第三章 想いは風に乗って
センチメンタルな旅
朝からうだるような暑さだった。
都会の雑居ビルにある狭い事務所は人いきれで息苦しく、古びたエアコンもこの暑さでは役に立たず、手元に置いた小型の扇風機に頼るしかない始末だった。
けれど俺はそれでも足りず、いつも持ち歩いている
あとで掛け直せばいいとつい反射的に通知を消してしまったが、なぜだか引っかかるものを感じ、誰だったのだろうと履歴を確認すると、そこに彼女たち、
携帯電話、スマートフォン、端末を新しくするたびに登録していた名前。
けれど、彼女たちは俺の番号を知らないのだから、掛かってくるはずのない電話番号。
高校を卒業してからは結局一度も会うことはなかったが、いつかは会いたいと思っていた矢先だった。
何かの見間違いではないかと思ったが、何度見返しても俺が入れた彼女たちの名前が表示されている。
心臓の音が聞こえてくるようだった。
俺はスマートフォンを手に事務所から出た。階段の小窓から入ってきた風が狭い通路を流れ、ほんの少しだけ暑さを忘れられるような気がした。
返信ボタンを押し、電話を掛け直してみる。
1回目のコール……出ない。
2回目のコール……出ない。
3回目……4回目……何度もコールするがなかなか出ない。
もう出ないかもしれないと思った8回目のコールでやっと繋がった。
「もしもし。こちらは
「皆実くん? えのかわです。えのかわよしのです」
「よしの? ほんとによしのか?」
「そうよ」
「いったいどうしたんだ? 何かあったのか?」
「あの、またあとで掛け直してもいい?」
「あ、ああ…わかった」
「じゃあ、6時頃また電話します」
「わかった。待ってる」
それからは仕事は何も手につかず、体調がよくないと言って早めに事務所を出た。
次に彼女からの電話を受けたのは、新宿駅のプラットホームだった。
6時ちょうど、知らない番号から電話が掛かってきたと思ったら、よしのだった。
「もしもし、えのかわよしのです。今大丈夫ですか?」
「ああ、周りがちょっとうるさいけど聞き取れる。それで何かあったのか?」
俺はスマートフォンを耳に押し付け、反対側の耳を指でふさいだ。
「あのね。けいちゃんが…く……よ」
「何? ごめん、よく聞き取れなかった。もう一度言ってくれ」
「けいちゃんがね、亡くなったんよ」
「え……?」
あまりのことに俺の頭は理解が追いつかず、しかし血の気が引いていくのだけは分かった。
頭がぐわんぐわんと回転するようだった。
「今、けいが亡くなったって言ったのか?」
「そうよ。四十九日も終わってもうお墓に入ってるの。みんなに知らせてるんだけど、皆実くんのことをふと思い出して、伝えておいたほうがいいかなと思って。連絡先がわからなかったから、ご実家に手紙で連絡したら番号を教えてもらって…。でもちゃんと通じるなんて思わんかった…」
『あの、けいが…』
俺は言葉を失い、立っているのがやっとだった。目の前の景色は徐々に色をなくし、モノクロームの世界へと移り変わっていくが、反対に俺の記憶の中の彼女が色鮮やかに
「もしもし? 聞こえとる?」
「ああ、聞こえてる。けど、急な話だから、なんと言っていいのか…」
「そうよね、知らんかったもんね。わたしずっと言わんかったもんね…。けいちゃん、ずっと病気しとって、最近は病院に入院しとったんよ。それがね、急に体調が悪くなって、すぐに亡くなっちゃったんよ…。ねえ、聞こえとる?」
「ああ、ちゃんと聞こえてる。それは…なんて言っていいか…残念だったな……」
「うん………」
よしのも涙ぐんでいるのが声でわかった。
「ところで、お前は大丈夫なのか…?」
「わたし? わたしは、もう大丈夫。ありがと」
それはよしののせいいっぱいの強がりだった。
「よかった…」
俺はそれだけを言うのがやっとで、気が付くと涙をこぼしていた。このままでは冷静さを保てそうになかったので、あとでメッセージを送ることにして電話を切った。
電車が停まるたびに人の波が押し寄せ、プラットホームに立ち尽くす俺を
いったい何本の電車が目の前を通り過ぎていっただろう。人々の喧騒も俺の耳にはまったく入らなかった。
「スミマセン…」
大きなスーツケースを引きずった旅行者にカタコトの日本語で声を掛けられ、ふと我に返った。
俺は家に帰ると居ても立ってもいられず、土曜日の一番早い飛行機のチケットを取った。
よしのにそうメッセージを送ると、駅で待っていてくれるとすぐに返事がきた。
*
電車に揺られ、眠い頭でぼんやりと外を眺めていた。
山手線を品川駅で降り、京急線の乗り換え口へと向かった。
朝早いにもかかわらず、プラットホームはスーツケースを持った人々でごった返していた。
床にはいろいろな案内が書いてあり、どこに並べばいいのかよく分からないが、とりあえず空港へ向かいそうな人の列に回ると、すぐに赤い列車が滑り込んできた。
俺は奥の扉の近くに立ち、外を眺めた。
車内は真夏の熱く湿った空気と人々の熱気が入り混じり、むせ返るようだった。
列車はゆっくりと進み、やがて川を渡る。
クーラーが効きはじめるとすぐに汗は引き、体が冷えていった。寒いくらいだった。
飛行機に乗ると、シートベルトをしたまますぐに眠ってしまい、気が付くと着陸のアナウンスが流れていた。
空港からはリムジンバスに乗り駅へ向かう。
車内に人はまばらだった。バスはすぐに高速道路に乗った。
いろいろな人の声を覚えているけれど、彼女たちの声はいつでもはっきりと思い出せる。
春の穏やかな日差しに包まれ、
けいの方言の混じる快活なしゃべり方と、よしのの落ち着いたしゃべり方。
ふたりのしゃべり方が違うから、違う声のように聞こえていたけれど、どちらも同じ声をしていたんだなといまさらながらに思った。
高速道路を降りてしばらくすると、記憶の断片とところどころ一致する、懐かしい街並みが目に映った。
駅が近付いてくるにしたがって、心臓の鼓動が早くなった。
バスを降りると、むっとした空気とセミの声に包まれた。
駅の周辺はずいぶんと変わり、こざっぱりしていた。
待ち合わせに指定した、外からでも入れる駅の喫茶スペースはなくなり、そこにはコンビニエンスストアが入っていた。
ここはもうだんだんと知らない街に変わりつつある。
ひょっとして彼女は来てくれないんじゃないか。
唐突にそんなことを思った。
けれど、すぐにその姿が目に飛び込んできた。
彼女は柱にもたれるようにして、ひとり
このまま声を掛けずに帰ってしまおうかと思ったくらい、その姿は
俺は彼女が見える場所からわざとらしく電話をした。
みっつのコールで彼女の声が聞こえてきた。
「…はい」
「もしもし…俺だけど。今、駅前にいる」
彼女はあたりを見回すと、こちらに気付き小さく手を振った。
俺は少し頭を下げ、緊張しながら大きく深呼吸をした。
『どんな顔をして会えばいいんだろう』
一度目をしっかりとつぶり、意を決して彼女に向かってゆっくりと歩いていった。
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