたしたちあのころはまだ子供といってもいいくらいだったじゃない。その時にけいちゃんとふたりで読んでた本があったんじゃけど、そこに出てきた双子の姉妹と自分たちを重ね合わせてて、そんな時に皆実くんに出逢ってしまったんよ。皆実くんは憶えとらんかもしれんけど、わたしたち病院で逢っとるんよ。ほんとにお話に出てきたストーリーとまったく同じで、けいちゃんが、これは運命じゃない?って言い出して、わたしもそうだって思って。そうしたら、その想いはどんどん止まらんようになって…。それでね、ふたりで一緒に毛糸でマフラーと手袋を編んで渡そうっていうことになったんよ」

「それで俺に好きな色を聞いたってわけか…」

「そう」

 俺が病院に行っていたことは間違いなかった。だが、ふたりに逢った記憶も、その時にふたりとの間に特別な何かがあったという記憶もなかった。

 とにかくふたりは俺の好きな色を聞き、ひょっとしたら、いや、おそらくふたりで一緒に毛糸を探しに行って、琥珀色ってどんな色だろうと話をしながら、よくわからなくて、なかばあきれながらこの色でいいやということにして、お互いに編み方を教え合いながら、ひょっとしたらけいのほうが上手だったのかもしれず、こたつに入ったり、暖房ヒーターの前だったりで、いろいろな話をしながら、そしていろんなことを考えながらひと針ひと針編んでいたんだろう。

 よしのは物思いにふけっているような顔で、相変わらず川の流れを見ているようだった。

 俺は思ってみる。小さな想いを重ねていって、そんな想いのかたまりから細い糸を繰り出すように人生が紡がれていくのではないかと。そしてひょっとしたら運命もまた、同じようにそんな想いから紡がれるものなのではないだろうかと。

 彼女の横顔を見ながら、もう俺の知らないころのふたりの想い出に踏み入るのはよそうと思った。

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