あの海へ

 まだ梅雨入り前の、ある晴れた土曜日。

 午前中で授業が終わった後、今日も部活だけれど、他のクラブの都合で体育館が使えるのがいつもより1時間遅くなるというので、弁当を食べたあとも教室で時間をつぶしていた。女子バスケ部の本川ほんかわさんもさっきまで教室で弁当を食べていたが、「自主練行ってくる」と言い残して出ていった。練習熱心なものだ。

 教室にはみなとも残っていたが、教科書を広げてなにかやっているようだったので、僕は声を掛けずに窓際で外を見ていた。

 窓ガラス越し、体育館の屋根の向こうに海が見えた。


 特にすることもなくぼんやりと時間を過ごしていると、教室の扉を開けてけいとよしのが入ってきた。

 一瞬どきりとして、ふたりもちょっとびっくりしたような顔をしてこっちを見たが、湊を見付けるとそちらの方に近付いていった。どうやら彼に用事があるようだった。

 僕は話を聞いちゃいけない気がして、ガラスのはまった少し重い引き戸を開け、ベランダに出た。

 運動場から野球部のキャッチボールの音やかけ声が聞こえ、すぐ下を陸上部が走っていった。

 太陽の日差しはまだ弱いとはいえ、外の運動部は暑そうだ。まあ体育館も蒸し暑く、それはそれで体にこたえるけど…。

 そんなことを思いながらも、実は教室の中の様子が気になって仕方がなかった。

 ふと視線を感じて教室を見ると、よしのがあわてて目をそらしたような気がした。僕はなにも気づかなかったふりをして、再び外を眺めた。

 体育館のずっと向こうにはきらきらと光る海が見え、反対側は丘に沿うように住宅街が広がっている。高台の公園はここからは見えないようだった。


「ねえ、あの海に行ってみん?」

 気が付くと僕の後ろにけいが立っていて、よしのもちょうどベランダに出てくるところだった。

「海に? どうやって?」

 あまりにも急な提案に、僕は思わず聞き返していた。

 いつも見ている海だったけれど、あそこに行こうなんて思ったことは一度もなかった。行けると思ったことも一度もなかった。

「自転車かバスとかかねえ」

「結構遠いんじゃないの?」

「遠そうよね。うちも行ったことないんよ」

「ふーん、そうなんだ。ねえ、湊も海に行くの?」

 よしのが閉めようとしていた引き戸のすき間から、僕はまだ教室の中にいる彼に声を掛けると、ふたりも釣られるようにそっちを見たが、同時にけいが「あっ」と言ったのを聞き逃さなかった。

 てっきりふたりと湊はこの話をしているのかと思ったが、ちょっと違ったらしい。微妙な空気が流れている。なんだかまずかったのかもしれない。

 けいとよしのは再び教室に戻り、僕もその後に続いたが、湊はそんな僕たちを見てなにかを察したのか、

「海? 僕は週末は塾があって忙しいから、3人で行ってくれば? あ、そろそろ時間だからもう帰らんと」

 そう言うと、彼はカバンを手にあっさりと教室から出ていった。

 けいとよしのは「じゃあねー」「ばいばーい」などとその背中に声を掛けていたが、扉を閉めて出ていったのを見届けると、けいはほっとしたような表情で続けた。

「どうする? 海行く? よっちゃんも来るよね?」

 よしのはちょっと戸惑ったようだったが、こくりと頷いた。

「じゃあ、いつにしようかねー。お弁当はどうしよっか?」

 僕は返事をするタイミングを逃したまま、ふたりの間で話が進んでいった。

 誰もいなくなった教室はがらんとしていて、クラスの人間が誰もないのに、別のクラスの女子ふたりと話しているなんて、僕はなんだかいけないことをしているような気になってしまった。誰か来やしないかと冷や冷やした。

「そういえば、よしの、さん…? 今日部活は?」

 声を掛けるとふたりはすぐに振り向いた。

 よしのはバドミントン部だった。ある時、部活中にボールがてんてんとバドミントン部のほうに転がっていき、そのボールを取ってくれた女子がどこかで見たことのある人だと思っていたら、それはよしのだった。ちょっとの間、見つめ合ったようになってしまってすごく恥ずかしかった。

 屋内の運動部は、体育館を半分に区切っていくつかのクラブが入れ替わりで練習していたりするので、それからもよしのの姿はそれなりによく見ていた。たまに目が合うこともあった。向こうも当然僕のことを意識しているはずだ、というのは自意識過剰だろうか。

「なんだ。よっちゃんの部活知っとったん?」

「ま、まあね。それで、よしのさん、部活は何時から?」

「体育館が使えないから、今日はお休みだって」

「そうなんだ。いいなぁ…」

 そう言うと、よしのは少し恥ずかしそうにしていた。よしのと普通に会話をしたのはこれが初めてかもしれない。

「皆実くんは、あの…これから部活なの?」

「うん。1時間遅れで始めるんだって」

「そうなんだ、たいへんだね」

「でも土曜日だから、早く帰れるし」

「うちも今日は図書室が閉まってるからお休みよ」

 僕とよしのの会話に割って入るようにけいが言った。けいが何の部活をしているのか知らなかったが、図書室が閉まっているからってことは図書部なんだろう。てっきり運動部だと思っていたので、意外だった。

「それで、いつ行く? 海」

 けいのそんなひと言で話が引き戻された。海に行くのはもう決定事項のようだった。それからは彼女のペースで話が進んでいく。

 僕は最初あまり乗り気ではなかったが、彼女たちの話を聞いているうちに、ひょっとして面白くなるんじゃないかという気持ちが芽生えていた。

 そして6月最後の土曜日は授業もないし部活も休みだから、晴れたら行こうということになった。

 けいの思いつきから突然決まった小さな旅行。

 いつも見ているだけの海はどんな場所なのだろう。

 まだほとんど知らないふたりと行くという緊張感より興味がまさった。

 そうだ、部活から帰ったら今日もあの高台の公園に行ってみよう。

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