琥珀色の夕暮れ

 それからしばらく、ふたりに会うことはなかった。

 ふたりが僕のクラスを訪ねてくるなんてこともなかった。

 僕が訪ねていくべきだったのだろうか。同じ苗字だからおそらく別々のクラスなんだろうとは思うけれど、まさかクラスをひとつずつ回っていくわけにもいかないし、そもそもそんな度胸なんてなかった。もし会ったとしても、なんの話をすればいいのかもわからない。

 だから、これまで通りの学校生活を送っていた。

 午後までおとなしく授業を受けて、それからはバスケットのクラブ活動。最近やっとボールに触らせてもらえるようになった。そして家に帰ったら夕飯を挟んで宿題をしてテレビを見て、お風呂に入ったらもう一日も終わり。

 次の日も、また次の日もその繰り返し。気が付いたら一週間はあっという間に過ぎていく。けれど、毎日はそれなりに充実していた、と思う。


 *


 その日は特別に寒い日だった。空を見上げると薄い灰色の雲がかかり雪でも降りそうな気配だった。

 クラブ活動が休みで、学校が終わるとすぐに家に帰ってきた。

 家には鍵がかかっていて、チャイムを鳴らしても誰も出てこなかったので、合鍵を使って玄関を開ける。するとどこからか鈴の音がして、こはくが寄ってきた。

「こはく、ただいま」

 こはくはにゃーという口の形をして声を出さずに鳴き、足元にすり寄ってきた。

 僕はこはくと台所へ行き、冷蔵庫から麦茶を取り出してコップ1杯飲んだ。冬でも飲み物は冷たい麦茶だった。

 次に2階の自分の部屋に行き制服を着替え、ジャンパーを羽織ると、よしのからもらってそのまま机の大きい方の引き出しにしまってあった紙包みを広げた。

 もらった時からしまい込んでいたマフラー。手にしてみると最初は冷え切っていたが、持っているところがすぐに暖かくなった。それを首に巻いてみる。少し長めの端をジャンパーの中に入れてみた。

 家の鍵だけをズボンのポケットに突っ込み玄関で靴を履いていると、鏡にマフラーを巻いた自分の姿が映った。誰も見ていないけれど、ちょっぴり恥ずかしかった。

 僕の横におとなしく座っていたこはくが、そんな僕の姿を見て首をかしげたようだった。

「あ、そうだ」

 履きかけの靴を脱ぎ、また2階に行くと、机の引き出しから今度は手袋の入った紙包みを取り出した。こっちはけいにもらったもの。ジャンパーの両方のポケットにしまって玄関へと急いだ。

「こはく、留守番お願い」

 僕はおとなしく座っていたこはくに声を掛け外に出た。


 玄関を出たとたんに風が吹き付けてきた。耳が取れそうなほど冷たく、僕は首をすくめマフラーを少しきつめに巻いた。

 それからジャンパーに手を突っ込み、高台の公園へと通じる家々の裏道を早足で歩いた。

 坂道を歩いていると体はすぐに暖かくなり、マフラーを少し緩めた。ほてった体には冷たい風が心地よかった。


 高台にある公園。広くないこの公園の一角からは、遠く海へと至る街並みが全部見渡せた。僕はこの眺めが好きで時間があるとよく来ていた。

 公園の下には中学校、その先には街を横切り一直線に山へと吸い込まれていく新幹線の高架、花見で有名だというぽっこりとした小山があり、そして遠く瀬戸内海に浮かぶ島々が見える。

 傾きかけた太陽の光が、淡く霞がかかったような空を照らし、この景色は少しずつだけれど、ほんのりと黄色みを帯び始めていた。

「あ、ほんとに皆実くんだ…」

「ほら、だから言ったでしょ。坂を上がっていくのが一瞬見えたんよ」

 後ろで人の話し声がして振り向くと、そこにはよしのとけいのふたりがいた。

 あの日以来会うのは初めてで、なぜだか知らないが、一気に緊張してしまった。

 ふたりは「こんにちは」とあいさつをしてきたが、僕は急な状況にどぎまぎしてしまい、

「う、うん」

 と返事をするのが精一杯だった。

 そしてふたりは、

「こんなところで会うなんて偶然ね」

「ほんとよね」

 などと僕に向かって話しかけてきたが、それはどこかわざとらしく聞こえた。

 そしてふたりは当然のように僕の横まで歩いてきて、同じようにこの景色を眺めた。

「わー、いい景色ー! へー、こんな景色だったっけ。あ、新幹線!」

「ほんとだ!」

「ねえ、よっちゃん見て! あそこ、船が見えるよ」

「ほんと? どこ?」

 ふたりはまるで僕がいないかのように、この景色を楽しんでいるように見えた。けれど話をしようとすると緊張してしまうので、僕がいないと思ってもらえるのは好都合だった。

 楽しそうに話すふたりのやり取りを見ながら、散歩にでも来たのだろうかと思ったその時、けいが突然話しかけてきた。

「皆実くん、ここはよく来るん?」

「う、うん。まあね…」

 不意に聞かれた僕はそう答えることしかできなかった。

「いい景色じゃもんね…。何年ぶりかねー、ねえ、よっちゃん」

「小学校以来じゃない?」

「え、そんな? それにしても疲れたわー。足も痛いしもう歩けんよ」

「あんなに早く歩くから…」

「早く行かんと、いなくなったらどうしようって言ったのは誰だったんかいね?」

「ちょ、ちょっと……」

「あははは」

 なんだかよくわからないけれど、夕陽でオレンジ色に染まってきた顔のふたりはとても楽しそうだった。

「けいちゃん、足ほんとに大丈夫?」

「ううん。大丈夫じゃないけえ、帰りはよっちゃんおんぶして」

「えー、ムリムリ」

 よしのは本当に困ったような顔をしていた。

「うそよ!」

 そう言ってけいはケラケラと笑った。

「ねえ、久しぶりにブランコやってみん?」

「え、ブランコ?」

「そう。ほらあそこ」

 そう言ってけいが指さした公園の入口近くにあるひとつだけのブランコ。

 彼女が小走りで駆けていくと、よしのがそれに続いた。


 けいが座り、よしのが後ろから押し始めた。

 キー、キーという一定の音を鳴らして揺れるブランコ。

「よっちゃん、あのマフラー…」

「うん」

「来てよかったね」

「うん」

 そんなふたりの会話が聞こえた。


 見渡す風景はあめ色に変わっていた。

 街並みも、海も、山も、空も、すべて。

 そして、振り返った時、ふたりはもういなかった。

 ただブランコだけが揺れ、彼女たちの話し声が明るい響きとなって、いつまでもそこに残されているようだった。

 琥珀色の夕焼けがこの丘の上の街を包んでいた。

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