月の光

 高校最後の年となった。

 いよいよ俺たち進学希望の学生は、大学受験に向けて本格的に勉強をしなければならなかった。

 部活動も二の次だった。運動部は早々に引退することが多かったが、天文部の活動は受験生だからといってとくに制限はなく、いつまでも来たい人は来ればいい、というようなスタイルだった。ただ天体観測会への参加は実質夏休み前までだった。

 クラス替えはなく、教室は下の階に移っただけで、相変わらず学校でよしのやけいと会う機会はほとんどなかった。


 けいの名前は季節ごとに発行される校内新聞でよく見た。

 装飾された四角い枠で囲われた図書部の欄。そこには本を紹介するコラムが掲載され、毎回名著と呼ばれるものと最近話題のものが1冊ずつ紹介されていた。その文章を書いているのがけいだった。彼女の文章には人を惹きつける魅力があり、そのコラムを読むだけで本の世界が頭に思い浮かび、参考書や問題集ばかりだった俺はそれを読むのをひそかな楽しみにしていた。

 そんなけいだったが、最近、学校を休みがちになっていたようだった。

 よしのとは3年になって塾が同じだったため、たまに会うことがあり、その時にけいのことを聞いた。けれど、その理由については、はっきりとしたことは教えてもらえず、いつも曖昧あいまいにごまかされるだけだった。そのうちに俺も受験勉強で頭がいっぱいになり、いつしか彼女のことを考えることもなくなっていった。


 *


 ある日の放課後、下駄箱で靴を履き替えていると、中学時代からの知り合いが後ろから声を掛けてきた。相変わらず声のでかいやつだった。それにどうも苦手なやつだった。

「お、皆実みなみ! なんだ、ひとりか。今から帰りか?」

「ん? ああ、そうだけど、なんだってなんだよ。いつもひとりだけど?」

「中学の時、お前とうわさになっとった女子いたじゃんか。一緒に帰らんのか? ふたりともこの学校じゃろ?」

「それは昔の話だって」

「そんなこと言って、実は隠れて付き合っとるんじゃないんか? ふたりと付き合っとるんか? うらやましいのぉ」

 そんなんじゃない。そんな言い方はやめろ。ふたりに失礼だろう。こいつはいつもそうだ。

「ほんとにそんなことないって。最近は会ってもないし、それにぜんぜんタイプじゃないし…」

 俺はこいつとのこの話題を早く終わらせたくて、心にもないことを言いながら靴を履いて一歩踏み出した。

 その時、ちょうど同じように隣の下駄箱の列から出てきたよしのと目が合った。

「あ…」

 一瞬で血の気が引いた。今の会話はすべて聞かれているはずだ。どうしてあんな言い方しかできなかったのか。後悔しても遅かった。

「………」

 よしのは何も言わなかった。そればかりか、申し訳なさそうな顔をして目を伏せた。

「皆実、どうした? 帰らんのか?」

 ほんの1分にも満たない時間。俺はこいつにここで会ってしまった自分を、そしてこいつを呪った。

 いや、俺は自分の不甲斐ふがいなさを他人のせいにしたかった。

「え? あ、ちょっと靴に石が入ってたみたいだったから。あ、やばい、バスの時間。先に帰るわ…」

 俺は逃げるように玄関を去り、校門を出ても後ろを振り返らなかった。

 彼女と目を合わせるのがこわかった。


 次の日、俺とよしのは塾にいた。

 クラスは違ったが、受ける授業が重なることは何度かあった。

 この日もそんな授業のひとつで、受講する生徒が多く教室の席は早々に埋まっていたが、俺の横の席が偶然空いていて、それを見付けたよしのが座った。

 昨日あんな事があったから、とてもバツが悪い。

 なにか言われるかと思ったが、彼女は座ったまま黙ってテキストを広げていた。

「昨日、聞いてただろ…?」

 俺は沈黙に耐えきれず、彼女だけに聞こえるようにつぶやくようにして言った。

「うん…。でも、わたし気にしてないから」

「………」

 俺は言葉が出てこなかった。

「…受験、お互い頑張ろうな」

 そして唐突にこんなことを言ってしまった。何を言っているのだろう。今言うことじゃないだろう。そう頭では理解しているはずなのに…。

「う、うん…。皆実くん、あのね、前みたいに一緒に勉強できたらうれしいんだけど…。あの、今日なんて…」

「わるい。今日は終わったら早く帰らなくちゃいけないんだ」

「そ、そうよね。家も遠くなっちゃったし…」

「ああ、もう前みたいにはいかないかもな」

 俺は中学生の頃に図書室で一緒に勉強したことを思い出したが、その時とは取り巻く状況があまりにも違っていた。けれどももし、よしのにけいのような強引さがあったら、俺はどのように応えていたのだろうか。自分のことよりも、よしのとのことを優先させていただろうか。

 いや、今はそんなことより、昨日のことをちゃんと詫びるのが先ではないか。本気で言ったことじゃないってことを…。

「うん…。でも、勉強はそれぞれのペースでやったほうがいいもんね。急にこんなこと言ってごめんね…」

 俺は返す言葉を探していたが、すぐにチャイムが鳴り、同時に講師が入ってきてそれっきりになってしまった。


 *


 秋も深まった夕暮れ時。17時を過ぎるとあたりはもう薄暗く、シャツの襟元から忍び込んでくる冷たい空気と、葉を落として裸になった木々の影が、もの悲しさをより感じさせるようになってくる。

 高校の坂道を下り、バス停へと向かっていく時、前を歩く見覚えのある後ろ姿があった。

「あれ、よしの?」

「あ、皆実くん…」

「こんな遅くまでどうしたの?」

「ちょっとクラスの用事をしてたら遅くなっちゃって」

「え? ひとりで?」

「ううん、そんなわけないよ。さっきまで他のみんなと一緒だったんだけど、帰る方向が違うから」

「あ、そっか。ひとりなのかと思ってびっくりした」

「心配してくれてありがとう。皆実くんもクラスの用事?」

「うん。委員会の用事でちょっと遅くなってね」

「そうなんだ…」


 歩道の脇の草むらからはコオロギの声が聞こえていた。

「皆実くんはバスだよね?」

「うん」

「じゃあ、ここでお別れだね」

「よしのは歩きだろ? もう暗いから送っていくよ」

「いいよ。皆実くん帰るの遅くなっちゃうし。……あ…ねえ、ちょっと待って」

 俺はよしのの言葉を待たずにバス停を通り過ぎ、横に彼女が並んだ。

「ありがとう…下のバス停まででいいから」

「こうやって話をしながら歩くのって久しぶりだな」

「そうね。前はよく3人で歩いたわね」

「そうだな…俺たちずいぶん変わっちゃったな…」

「高校生になるとやっぱり違うよね。しかも受験生だしね」

「けいはどう? 元気?」

「うん、まあまあかな…」

「まあまあか…」

 それからしばらくふたりは黙って歩いた。


 青紫色の夕空に三日月がかかっていた。

 その光はさえざえとして、くっきりと俺たちの目に焼き付いた。

「月がきれい…」

「…ねえ、よしの」

「ん?」

「『月の光』って曲知ってる?」

「『月の光』? ううん、知らないと思う」

「ピアノの曲なんだけど、すごくきれいな曲なんだ。ほんとにこんな月の夜の情景を楽譜に落としたんじゃないかって思うほどで…。ピアノの音なのに、星がたくさんきらめいているなかで、月の光がひときわ明るく輝いているように感じるんだ。よかったら聴いてみて」

「なんだか、ロマンチックね。けいちゃんが話してるみたい」

「けいが?」

「ううん、なんでもない。もう一回曲の名前を教えて」

「ドビュッシーっていう作曲家の『月の光』。あ、確か昔買ったピアノのCDに入ってたから持ってくるよ」

「ほんと? ありがとう、楽しみにしてる。けど、皆実くんがピアノの曲とか聴くと思わなかった。好きなの?」

「似合わない?」

「ううん、そうじゃなくて、なんていうか、ただ純粋に、ピアノを聴くんだなって思って」

「なんだそれ。ピアノだって聴くよ。というより、たまたまなにかで聴いて好きになった曲がピアノの曲で、そこからいろいろ聴くようになった感じかな」

「そうなんだ。ピアノを聴くなんてぜんぜん知らなかった…」

「よしのはピアノなんて聴かない?」

「うん、あんまり知らない」

「じゃあCDの他の曲も聴いてみて。きっと好きな曲もあるよ」

「そうだといいな…」

 ふたりはすこし笑い、また黙って歩いた。

「ねえ、よしの…」

「なに?」

「あの…」

 俺はいつかけいから渡された手紙の話をしようと思ったが、今はやめておいたほうがいいと思い直した。

「やっぱり、なんでもない」

「うん…」


 やがてバス停に着くと、俺とよしのは短いあいさつの言葉だけを交わして別れた。

 お互いもう少し一緒にいたい気持ちを口に出すことはできず、俺はバス停に残り、よしのは振り返ることなく暗闇へと消えていった。


 俺は夜空を見上げた。

 月の光と街の灯りでぼんやりと淡く照らされた夜空には、電線が何本も張り巡らされ、風に揺れたその五線譜の間で星の光がたゆたい、まるでダンスを踊っているように見えた。

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